夕刻 青空が見えたので 散歩でもと思い立った。


同時に 散歩中 どんな思いが胸中に映えてくるかとも思った。


やや冷たい北西風の中 そこに 映えてきた思い等は


「昔日やった選択替えはできないが 生きなおしはこれかでもできる、決して遅くない。


60歳近くにもなってこんな思いが胸中に去来するのは やはりネフローゼ故か。」だった。


川岸近くでは ゲートボールの人々。 座ったまま 何かゲームをやっている人々。

 

スケートボードを練習している人々等 様々だった。川面は北西風によって波だっていた。


北方の山々の頂は まだ白いものに覆われていた。


上空を ロスアンジェルス発上海行きの B787が 西進していった。


娘が帰ってきていた。


皆で夕食をとった。


私の長女と長男は2歳違い。


病身の母も 自身と弟が2歳違い。


弟のおやつをとって食べた。弟の好物を横からすっととって食べたとか


楽しげに話していた。


昭和16年 戦争中の頃 皆 空腹だったという。


明日にむけ 早く安静にして ひびの入った腎臓に血流を増やしてやろう。


それにしても 本当に手がかかるし 神経を使う。





小児科病棟

ネフローゼはみな入院日数が長い。

病棟の主は 我々ネフローゼの者たちだった。

steroidで 顔は膨らみ パジャマズボンのゴムは ゆるゆる それらが我々 ネフローゼの者たちの

共通項であった。


入院中 日曜日を除き 回診は毎日あった。

主治医は 私の胸部や腹部に聴診器をあてると なかなか次の人へと移らなかった。

嫌な時間帯であった。

腹水 胸水等 また 溜まり始めて悪化し始めたのだろうか?。それ故 聴診時間が長いのだろうか

聴診の時間が 他の人より長いと 目を閉じたまま何時も本気でそう思っていた。


だが ある時 他の人より聴診の時間があまりに長いので 聴診器を私の胸部にあてたままの主治医を

睨み返した時があった。

すると 主治医は「合格!!。」と私に言った。我儘で


ネフローゼにすぐ心負けして 病と闘うことを忘れきってしまっている私に 主治医は「心 挫けて


はいけない。 精神的に 負け続けてはいけない。このネフローゼから逃げるな。」


そんな無言のメッセジを私に送ってくれたのだと 私は今もそう感じている。


昭和42年 12月 。今から47年近く前のことである。



ネフローゼで 入院日数が長くとも けっして あなた1人ではないし あなたの子ども1人だけではありま


せん。


いつ好転し始めるか 私 医師ではないので 分かりませんが「理屈抜きで きっと回復するんだ、」


そう 自身に言い聞かせることも必須要素の1つかもしれません、 そうも感じます。



免許証の書き換え 任意保険その他 きょうも いろいろでした。


いろいろあるのは Sochiだけではありません。




















入院日数が 長くなると ネフローゼ同士は 同じ病室になっていく。


4人部屋になると 4つの満月があった。


ところで 一度退院 その後 再発 再入院となると 病室はもとのそこになるとは限らなかった。


空いている病室への再入院となる。


大概そこは 急性の人たちがいる。


それゆえ 私の顔を見て そっと ささやかれていたことは 忘れられない。


「顔が変」 「ほっぺただけが 膨らんでいる。」


「好きでこうなっているわけでない!。」


病室の白い壁に 顔を向けて 舌打ちしたこと 何度もあったと思う。


そのうち 婦長が気を利かせ ネフローゼはネフローゼの病室へ移っていった。



今日も いろいろあった。


疲労のせいか 自分のいいねのところに クリックしてしまった。


早く 床に入ろう。