押し付け vs 被害者意識 | Sojourner's Journal

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‘人はみな草のようで、
その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、
花は散る。
しかし、主のことばは、
とこしえに変わることがない。’
Ⅰペテロの手紙1:24&25

ラジオのクリスチャンチャンネルを聞いていると、「イエス・キリストを知らない人々にイエスの福音を話しましょう」と、多くの牧師たちが説いている。これは、マタイの福音書の最終2節から来ていると思う。今まで、「聖霊の導きに従って」という大前提を牧師・教師たちが語るのを聞いたことはない。私は、聖霊の導きに従わない限り、肉による押し付けになると思っている。

 

私の知り合いのひとりに、母親にムリヤリキリスト教を押し付けられて、キリスト教がトラウマになってしまった日本人女性がいる。母親に押し付けられた結果、今は180度正反対のキリスト教・・というか、神アレルギーになってしまっている。その結果、私にある時こう言った。「いっさい神の話をしないでね。」・・・私にとって一番大切な神のことを話すなということは、私は私であるなということである。人との会話の中で、神のことを自然にふと話すことはたまにある。この彼女の言葉には大打撃を受けた。彼女の心が癒されることを祈るばかりである。

 

何らかの問題が起こる場合、私は両者に落ち度があると思う。上記の彼女のケースでは、彼女の母親が聖霊に従うことなく、肉の押し付けをしたのではないかという点が問題である。また、押し付けられた彼女も、いつまでも被害者意識に留まらずに、なぜ母親がそんなに押し付けたのかを考えてみて、母親への愛の内に人生を前に進めていくべきであると思う。被害者意識は何も生み出さない。自分は被害者だと折あるごとに人に言い、周りから安っぽい同情を集めようとする人こそ未熟だと思う。

 

では初めに私が書いた、「聖霊の導きに従って」とはどういうことだろう?先ず、「神は決して押し付けをなさらない」ことを知るべきだと思う。そして次に頭に置いておくべき神のことばは、以下ではないかと思う。

 

「・・・あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれのでもいつでも(穏やかに、そして恐れて)弁明できる用意をしていなさい。」Ⅰペテロの手紙3:15より)(カッコ部分は、英訳では15節に書かれている。)

 

ここに出てくる「希望」のギリシャ語原意は、「期待、信頼」となっている。私たちの内に与えられている「キリストゆえの期待」、「キリストにおける信頼」を人々が見て、それらについて尋ねられる時には、いつでもきちんと説明できるようにしておきなさいという意味である。

 

更に覚えておくべきことは、イエスの究極の教えは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。」(ヨハネの福音書15:12)というイエスご自身のことばである。

 

これらの前提なしに、イエスの福音が大切なんだからと押し付けられても、人々は困ってしまうか、先の人のようにトラウマに陥り全クリスチャンへの憎悪でいっぱいという状態にまで陥ってしまうこともある。

 

「クリスチャン」側にも再考してほしいし、被害妄想がトラウマになってしまって人生を前に進められないのも困ったものだと思う。