何気なく 古い新聞をめくっていたら


春山満氏が死去していたことを知った。進行性筋ジスだったという。

思うに 故 氏の言葉は 「むき身の日本刀」のように感じた様に記憶している。

「なくしたものを 100回悔やんでも 何も建設的なものは産まれない。自身に残っているものに

全力を尽くせ。」

私のネフローゼよりも さらに壮絶な病状に見舞われ その中で 私の何倍も 悩み 落ち込み

考え抜いた末 心の深淵から出てきた思いが 結晶化されそんな言葉となって出てきていたのかもしれない。


故春山氏のそんな言葉 自身の病状が安定しいるときに出会えば 自身にとって追い風となろう。

だが 疲労時に出会えば 負担ともなろう。自身のその日 その時の 体調によって 同じ名言であっても

異なって聞こえてくるのでないか、それが正直なところである。


もし彼が私のような者と会い 病の話になったなら 故 氏からは

「何を甘えているのか。ネフローゼという根深い病になったのなら その根深さ以上の生き方を

模索すのが 第1ではないか。何を 嘆いているのか 嘆いているだけの時間が余分にあるのか!」

そんな叱咤激励が飛んできたに相違ない。 合唱である。


過日 主治医からの 無言のMessageを記したら

偶然 その主治医の開業医院に勤務していた看護師さんに会う機会に恵まれた。

主治医は亡くなった事は 私も知っている。

「息子さんがいたはず。帝京大学医学部に進んだと聞いたことがあるが・・・?」

彼女は知らないといったが

「娘さんはいましたよ。」と言葉 折り返してきた。


そう 私が入院していた昭和42年の師走 

主治医の奥さんは 小児科病棟の隣の産婦人科病棟で 女児を出産した。

回診時も 主治医はやけに 嬉しそうだったことを 折り返してきた言葉と同時に思い出すことだ出来た。

































入院日数が長いばかりで好転の兆しが見えない時 や再発が頻繁なころ


笑い・楽しみを求めることをしなくなった時期があったように思う。


笑い・楽しみがあっても 所詮それらは一時のもの それらから心醒めると ネフローゼという


病が えんえんと横たわっている。


一瞬の笑いと比べ えんえんと続くネフローゼ


一時の笑いから醒めた後に感じる慢性的な侘しさ・淋しさ等 その落差が嫌だったのかもしれなかった。


ネフローゼという病に対して 心負けるな 挫けるなと 積極的な文面をつづると 今 主治医から


再発を告げられた人にとっては 傷口に塩をぬりたぐったことになるだろう。


自身にも経験があるだけに 感情的にも傷つく。


逆に この病に対して 消極的な文面をつづると 今はネフローゼから脱して 健常者と同じくらい


社会的自立している人に対し 水を差すことになる。


同じ文面でも 読み手の今の病状によって 捉え方が異なってくるのは当然と感ずる。


今日は送別会である。 私の属している部署から離れていく人たちは どこかほっとしていた。


逆に 私の属している部署に内定している人たちは 「大変なんでしょ?!」と今日も


様子を聞かれた。


就労後のアルコールは 正直 あまり嬉しくない。


腎臓への負担を思うとキャンセルが賢明である。 されどそれもできない。


胃の調子が悪いとか 花粉症がひどくなったとか 様々な演出が今宵の飲み会にも必要である。


とりあえず 出かけよう。


























Aにあった。60近い私と同年である。


彼には障がいがあり ホームに10人程度で暮らしている。


AM~PM3時ぐらいまで 軽作業に従事している。


親元を離れ 20年近くになるだろうか?。


「ホーム変わるから」と言った。


「入ってくる人若くなったし 体のほうもしんどい」とさらに言葉継いできた。


話を聞いているうちに だんだんと内容が理解できて来た。


年齢差 体力差もさることながら Aにしてみれば


自分はこういう経緯で障がいをおってきた。好き好んで障害をおったのではない 。                


20代 30代と・・・・このような疾患を重ね 今に至っている。


そんなことを理解していてほしい。大切にしてほしい。



だが 新たに入ってきた若い人にとっては 今の彼の状況しかわからない。知らない。理解しようともしな


い。新しく入ってきた人たちから 遅い ミスが多すぎる等 罵倒され続けていたらしい。


それゆえ ついに心折れてしまったようだった。


聞いていて 改めて 人間 齢いくつになっても 自身を知っていてくれる人 理解してくれる人


の存在が身近なところに必要なのだ と感じた。