Sojourner's Journal

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‘人はみな草のようで、
その栄えは、みな草の花のようだ。
草はしおれ、
花は散る。
しかし、主のことばは、
とこしえに変わることがない。’
Ⅰペテロの手紙1:24&25

私たち日本人が西欧人を見た時、見かけだけでその人がアメリカ人かイギリス人がドイツ人かといった出身国はわからない。話す言葉や、英語ならばその英語の訛りなどを聞いて、やっと推測できる程度だ。

 

アメリカ人から見ると、アジア人も一緒くたに見えるらしい。アメリカ人にとっては、中国人も韓国人もベトナム人もフィリピン人も日本人も皆一緒くたの「アジア人」である。私たち日本人も西欧人を見た時に、その出身国はわからないから、彼らを責めることはできない。

 

最近、アジア人である日本人である私にとって、残念なことがあった。親しい友人(アメリカ人女性)が、モールのネイルサロンに行ったそうだ。そのオーナーはアジア人だったそうだ。同僚も出身国が同じ人達だったらしく、彼女らの母国語でお喋りしていて、お客様である私の友人に英語で話しかけることはほぼなかったそうだ。話した英語は、終わった時の「サンキュー」だけだったという。友人は、自分のことを話して笑っているのではないかとさえ思ってしまって、とても居心地が悪かったそうだ。。。

 

何年か前に大都市でアジア人差別が話題になったことがあった。・・・ちなみに私は、田舎町に住んでいるせいか、アジア人差別という目に遭ったことがない。みんな、受け入れてくれると感じている。・・・その、アメリカ人によるアジア人差別のニュースを聞いた時には、単純に「アメリカ人の中に、そういう人種差別意識があるんだな」と思った程度だった。そして、そのような人種差別や様々の差別意識は、人間誰しも大なり小なりあると思ったので、「人間の罪」として片付けていた。

 

先日、友人からこのエピソードを聞いて別の思いを持った。国を超えての「人間としての常識」というか、エチケットやマナーというものは、特に様々の人種が混合している国では大切なんだなということだった。アメリカ人の中にアジア人差別意識を作ってしまっている原因が、アジア人自身だということに気付いたのだった。

 

自分が担当しているお客様に話しかけることもせず、初めから最後まで同じ国から来た同僚と大声で話して笑っていたという態度は、先ずプロとして、職業人として受け入れられるものではない。

 

国際社会になってきた。人間としての最低のマナーや常識、そして、国を超えてお互いを尊敬し合う態度が益々求められるようになっていくと思う。

 

私たち神の信徒には、神の道や導きというものが内側にある。常にそこに立ち、胸を張って堂々と生きていきたいと思う昨今である。神の高潔さ、これが内側に輝くような存在になりたい!

 

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7月&8月の2ヶ月間、ブログをお休みします。里帰りしてきます。

皆様も、祝福溢れる夏をお過ごしくださいませ!!

(先週の続きです)

異言について二人と話し合った後は、「あなたの父と母を敬え。」という、モーセの十戒の中の第五戒に話題が移った。

 

この第五戒の後半部分を、その(私にとっては息子のような)若者に読んでもらった。・・・「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

 

彼が読み終わっての開口一番・・「自分の人生がたとえ短くなっても構わない。あの母親だけは絶対に赦せない!」・・こりゃあ、彼の心の傷は相当深い・・。

 

アメリカでは、女性が子どもを授かったにわが子を置いて、別の男と家を出ていくというケースが、日本より多いような気がする。そんな行動を取るにあたっては様々の理由があるのだろうが、犠牲になるのは常に、置いていかれた子どもである。

 

彼の場合は、置いていかれただけでなく、共に住んでいた時に母親から言われた様々の暴言が、グサグサと彼の心を傷つけたらしい。・・これは私も同罪だから彼の母親だけを責めることはできない。母親も若くて未熟だから、感情的になって弱者側の子どもに当たり散らしてしまう。感情的にならずに子育てするには、夫婦関係が確固としていて、母親である女性の心が安定していなければならない。それでさえ感情的になることなく子育てするのは難しいというのに、彼の場合は、多分父母が不仲だったのだろう、犠牲になったのは、人一倍繊細な心を持った彼だった。

 

彼は、神から、人一倍大きなチャレンジが与えられている。母親を赦さない限り、彼の信仰の真の歩みは始まらない。彼の精神年齢は、母親が育児放棄をして家出した時の年齢でストップしてしまっていると思う。(・・ちなみに、彼は救われてはいる。というのは、こちらでは、宗教的な話はするが、イエス・キリストを主と告白できない人が結構多い。初めに「イエス・キリストを主と告白できる?」と確認した。その点は大丈夫。主への真摯な思いを持っている。)

 

誰一人として、神からのチャレンジを受けていない人はないのだろうと最近思う。それぞれのチャレンジを、神の力を受けて乗り越えていく時に、与えれた「神の信仰」が成長していく。そして神の豊かな祝福を戴くことができるのだと思う。

 

この若者が、神という存在がいかなる存在であるかを知っていくことによって、換言するならば、頑なに硬くなっている心が、聖霊と神のことばという「水」によって潤い、柔らかくなり、そして毒親である母親を、神に在って赦すことができますようにとただただ祈るばかりである。

 

振り返ってみれば、そういえば若い時代にはいろいろと赦せないという気持ちでいたものだったなと思う。まさに、信仰の歩みに常に忍耐強く共にいてくださる主に、ひたすら感謝をお捧げする昨今である。

 

私は、ひとりの娘を育てただけなので、息子を持った母親としての醍醐味のようなものは味わったことがない。そのような私が一昨日、息子のような年齢のふたりと時間を過ごす機会を与えられた。・・・このふたりの内のひとりが、亡くなった主人の息子のような存在だったので、主人の亡き後も、ひとりになった私を気にかけて時々連絡をしてくれているのである。もうひとりはその友達。

 

3人で食事した後、霊の食事(神をことば)を共にいただいた。主な話題は「異言」についてだった。ふたりがペンテコステ系の教会での異言を聞いて躓いたという、よく聞く話である。躓きの理由を聞いてみると、躓くのも仕方ないなと思ってしまった。

 

「もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分と神とに語りなさい。」1コリント人への手紙14:27、28

 

彼らが言うには、解き明かしもないのに、たくさんの人たちが大声で異言で話しているのを見て、パリサイ人の見せびらかしのように感じて、躓いてしまったというのである。・・・そうか~、それもそうだろうな。「それは、聖書に基づいていないね」という結論で彼らも納得したと思うが、ペンテコステ系にありがちな、神の秩序から外れた状態であると私も思った。

 

ただし、だからと言って異言そのものを否定するのも神のことばに沿わないと思うので、以下のことを彼らにシェアーした。

 

①イエス自身が復活後に、弟子たちに息を吹きかけた(ヨハネの福音書20:22)・・・弟子たちが救いの聖霊を内に受け入れた

 

②「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカの福音書24:49

 

③「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。”エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒の働き1:4、8

 

④続く使徒の働き2章で、聖霊の降臨によって、みなが聖霊に満たされて異言を話し始めたこと。・・・ミニストリーの聖霊が彼らの上に臨んだ

 

更に、異言にはサインとしてのもの(使徒の働き2章)と、賜物としてのもの(1コリント人への手紙12:10)の2種類があること、また私的な場でと公的な場での現われの2種類があるという、私自身の理解をシェアーした。

 

非常に混乱を招きやすい話題であったが、聖書・神のことばにさえ則って見ていけば、そこに書かれていることを受け入れることができる。(自分の意見として言っては、受け入れられないことが多々ある。)ふたりは、実によく聞いてくれた。

 

異言の話題の後は、「父と母を敬いなさい」というモーセの第五戒が話題になった。・・・長くなったので次回に続きます。

 

こういう「教会」=「召された信徒の集まり」では、時間のない神の領域に行くらしい。神が与えてくださった醍醐味であった。楽しかった!

ディスペンセーション(Dispensation)という語に、今までそう関心を払うことなくきた。

 

ちなみにこのディスペンセーションとは、19世紀に取り入れられた「神学の1つ」だそうである。その歴史は長くはないが、キリスト教の数え切れないほどある教派の多くが、その影響を大きく受けているとのことである。

 

ディスペンセーションという語の意味は「区分」で、キリスト教の歴史を区分けするものらしい。それだけなら別に「やってれば?」という感じだが、私が最も受け入れられないのが、「Literalism」即ち、聖書を、初めから最後まで文字通りの解釈をする点である。

 

従って、イスラエルという語に対しても文字通り解釈するから、旧約の古代イスラエル=現在のイスラエルと解釈し、多くのアメリカのクリスチャンの「現イスラエル信奉」に繋がっている。その典型的な教派が福音派である。この福音派の支持を得て、現在のトランプ政権が発足したのである。

 

というわけで、トランプ政権の閣僚たちの多くは、現在のイスラエル支持のシオニスト達で固められている。

 

トランプ自身について言うならば、真に救われているクリスチャンなのかも最近は疑わしく思っている。まあ、よく知らないから何も言えない。ただ、ポーラ・ホワイトという、トランプが選んだ霊的指導者という人物が、私には全く信用できない。最近は、「ブルータス、お前もか?!」ならぬ、「トランプ、お前もか?!」という気持ちで白けてしまっている。

 

要するに、アメリカは、現イスラエルとユダヤロビーに過去ずっと牛耳られてきているのだ。ディスペンセーション、シオニズム、ユダヤ主義、等をクリスチャンの多くに信じこませ、更には莫大な金を政治家たちにばら撒いてアメリカを乗っ取っているのが現イスラエル政権とユダヤロビーなのである。

 

確かに創世記12章3節にこう書かれている。

 

「あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」創世記12:3・・・「あなた」はアブラム、「わたし」はを指す。

 

だが、イエスが天に上られ、聖霊が送られた新約の聖霊の時代の今は、こう書かれている。

 

「ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。」ガラテヤ人への手紙3:7(太字筆者)

 

聖書を文字通り解釈するというディスペンセーションに侵された福音派を初めとするクリスチャンたちは、このガラテヤの箇所をどう説明するのだろうか?


まだまだ現イスラエル信奉のシオニスト達が多いと思われるが、目を覚ましつつあるクリスチャンも多いような気もする。このバカげたイラン戦争によって、トランプとトランプ政権がその実体を現わしてしまった。

 

もう、何を信じたらいいのかわからなくなった。先日予備選挙があったが、それに行く気持ちもすっかり失せてしまった。

 

ずっと聞いてきたカルバリーチャペル系のラジオ放送も、このディスペンセーションの影響下にあることがわかった。どおりで、携挙、終末論(ロシア、イランは北の国=悪)、千年期前再臨説、等々が強調されるわけだ。

 

もう何もかもわからなくなったので、巌であるにすがっていようと思う。それしかない。

人は何人か集まると、何を話しているのだろう?雑談や世間話をしていると聞くと、そこに負のイメージはないが、ゴシップや陰口、噂話をしているとなると、これは完全に神様に喜ばれるものではないことがわかる。

 

最近ひとりの友だちが、自分のことを他人にゴシップをされていると知って傷つき、長い間の友情が壊れたケースを見た。それで、改めて聖書に「ゴシップ」について書かれていないかを見てみた。・・・ちなみに、日本よりはるか人口密度の低いアメリカでも、人は寄ると触るとその場にいない人のことを話題にして喋っている。これは世界共通の人間の罪であることを、つくづく思い知らされる。

 

箴言11:13、18:8、20:19、26:20&22、以上の5ヶ所に、talebearer=「陰口をたたく人」という語が載っていた。

 

参考:

箴言11:13、20:19 scandal-monger (as traveling about)=(歩き回って)スキャンダルを広める人

箴言18:8、26:20&22 a slanderer=噂を広める人

 

特に興味深かったのは、箴言18:8と26:22だ。この2ヶ所は全く同じである。持参の和訳聖書と、KJVの英訳では全く違う意味に訳されていて興味深い。

 

和訳:「陰口をたたく者のことばはおいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。」

 

KJV:「The words of a talebearera are as wounds, and they go down into the innermost parts of belly.」

 

ちなみに、あとの様々の英訳は全て和訳と同様で、「おいしい食べ物」となっている。たったひとつKJVだけが、「傷」(原意は「焼け、猛烈」)と訳されている。

 

どちらの意味にも考えられる。噂話は確かに「私たちの肉」には、「おいしい食べ物」のようだ。だからみんな「食べてる」のだ。だが、私の友人のケースでは、ゴシップされて深く傷ついた。まさにKJVの訳どおりである。

 

とにかく、ゴシップという毒はソロモンが書いているように、私たちの「腹の奥に下り」、私たちに何らかの害を及ぼすことは確かである。

 

「私たちの話すことばに気を付けなさい」ということは、聖書に多々書かれている。自分の力で頑張って気を付けたら、必ず失敗することはわかっている。聖霊に依り頼み、罪・的外れが示された時にはすかさずその罪を神の前に告白して赦しを乞いながら、これからの歩みを進めていきたい。

 

聖なる神を悲しませることは、もうやめたいです!