私の最大のカルチャーショックは、日本が「集団社会」であるのに対して、アメリカは「個の社会」であることであった。このことは、ブログにも何度か書いてきた。今日は、そのことの次に大きかったカルチャーショックについて書きたいと思う。

 

日本はどちらかというと親子の絆が、時には夫婦の絆より強いのではないかと感じるほど、アメリカと比べると親子関係が密接である。アメリカは、夫婦関係が親子関係の先に来ていると思う。もちろんこれは全体的な印象であって、例外も多々あることは言うまでもない。だがアメリカは確かに夫婦社会である。週末や帰宅後は、夫婦が共に行動することが日本より遥かに多いと思う。

 

その理由は、やはり聖書に基づいた価値観から来ていると思う。創世記の1章、神の創造の下りの6日目に神は人を創造された。そのアダムからイブが創造されたことで、アダムとイブが最初の夫婦となった。というわけで、夫婦関係が親子関係より先に来ていることは歴然としている。

 

母国日本を外から眺めてみると、良い所がたくさん見える。野蛮な?ラフな?西欧人とは全く違って、その国民性には驚くべき美徳が多々ある。ところが、一番大切な点が日本人に欠けていると思われてならない。それは、神によってデザインされた結婚観や夫婦観の欠如である。それがとても残念でならない。

 

テレビがないのでユーチューブでの情報しか入ってこないが、昨今日本では、「熟年離婚」という言葉が出てきているようだ。また、働く女性たちの増加によって、若い世代での離婚も増えているとのこと。

 

私も御多分に漏れず結婚の意味を知ることなく結婚したので、×イチとなった。その後、神に導かれることで、神のデザインした結婚というものを知ることができた。だから、二度目の結婚の中にあった様々な困難を、神に在って乗り越えることができたと思われて、感謝に堪えない。最終的には夫婦で神の栄光を表わす所まで到達できたかな?思われて、悔いは残っていない。これひとえに、神に在ってこそ困難を乗り越える力を戴いたゆえのことである。それは言うまでもない。

 

日本の近代文学を読んでみても、夫たちの浮気とそれに耐える女性が多く描かれている。これが純文学かと悲しいくらいだ。また、最近の風潮である「熟年離婚」にしても、それではその夫婦の人生とはいったい何だったのだと悲し過ぎる。

 

神のデザインである結婚・・この基盤がない限り、虚しい人生が待っているばかりなのではないだろうか。

 

『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。・・・」』創世記1:27~28より(太字筆者)

 

ここに神の創意、基盤があるんだけどな、日本人の皆さん、そしてアメリカ人の神を知らない皆さんも!

 

最後に、独身の方々へ。パウロの言葉です。

 

「私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。次に、結婚していない人たちとやもめの女に言いますが、私のようにしていられるなら、それがよいのです。」1コリント人への手紙7:7~8

 

パウロは、決して全員が結婚しなさいとは書いていませんね。

National Day of Prayerは、「国家祈祷の日」と訳されているようだ。

 

この日はアメリカ合衆国で18世紀から始まったとされているが、近年やっと知る人ぞ知るになってきた。私自身も毎年の5月の第一木曜日は「そうか」と何気なく過ごしてきたが、今年は超教派での女性の祈祷集会に参加してきた。

 

教会組織というものに行かないできたので今まで知らなかったが、毎年主催教会を変えて行われてきたらしい。今年は同盟教会(アライアンス・チャーチ)で行われた。大きな会堂には何百人もの女性の信徒たちが集まり、なかなかの圧巻だった。この町の24の教会からの参加者だったそうだ。(・・私は今も日曜礼拝には行く気がしないが、木曜のアッセンブリーオブGodでの集いに参加し始めたので、そこの女性たちと一緒に行ったというわけ。)

 

共働きの家族が多いアメリカでは、木曜の午前中の集会に女性が集うのは難しいと思う。参加者の多くは年配の女性方だった。それでも大きな会堂を埋める女性たちが集まっていたから、やはりアメリカのクリスチャンの底力を見たような気もした。

 

祈祷は、国家、家族、教会、市、アメリカ政府と国家のリーダーたち、アメリカの軍隊、に向けて捧げられた。

 

祈祷の始まりと終わりには賛美が捧げられた。

 

初代教会では町に1つの教会(信徒たちの集い)だったようだが、2000年後の現代ではそれは不可能だ。数え切れないほどの教派に別れてしまった現在、このように教派を超えた「キリストのからだ」が一堂に会して祈りをお捧げすることができることは、素晴らしい機会だと思った。特に私のように無教会の私にとって、大きな励ましを受ける機会となった。

 

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」(1列王記19:18)

 

この聖句を思い出し、神からの励ましを受けた。たくさんの仲間たちがいるのだ!

 

ひとつだけ不思議だったのは、賛美がすべてイエス・キリストを賛美するものだったこと。父なる神を賛美する歌はひとつもなかった。なんでかは知らない。全能の父をないがしろにしてほしくないと思った。父という存在はいつも何かお気の毒だ。ごめんなさい、天の父なる神よ!

主人が逝ってから1年8ヶ月余りが経った。

 

初めの半年は、様々の感情の嵐の中で吹き飛ばされそうな毎日だった。だがそういう中でも寡婦年金手続きを初め、様々の手続きもあり、怒涛のような半年だったと思う。これまでの人生の中で、最も過酷な時であった。

 

それが過ぎると、たったひとつの思いが残った。「神よ、どうして主人と私を引き離されたのですか?」・・この思いは、決して神への怒りといったものではなく、ただただわからなかったのだ。奇跡=神の業によって癒されて存命されたケースもいくつか見てきている。どうしてそれが成されなかったのかがわからなかった。決して私たちの信仰の質や量によるものでもないと思った。

 

毎朝毎晩、涙の内に神に問う毎日を1年余り過ごしてきた。そして先日のこと、その答をいただいた!

 

「・・主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。』ヨブ記1:21

「・・the Lord gave, and the Lord hath taken away; blessed be the name of the Lord.」Job1:21

 

「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。』ヨブ記38:2

「Who is this that darkeneth cousel by words without knowledge?」Job38:2

 

*大変に僭越ながら、以上ふたつの日本語の箇所を、原意に基づいて自分なりに書いてみます。

 

「主は与えられた。そして、主は取られた。主の御名は、讃えられるべきものかな。」ヨブ記1:21

「(神に対する)知識もなく、(自分の)言葉で(神の)助言を暗くするこの者は誰か。」ヨブ記38:2

 

以上の2ヶ所はヨブ記の中でも最も有名で、私も知識としては知っていたが、先日この2ヶ所が神からの語りかけ(レーマ)として示されたのだった。

 

神が、主人を取られたのだ。神がなさったことなのだ。それに対して私が、「どうして?どうして?どうしてですか?」と尋ねても、神は答える必要もない。なぜなら、神は神だからである!

 

ヨブ記1:21では、その後にヨブが神の御名を祝福し褒めたたえている。そこが感動的である。・・・以前書いたが、「名」の原意は「名誉、権威、キャラクター」である。キャラクターとは、「どういうお方であるかを示すもの」で、例えば神のキャラクターは、「愛、光、恵み深い、憐み深い、忍耐強い、とこしえ、いのち、赦し、贖い、真実、希望、救い、助け、守り・・・」といったもので、私たちにとっての全てである。神(の御名)なしに、私たちは生きることはできない。

 

ヨブは妻以外すべてを失っても、なお、地にひれ伏して神を礼拝し、神の御名を讃えたのだった。初めて、このヨブの言葉の意味が啓示的に理解できたと思った。

 

更に、上記のヨブ記38章2節が示された。まさに神がヨブに言われたように、私にも言われていると知った。

 

天地を創造された超偉大なる神の前で、つべこべつべこべと屁理屈を言って駄々をこねていた、幼稚でちっぽけな自分の姿が見えた。神の偉大なる御名を知っていく中で、私ができることは、ただひとつである。・・・神の御前でひれ伏す(礼拝する)、ただそれだけである。

 

神は主人を取られた。。。私は神の御前にひざまずき、神の御名をお讃え致します。

「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」ヨハネの福音書14:26

 

上記の聖句を基に、1年前からこの家を開放して始めた家庭集会である。この場に集まる信徒たちは全て神の兄弟姉妹であって、いや牧師だの平信徒だのといった「身分」の上下はない。(それは肉の兄弟姉妹と同じである。)それぞれに信仰の過程や、神からの呼びは違うかもしれないが、その子らに、親(=神)にとって価値の尊卑はない。

 

この家庭集会では、主人の友人であった信徒の友に司会をしてもらっている。あくまで彼は「司会進行係」である。その主人の友人と一応のガイドライン(どの箇所を読んでシェアーしあう等)は事前に決めておくが、それはあくまでもガイドラインである。聖霊がどのように動かれるかわからないので、予定の箇所をしなかったり、別の箇所に飛ぶこともある。あくまでプログラム化しないように、聖霊の動きに敏感でいることが、この司会進行係の役割である。

 

4月の例会は、その終わり寸前まではヨハネの福音書14:26に則り、聖霊が臨んでくださり煌めくものとなったと思う。・・初めに読んだ詩篇146篇1&2節から、参加者のひとりの提案で146篇全篇を読んでのシェアーになったり、賛美が湧き起こったり、聖句を読んだ後にはそれぞれがシェアーし合い、それを聞き合い・・といった会となり、時間もアッという間に過ぎていった。ところが!!!

 

参加者のひとりがこの世の教会組織で「牧師」という肩書を持った男性である。なんとその人が、「教会組織の怪物」を持ちこんできた!突然メッセージを語ること20分余り、それに加えて、祈りのリクエストに応えてのワンマンショーの祈りが始まった。それも20分以上続いた。

 

私は呆気に取られ、呆然とそれを見ていた。なんと、あとひとりを除く全員が真剣に聞き入っているではないか!!その、あとひとりも、多分私と同じ気持ちだったと思う。その後彼女は私同様、貝の殻を閉ざしたように黙ってしまった。

 

内村鑑三がその昔アメリカに留学して、アメリカの教会制度に嫌気が差して帰国した話を聞いたことがある。そう、アメリカのクリスチャンたちは、こういうメンタリティーなのですよ!!!誰か「牧師」という肩書のある人のメッセージを、ご無理ごもっともと聞き入れるのである。自分たちの内に在る聖霊が教師であることを知らないのだろうか!

 

会の後、イライラと落胆のために、頭と鼻と耳から蒸気が出てきた。(^_-)-☆それで、その司会進行係をしてくれた人に電話して、思いのたけを話した。その人は、荒れ狂ってヒヒーンと後ろ足で蹴っている荒馬を、ドウドウと諫めるのに必死だった模様。(^_-)-☆「もうこんな会なら家を開放しない」と言ったら、泡食ってた。

 

私、正直言って疲れました。教会組織という怪物に食べられてしまいそうだ。こんな家庭集会、始めなきゃ良かったんだろうか。

明日が今年度のバイブルスタディーの最終回となった。今年の学びは「詩篇」だった。Community Bible Studyが始められて50周年記念の年だったとのことで、全米のCBSに参加者が「詩篇」を学んだそうだ。以下、(個人的な)今年の学びの総まとめを書いておこうと思う。

 

先ず思うことは、「詩篇」は、神の家族に残された宝物だということだった。・・・

 

詩篇全篇に亘って、神の御名(神がどのようなお方であるか)が、そこここに描かれている。・・・創造主、贖い主、守り、必要を備えてくださる方、救い、助け、癒し主、憐みに富む方、恵み深き方、真実、慰め主、契約の神、これまでずっと良くしてくださってきた神・・・これらの神の御名が、宝石のように全篇に散りばめられていることを見て、神の御名の、その力と美に圧倒された。

 

著者は、神がどのようなお方であるかを心の底から知っていて、O  LORDと何度も語りかけ、100%の全面的な信頼を持って語り、嘆願し、そして賛美に至るのである。

 

また、(以前のブログに書いたように)著者、主にダビデは、完璧な祈りをしたわけではない。多くは彼の逃亡生活の中で命を狙われる中で、苦しみや恐怖の呻きで始まることが多い。ただし、彼はそこ(自己・セルフ)に留まらなかった!必ず目=心をに向けたのだった!!それは、彼が神の御名を知るからこそであると思った。

 

多くの各詩篇は、賛美で結ばれることが多いが、詩編全体もへの高らかな賛美で終わっている。145篇から150篇までのダビデによる高らかな賛美は、圧倒的である。まるで、天国での賛美が聞こえてくるかのようである。

 

これまでの自分の神への姿勢を大いに顧みる機会となった。100%の全き信頼の心でに祈っていただろうか?私の肉の心の内に、疑いや不信があったのではないだろうか?神の御名をまだまだ心の底からわかっていないのではないか。今までの自分の人生を振り返ってみて、どんなに神がよくしてくださったか、確かに神の手を見ることができるというのに!!!

 

最後に、明日の暗証聖句を書いて終わります。

 

「Praise ye the LORD. For it is good to sing praises unto our God. For it is pleasant and praise is comely.」Psalm 147:1

 

「ハレルヤ。まことに、われらの神にほめ歌を歌うのは良い。まことに楽しく、賛美は麗しい。』詩篇147:1