「バルタザールどこへ行く」「少女ムシェット」を観て | パンクフロイドのブログ

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早稲田松竹

ロベール・ブレッソン監督特集 より

 

緊急事態宣言が発令される前の4月初旬に鑑賞しました。早稲田松竹はしばらくご無沙汰状態で、その間にシステムが変更されていて少々面食らいました。二本立ては従来通りなのですが、座席指定に替えられていました。座席も相変わらず一席空けたままな上、上映が終わる度にお客は一旦退出して、換気消毒してから再入場。一本立てならばともかく、二本立てでの入れ替え制を運用するのは、劇場側にとって大変なのではないかと心配になりました。以前は劇場の外に出るまでは何回も観られたものも、二本観た時点で終了となるのは致し方ないでしょう。今回鑑賞したのは、「バルタザールどこへ行く」と「少女ムシェット」の二本。どちらも昨年にリバイバル上映されています。私はいずれロベール・ブレッソン特集として、早稲田松竹か池袋新文芸坐で二本立て興行されるだろうと踏んでいたので、焦らずに静観していたら案の定その通りになりました。時間も料金も節約でき、ありがたい二本立てでした。

 

バルタザールどこへ行く

 

チラシより

小さな農村で、農園主のジャックと幼なじみのマリーは、生まれたばかりのロバに「バルタザール」と名づけ可愛がる。だが年月が経ち、バルタザールは別の飼い主のもとへ。やがて逃げ出したバルタザールは、美しく成長したマリーと再会し、まるで愛し合う恋人たちのように慰め合う。だが運命は、バルタザールにもマリーにもあまりも過酷な試練を与えていく。マリーの両親は誇り高さゆえに没落し、マリーは不良少年ジェラールに拐かされ悪徳の道に落ちていく。バルタザールもまたマリーのもとを引き離され、次々と人手に渡っていく・・・。

 

製作年:1966年

製作:スウェーデン フランス

監督・脚本:ロベール・ブレッソン

撮影:ギラン・クロケ

美術:ピエール・シャルポニエ

音楽:シューベルト ジャン・ヴィーネル

出演:アンヌ・ヴィアゼムスキー フランソワ・ラファルジュ フィリップ・アスラン ナタリー・ジョワイヨー

        ヴァルター・グリーン ジャン=クロード・ギルベール ピエール・クロソフスキー

1970年5月2日公開

 

「バルタザールどこへ行く」は、かなり昔、新文芸坐がリニュアルされる前の文芸坐時代に「ラルジャン」との併映で観たことがあります。話の内容はすっかり忘れており、ロバを神の視点になぞらえた観念的な受難劇だったとだけ記憶しています。人間の愚かさの数々をロバが目撃することによって、人間の原罪を神が見守る構図になっていたように思います。最後の場面なぞはニーチェの「神は死んだ」と言うメッセージにも受け取れますね。

 

今回の鑑賞も最初の印象と然程変わらないものの、ヒロインのマリーの不可解な心模様と、彼女が惹かれるジェラールの悪徳やそれに伴う無軌道な暴力性が目立っていました。マリーは誠実なジャックより不良のジェラールを選ぶなど、自ら不幸の道を辿るような振る舞いを見せます。

 

この点は濱口竜介監督の「寝ても覚めても」における唐田えりかの行動と通ずるものがあり、人によっては嫌悪感を催したり反発したりするかもしれません。彼女がいくら不幸になっても、あまり同情する気が起こらないのは、常に自業自得な感じが付きまとうから。マリーを演じるアンヌ・ヴィアゼムスキーの美少女ぶりが際立つ分、「美しい薔薇には棘がある」という言葉を思い返さずにはいられません。

 

一方、マリーの想い人のジェラールは底意地が悪く裏表のある男。道にガソリンを撒いて車を滑らせるいたずらはまだ序の口(それでも一歩間違えれば死に繋がるのだけれど)。また、殺人を疑われている浮浪者に逃亡を唆し、警官が家に近づいた頃合いを見計らって空の銃を手渡す件は悪意の塊としか思えません。ある意味、マリーとジェラールは不道徳に関してお似合いのカップルかも(笑)。

 

ロベール・ブレッソンは不親切と思える程、それぞれの人物の関係や背景を説明しようとはしません。マリーの父親に苦言を呈する中年女性が途中まで彼の妻であるか確信が持てませんでしたし、ジェラールの盗みを庇う中年女性が彼の母親であったこともまた然り。こうした曖昧さが観る者の想像を刺激し、退屈になりそうな話の歯止めになっていたとすれば、監督はなかなかの策士でしょう(笑)。

 

少女ムシェット

 

チラシより

重病に苦しむ母と、酒に溺れ暴力を振るう父。自分が面倒を見るしかない赤ん坊を抱え、14歳のムシェットは、貧しい生活のなか、ひたすら孤独な日々を過ごしていた。家でも学校でも居場所のないムシェットは、森の中に逃げ込むが、突然の嵐で道に迷ってしまう。やがて森をうろつく密猟者のアルセーヌと遭遇したムシェットは、その夜、彼に強姦される。翌朝帰宅した少女は、母親の死去という悲劇に見舞われる。いつものように牛乳をもらいに出かけたムシェットは、ただ一人、村はずれの池に向かう・・・。

 

製作年:1967年

製作:フランス

監督・脚本:ロベール・ブレッソン

原作:ジョルジュ・ベルナノス

撮影:ギラン・クロケ

美術:ピエール・ギュフロワ

音楽:クラウディオ・モンテヴェルディ ジャン・ヴィーネル

出演:ナディーヌ・ノルティエ ジャン=クロード・ギルベール マリー・カルディナル

        ポール・エベール ジャン・ヴィムネ マリー・ジュジーニ

1974年9月21日公開

 

映画は終始ムシェットが肉体的にも精神的にも痛めつけられる様子を見せられるので、観ていてしんどくなります。14歳の少女にとって大人から受ける言葉や肉体の暴力は、大人が思っている以上に負荷がかかっており、ましてひとりぼっちの状態にあれば猶更絶望感に襲われてもおかしくはありません。女性教師が音楽の授業中に課す制裁、父親からのちょっとした小突きは、彼女にとって日常に行なわれていることでも、傍から見て痛々しく感じられます。

 

そんな彼女の怒りの矛先は、イケている同級生の女の子たちに向けられるのですが、仲間外れにされるのがオチで負の連鎖を止められません。唯一の理解者である母親は床に伏しており、彼女の助けになってくれません。そして、森に迷い込んだことによって、一生消えない痛みを抱えてしまいます。更に母親を失ったことと濡れ衣を着せられたことにより、少女には限られた選択肢しか残されておらず、“絶望映画”に相応しい幕引きをします。とことん落ち込みたい時には逆療法として観るのもいいかもしれません。