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旅に出るならどこへ行きたい?

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旅の日

 

旅に出るならどこへ行きたい?

 

 

海外ならニューヨークだけど

ここは、「気合い」を入れないと

行けないところ

 

旅費もかかるし…

 

 

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ということで、国内

 

ニッポン人は

まず、ニッポンを知らなきゃね

 

「今日はなんの日」で

旅関係のお題のときに

しつこく書いていますが、

 

これは、なんと言おうと

「吉野山」(奈良県)

何度行ってもいい。

 

この山は、大学生時代の 

長い夏休み、春休みに通ったものです

 

春の桜は有名

 

緑の吉野

 

秋の紅葉

 

冬もいいらしいが 

冬は行ったことがない

特に、雪の吉野に登ってみたい

 

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ここにはドラマがある

 

元々は修験道の山

 

主なものでは、

古くは大海人皇子(天武天皇)が、

隠遁生活をし

大津朝廷へ出撃(壬申の乱)。

 

 

義経が逃げてきて

「ここから先は女人禁制だから」と

静御前と別れる。

月岡芳年「芳野静判官別離図」

 

それから、「異形(いぎょう)の王権」

後醍醐天皇

京都を追われて南朝を開く

京都に還らぬまま没。

 

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プログレ・ロックバンドの

ゴダイゴ(1977~1980年頃の画像)

バンド名の由来は、後醍醐天皇らしい。

ミッキー吉野は自分の姓「吉野」から

吉野朝廷→後醍醐天皇と連想でき、

子供のころから好きだったから

と語っていたとか…

 

え、ゴダイゴ、古くてわからない?

『ガンダーラ』

『モンキーマジック』

『銀河鉄道999』のバンド…

知らないかな?

 

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一方で、

秀吉の大花見と

華やかな面を持っていたり…

(今でも桜はすごいですが)

悲と喜が同居している不思議な山です

 

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なーんて、

教科書に登場するような

人物でしか、

吉野を見てこなかったのですが、

気合を入れて調べてみたら、

 

神武天皇の時代から

幕末/明治維新に至るまで

吉野にまつわる話が

ありました。

 

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まず、

神武天皇による「神武東征」

 

(『古事記』と『日本書紀』では、

若干の記述内容の違いはありますが…)

あらすじはこうである。

 

天つ神の御子(=のちの神武天皇)は、

九州を出発し東征に向かったが、

生駒山を越えようとすると

長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗に遭い

退散した。

 

そして、今度は熊野から

皇軍を進めることになる。

そこから、八咫烏(やたがらす)に導かれながら

紀伊山地を北上し、

やがて、宇陀の穿(うがち)に到着する。

 

******

八咫烏(やたがらす)

 

高皇産霊尊(タカミムスビ)によって

神武天皇のもとに遣わされ、

熊野国から大和国への

道案内をしたとされる。

一般的に三本足の姿で知られ、

古くよりその姿絵が伝わっている。

 

(日本サッカー協会のシンボルにも

なっています)

 

 

『古事記』では、その途中、

3カ所で「尾生ひたる人」に遭遇する。

『日本書紀』では、穿に到着後、

吉野周辺を巡幸して遭遇している。

その後、御子は橿原宮(カシハラノミヤ)で

帝位について神武天皇となる。

 

『日本書紀』では、金色の鳶が飛んで来て、

皇弓の弭(ハズ=弓の先端)に止まり、

まるで稲光のような光を発して、

ついに長髄彦(ナガスネヒコ)の

戦意を打ち砕いて従えたとある。

 

神武天皇

 

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上記の

「尾生ひたる人」とは

 

神武天皇東征のおり、

当地で光る井戸から出てきた

尾のある人と出会い、

 それが国栖人(くずびと)であったと

『日本書紀』や『古事記』などは

伝えています。

古代、奈良県吉野地方にいた

土着の住民のこと。

(「しっぽ」がある人がいたのか???)

 

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応神天皇

 

 

側に控えているの老人は

忠臣 武内宿禰

 

応神天皇の母は、

妊婦でありながら

自ら海を渡って

朝鮮半島で戦った神功皇后

月岡芳年筆

「日本史略図会 第十五代神功皇后」

(夫の仲哀天皇は、

九州で熊襲の矢に当たり急死)

 

今風の神功皇后のイラスト

 

イラストレーター山田サトシ 

2012.12.31

 

おー、かっちょいい…

 

 

 

帰国して出産

武内宿禰が抱いている赤ちゃんが

応神天皇

 

国栖人が応神天皇に酒を献じて

歌を歌ったという(古事記)

 

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国栖奏(くずそう)

 

応神天皇時代に起源を持つ神事で、

今もなお伝えられています。

 

毎年旧正月十四日に、吉野町南国栖の

天武天皇を祀る浄見原神社で行われます。

凛と空気の澄んだ早朝から

精進潔斎(しょうじんけっさい)をした

「翁筋」といわれる家筋の男性、

舞翁二人、笛翁四人、鼓翁一人、歌翁五人が

神職に導かれて舞殿に登場。

 

朗々とした歌翁の声とともに、

舞翁の振る鈴の音が

冷えきった空気にこだまして、

参拝者の胸に

古代の息吹をよみがえらせてくれます、

 

とのこと。

 

 

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雄略天皇(古事記)

 

イノシシ狩りをする雄略天皇

 

雄略天皇が吉野の宮に

行幸したときの恋の逸話。

 

吉野川のほとりで美しい乙女と出会い、

すぐに結ばれました。

その後、雄略天皇は、

再び吉野の乙女の家を訪れ、

舞いを所望します。

 

この吉野の宮付近と考えられている

阿岐豆野(あきずの=吉野の宮の付近と

考えられる)で、

もうひとつ紹介したい逸話があります。

 

狩りにでかけた雄略天皇は、

腕をアブに噛まれてしまいます。

すると、トンボが飛んできて、

そのアブをくわえて飛び去りました。

 

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この『古事記』の逸話について

 

こういう説を唱える人がいる。

 

吉野川の浜に童女がいて、

きれいだから童女と「婚」し

そうしておいて、

宮に還って御座している。

 

 

吉野川(紀の川) 宮滝河川

上流域には渓流区間が連続

(吉野川は、和歌山県に入ると

紀の川と呼ばれる)

 

 

この「宮」は宮都である

長谷の朝倉宮とも考えられることが多いが、

吉野宮とも考えられる。

 

定められないように書いてあるのは、

表立って記したくない

事情があるからであろう。

 

すなわち、

天皇は童女を吉野宮へ連れ帰っておらず、

ということは、

宮で「婚」したわけではない

ということである。

 

「吉野川之浜」で青姦に及んでいる

と考えられる。

(青姦[あおかん] = 野外でエッチすること)

 

あ、「青姦」という語は、

引用元そのままですからね。

ワタシがこの場で考えたものじゃ

ないですよ!

 

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吉野への行幸

 

 『日本書紀』『続日本記』に記された

吉野宮行幸は、

応神天皇19年10月の行幸をはじめに、

雄略2回・斎明1回・天武2回・

持統33回(在位中31回)

文武2回・元正1回・聖武3回の

計43回におよびます。

 

『日本書紀』には応神天皇や雄略天皇の

吉野行幸の記事が見られるものの、

確実に離宮が存在したと言えるのは、

斉明天皇2年(656年)にある

吉野宮造営の記事以降のことになります。

 

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(前述の)

天武天皇隠遁生活

および

大津朝廷に出撃(壬申の乱)

 

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持統天皇の吉野行幸

持統33回(在位中31回)

 

その目的は、

「まじない、夫との思い出、夫の遺命」

 

「国家が事なく、

安定していくことを祈るため」

 

「温泉が出て、

吉野宮で温泉の湯に浸りながら、

禊の神事を重ねて

心身をリフレッシュし続けた」

 

「カリスマ的天皇であった

夫天武天皇の威光を借りることで、

天下を維持しようとした」

 

などなど、諸説あり

 

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前述の

「義経」の時代

 

「後醍醐天皇」の時代

 

そして

 

秀吉の花見の時代を経て

 

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時代は幕末 天誅組

 

天誅組のアクション

 

明治維新よりさかのぼることわずか5年、

文久3年(1863)8月17日。

 

孝明天皇の大和行幸に先立ち、

天皇の鳳輦(ほうれん = 天皇が行幸に際して

座乗した専用の乗物)をお迎えすべく

大和五条の幕府代官所を襲撃した天誅組。

 

馬に乗っているのが

中山忠光(後述)

 

いち早くその天領7万石余りを支配下に置き

新たな時代の到来を宣言しましたが、

襲撃の翌日の18日に起こった

京都における大政変

(八月十八日の政変)により、

大和行幸は延期となり、皇軍の先鋒という

天誅組の大義名分は一夜にして失われます。

 

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八月十八日の政変とは、

 

幕府が、

公武合体の立場をとる

薩摩藩や会津藩などに、

攘夷の立場の長州藩を

京都から追放させた。

長州藩に同調していた

三条実美(さんじょうさねとみ)などの

7人の公家も京都から

追い出された(七卿落ち)。

 

「七卿落ち」の様子を描いた錦絵

 

(このとき、薩摩藩は「公武合体派」

それが、倒幕に至るまでの転向を

書くと気が遠くなるので、

自分で調べてください)

 

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一転して幕府、各藩からの

追討を受けることとなり、

奈良県各地を転戦した彼らは、

満身創痍の状態で

奈良県南部の山塊を踏み越えて9月24日、

武木村(現・川上村武木)へ到達します。

 

 

村での会食の後、足の郷道を越えて

鷲家口(現・東吉野村小川)へと

向かう一行でしたが、

既に鷲家口は追討軍で固められていました。

 

最後の会食をとった武木村から、

天誅組終焉の地鷲家口まで、

新しい時代の到来を夢見て、

40日余りの戦闘の後、

奥吉野に散りました。

 

吉野でパッと咲き、

パッと散った、

「維新の魁・天誅組」

 

天誅組を組織した

土佐藩出身の志士 吉村虎太郎

 

吉村は自刃しようとしたが

その前に一斉射撃を浴びせられて絶命した。

享年27。

 

辞世の句は

「吉野山 風に乱るる もみじ葉は

我が打つ太刀の 血煙と見よ」

 

 

天誅組の主将

公家 中山忠光

 

奇跡的に幕府軍の包囲網を

抜ける事に成功し、

大坂へ脱出した後、長州に逃れた。

 

長州藩は忠光の身柄を

支藩の長府藩に預けて保護した。

 

しかし、元治元年(1864年)11月15日に

長府藩の豊浦郡田耕村(現、下関市)で

5人の刺客によって暗殺された。

享年20。

 

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はい、今日はここまで。

 

日本史好き、吉野好きの

ワタシにとっては、

ちょっと気合を入れましたが、

別に好きではない人にとっては、

どうでもいい内容ですね。

 

今日も猛烈に忙しくて

お昼を食べていません。

帰りに寄ったスーパーも

あまり食料品がありませんでした。

 

昨日と同じ、半額の「冷やし担々麺」と

やっと見つけたサラダ、半額の「ポテサラ」

このポテサラが400g、660kcal…。

こんなデカイの、はじめから

売れないんじゃない?

ファミリー向けかな?

 

でも、意地汚いので完食するつもり。

 

さ、記事が完成。

投稿して、ごはんにしよう。

 

今日も、最後までお読みいただき、

有難うございました。