今年の7月の北陸地方は、まだ梅雨明け前だというのに猛暑の日々が続いた。暑さだけなら、モンタナ州でも30℃台後半になるので慣れているが、湿度の高さが身にこたえた。少し動くと汗が噴き出て体がグンニャリする。これではナメクジだ。高齢の母の方がよほどしゃんしゃんしている。体が「日本仕様」ではなくなったらしい。というわけでエアコンをつけた部屋で母と祈ったり、聖書の話をしたりする毎日だった。たまに1ブロック先の「セイムズ」に、陽射しの照り付ける中を決死の思いで出かけた。汗だくになって戻った。

 

というわけで、(先週のブログに書いたように)母に憑りついていた悪霊も去ったのを見届けることができて、予定通りにモンタナに戻る日になった。・・・

 

富山駅から東京経由で成田空港に無事到着。出国手続きを終えて出発ゲートで待つ間にハプニングが起きた。トイレに行こうとして立ち上がったら、なんと足がもつれて公衆の面前で転んだ!それはともかく、驚いたことにすぐに私に駆け寄って「大丈夫ですか?壁に頭を打たれたようでしたが?」と心配してくれた人が、30歳代の日本人の男性だった。すごくハンサムだったな?(^_-)-☆(・・・お陰様で大事には至らず、頭にタンコブがその後2週間ほどあっただけだった。)

 

驚いたな~。日本の若い世代が変わってきているのかもしれないと嬉しく思った。このような男性は、世界に送り出しても恥ずかしくないと思う。堂々と、人としてなすべきことをする、そのような若い世代に大きく期待するものである。(・・あまりにも恥ずかしい出来事だったので誰にも言わないできたが、この場で初公開でした。)

 

シアトル空港に着いた。1か月ぶりにアメリカ人を見る。日本で、板チョコみたいに体が薄くて痩せた男女の人たちばかりを1ヶ月以上も見てきたせいか、やっぱりアメリカ人はデカいと思った!男の人たちは何やら皆マッチョ路線だし、女性はふくよかでプワプワした体つきの人たちばかりだ。まあ皆さん、よくまあ伸び伸びと大きいこと!!

 

その昔こちらに来たばかりの頃、ひとりのアメリカ人の女性が言った言葉を思い出す。「アメリカではね、みんなセクシーであることが求められるの。」・・・確かにそうかも?男はマッチョ、女はボインがセクシーらしい。(・・・どうでもいい話。)

 

そういう国に戻ってきたが、見かけなんてのはすぐ見慣れるもので、もう誰を見ても何も思わなくなった。

 

つくづく人間というのは(もちろん自戒を込めて)見かけで判断しがちなんだと思った。ユーチューブサーフィンをしていても、見かけ(ビジュアル)のいい人たちばかりが追われるのが、この世である。このような中で次世代を育てていくには、よほどの確固とした「背骨」=神のことばというガイドが必要であると思う。

 

難しい時代を生きているものである。

人間の脳は怠惰に流れるそうだが、つくづくそうだなと思う。9月になったので、怠惰な自分に鞭打ってブログに向かっている。書くというアウトプットの行為によって、考えが脳に定着するそうだから、ブログを続けられる間は続けよう。

 

日本の(北陸の)7月は、梅雨明けもしていないのに猛暑だった。こちらの気候に適応した体に変わっているせいか、あの蒸し暑さが辛かった。猛暑の中、すごそこのセイムズにいくのが精一杯だった。

 

実は高齢の母が、この3月頃から1日に数時間も頭に轟音が鳴るという症状に悩まされていた。メニエールによるめまいで入院した時に、全身の精密検査を受けており、異常なしということだった。直観的にこの轟音は悪霊の仕業だと思った。それで、その轟音がする度に3月~5月いっぱいと、日本とモンタナとのそれぞれの地で、悪霊をイエス・キリストの御名によって祓い、神に聖霊で満たしてもらう祈りを続けてきた。6月に入る頃には轟音が激減していった。だがまだ寝起きに轟音があり、30分ほどで消えるという日々が続いていた。

 

7月2日に私が母の住まいに到着してからは、共に悪霊を祓い、共に祈る日々だった。暑い日々なのでふたりでクーラーの部屋でひたすら祈った。また、オリーブオイルを使って、すべての部屋、窓、出入り口を清める祈りを、母と共に捧げることもした。7月の終わり頃には、ほぼ轟音は消えた。寝起き後に10分ほど少しある程度になったのだった!というわけで、予定どおりに8月3日にモンタナに戻ることができた。

 

この、母に起きた出来事を通して、あらためて聖書を振り返ってみた。イエス・キリストは悪霊を祓うことを多くなさったその記事が、改めて現実のこととして理解できるようになった。

 

イエスが天に上げられ聖霊が送られた今、私たち信徒はその聖霊の持つ力によって、イエスがなさったと同様に悪霊を祓うことができる!イエスの御名によって、悪霊を祓う。その(御)名とは、「力、権威、キャラクター」という意味であることは過去にも書いた。

 

私自身には何の力もないが、イエスの御名、力=パワーが、聖霊を戴いた私たちには与えられているのだ!何と素晴らしい神の約束だろう!!

 

日本で、或る未信徒の友だちと話す機会があった。彼女の娘さんは摂食障害があるそうだ。そしてそれが、新しい家に引っ越して以来起ったそうで、その家の悪霊を祓ってもらったのだそうだ。それに何万もかかったそうだ。それでもまだ100%悪霊を祓えていないそうで、全部払ってもらうには、あと何万かかるとか言っていた。何それ~~~!!!???参った。

 

母は現在、ほぼ頭の中の轟音がなくなったそうだ。ハレルヤ!!!

 

悪霊が、弱っている者を狙って殺そうとしていることが現実として迫った、2026年春~夏の出来事であった。

 

悪霊の存在が現実だとしたら、聖霊の存在も現実である!この世の人々は悪霊の存在は結構信じているのに、聖霊というものには見向きもしない。人間というものは、サタンによって実に巧みに騙されているものだなと思う。

 

今まで私の周りで自殺した人たちや不審死した人たちを思うに、どのケースも悪魔が何らかの形で働いての結果である。それがはっきりと見えるようになった。

 

「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人人は同じ苦しみを通ってきたのです。あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。」Ⅰペテロの手紙5:8~10

私たち日本人が西欧人を見た時、見かけだけでその人がアメリカ人かイギリス人がドイツ人かといった出身国はわからない。話す言葉や、英語ならばその英語の訛りなどを聞いて、やっと推測できる程度だ。

 

アメリカ人から見ると、アジア人も一緒くたに見えるらしい。アメリカ人にとっては、中国人も韓国人もベトナム人もフィリピン人も日本人も皆一緒くたの「アジア人」である。私たち日本人も西欧人を見た時に、その出身国はわからないから、彼らを責めることはできない。

 

最近、アジア人である日本人である私にとって、残念なことがあった。親しい友人(アメリカ人女性)が、モールのネイルサロンに行ったそうだ。そのオーナーはアジア人だったそうだ。同僚も出身国が同じ人達だったらしく、彼女らの母国語でお喋りしていて、お客様である私の友人に英語で話しかけることはほぼなかったそうだ。話した英語は、終わった時の「サンキュー」だけだったという。友人は、自分のことを話して笑っているのではないかとさえ思ってしまって、とても居心地が悪かったそうだ。。。

 

何年か前に大都市でアジア人差別が話題になったことがあった。・・・ちなみに私は、田舎町に住んでいるせいか、アジア人差別という目に遭ったことがない。みんな、受け入れてくれると感じている。・・・その、アメリカ人によるアジア人差別のニュースを聞いた時には、単純に「アメリカ人の中に、そういう人種差別意識があるんだな」と思った程度だった。そして、そのような人種差別や様々の差別意識は、人間誰しも大なり小なりあると思ったので、「人間の罪」として片付けていた。

 

先日、友人からこのエピソードを聞いて別の思いを持った。国を超えての「人間としての常識」というか、エチケットやマナーというものは、特に様々の人種が混合している国では大切なんだなということだった。アメリカ人の中にアジア人差別意識を作ってしまっている原因が、アジア人自身だということに気付いたのだった。

 

自分が担当しているお客様に話しかけることもせず、初めから最後まで同じ国から来た同僚と大声で話して笑っていたという態度は、先ずプロとして、職業人として受け入れられるものではない。

 

国際社会になってきた。人間としての最低のマナーや常識、そして、国を超えてお互いを尊敬し合う態度が益々求められるようになっていくと思う。

 

私たち神の信徒には、神の道や導きというものが内側にある。常にそこに立ち、胸を張って堂々と生きていきたいと思う昨今である。神の高潔さ、これが内側に輝くような存在になりたい!

 

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7月&8月の2ヶ月間、ブログをお休みします。里帰りしてきます。

皆様も、祝福溢れる夏をお過ごしくださいませ!!

(先週の続きです)

異言について二人と話し合った後は、「あなたの父と母を敬え。」という、モーセの十戒の中の第五戒に話題が移った。

 

この第五戒の後半部分を、その(私にとっては息子のような)若者に読んでもらった。・・・「あなたの神、主が与えようとしておられる地で、あなたの齢が長くなるためである。」

 

彼が読み終わっての開口一番・・「自分の人生がたとえ短くなっても構わない。あの母親だけは絶対に赦せない!」・・こりゃあ、彼の心の傷は相当深い・・。

 

アメリカでは、女性が子どもを授かったにわが子を置いて、別の男と家を出ていくというケースが、日本より多いような気がする。そんな行動を取るにあたっては様々の理由があるのだろうが、犠牲になるのは常に、置いていかれた子どもである。

 

彼の場合は、置いていかれただけでなく、共に住んでいた時に母親から言われた様々の暴言が、グサグサと彼の心を傷つけたらしい。・・これは私も同罪だから彼の母親だけを責めることはできない。母親も若くて未熟だから、感情的になって弱者側の子どもに当たり散らしてしまう。感情的にならずに子育てするには、夫婦関係が確固としていて、母親である女性の心が安定していなければならない。それでさえ感情的になることなく子育てするのは難しいというのに、彼の場合は、多分父母が不仲だったのだろう、犠牲になったのは、人一倍繊細な心を持った彼だった。

 

彼は、神から、人一倍大きなチャレンジが与えられている。母親を赦さない限り、彼の信仰の真の歩みは始まらない。彼の精神年齢は、母親が育児放棄をして家出した時の年齢でストップしてしまっていると思う。(・・ちなみに、彼は救われてはいる。というのは、こちらでは、宗教的な話はするが、イエス・キリストを主と告白できない人が結構多い。初めに「イエス・キリストを主と告白できる?」と確認した。その点は大丈夫。主への真摯な思いを持っている。)

 

誰一人として、神からのチャレンジを受けていない人はないのだろうと最近思う。それぞれのチャレンジを、神の力を受けて乗り越えていく時に、与えれた「神の信仰」が成長していく。そして神の豊かな祝福を戴くことができるのだと思う。

 

この若者が、神という存在がいかなる存在であるかを知っていくことによって、換言するならば、頑なに硬くなっている心が、聖霊と神のことばという「水」によって潤い、柔らかくなり、そして毒親である母親を、神に在って赦すことができますようにとただただ祈るばかりである。

 

振り返ってみれば、そういえば若い時代にはいろいろと赦せないという気持ちでいたものだったなと思う。まさに、信仰の歩みに常に忍耐強く共にいてくださる主に、ひたすら感謝をお捧げする昨今である。

 

私は、ひとりの娘を育てただけなので、息子を持った母親としての醍醐味のようなものは味わったことがない。そのような私が一昨日、息子のような年齢のふたりと時間を過ごす機会を与えられた。・・・このふたりの内のひとりが、亡くなった主人の息子のような存在だったので、主人の亡き後も、ひとりになった私を気にかけて時々連絡をしてくれているのである。もうひとりはその友達。

 

3人で食事した後、霊の食事(神をことば)を共にいただいた。主な話題は「異言」についてだった。ふたりがペンテコステ系の教会での異言を聞いて躓いたという、よく聞く話である。躓きの理由を聞いてみると、躓くのも仕方ないなと思ってしまった。

 

「もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分と神とに語りなさい。」1コリント人への手紙14:27、28

 

彼らが言うには、解き明かしもないのに、たくさんの人たちが大声で異言で話しているのを見て、パリサイ人の見せびらかしのように感じて、躓いてしまったというのである。・・・そうか~、それもそうだろうな。「それは、聖書に基づいていないね」という結論で彼らも納得したと思うが、ペンテコステ系にありがちな、神の秩序から外れた状態であると私も思った。

 

ただし、だからと言って異言そのものを否定するのも神のことばに沿わないと思うので、以下のことを彼らにシェアーした。

 

①イエス自身が復活後に、弟子たちに息を吹きかけた(ヨハネの福音書20:22)・・・弟子たちが救いの聖霊を内に受け入れた

 

②「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」(ルカの福音書24:49

 

③「彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。”エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。・・しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」使徒の働き1:4、8

 

④続く使徒の働き2章で、聖霊の降臨によって、みなが聖霊に満たされて異言を話し始めたこと。・・・ミニストリーの聖霊が彼らの上に臨んだ

 

更に、異言にはサインとしてのもの(使徒の働き2章)と、賜物としてのもの(1コリント人への手紙12:10)の2種類があること、また私的な場でと公的な場での現われの2種類があるという、私自身の理解をシェアーした。

 

非常に混乱を招きやすい話題であったが、聖書・神のことばにさえ則って見ていけば、そこに書かれていることを受け入れることができる。(自分の意見として言っては、受け入れられないことが多々ある。)ふたりは、実によく聞いてくれた。

 

異言の話題の後は、「父と母を敬いなさい」というモーセの第五戒が話題になった。・・・長くなったので次回に続きます。

 

こういう「教会」=「召された信徒の集まり」では、時間のない神の領域に行くらしい。神が与えてくださった醍醐味であった。楽しかった!