こうのすシネマ
午前十時の映画祭 より
今年も“午前十時の映画祭”が地元のシネコンで開催されました。
「タイタニック」と「シェーン」はパス。
「太陽がいっぱい」が第9回の初鑑賞となりました。
「太陽がいっぱい」は最初の“午前十時の映画祭”以来の
スクリーンでの鑑賞となります。
製作:フランス イタリア
監督:ルネ・クレマン
脚本:ポール・ジェコフ ルネ・クレマン
原作:パトリシア・ハイスミス
撮影:アンリ・ドカエ
美術:ポール・ベルトラン
音楽:ニーノ・ロータ
出演:アラン・ドロン マリー・ラフォレ モーリス・ロネ エルノ・クリサ
1960年6月11日公開
トム・リプリー(アラン・ドロン)は、フィリップ(モーリス・ロネ)と一緒にモンジベロからナポリに遊びにきます。トムは貧乏なアメリカ青年で、フィリップの父親から5000ドルの報酬で息子を連れ戻すよう依頼されていました。しかし、フィリップにはパリジェンヌのマルジェ(マリー・ラフォレ)という美しい婚約者がいて、アメリカに戻るつもりはありませんでした。フィリップがトムに約束した手紙を出さなかったため、二人がナポリからモンジベロに戻ると、アメリカからリプリー宛に契約を破棄する手紙が届きます。フィリップはトムと行動を共にするうちに、彼を疎ましく思うようになっていました。
やがて、二人はマルジェを交え、3人でヨットに乗り沖合に出ます。ヨットの中でもフィリップの傍若無人ぶりは変わらずで、トムは裸でボートに放り出され、全身が火傷のように日焼けする羽目に遭わされます。彼はフィリップの殺害を決意し、小細工をしてマルジュとフィリップの仲を裂き、彼女を船から下ろすよう仕向けます。そして、ヨットの上で二人きりになると、トムは隙を突いてフィリップを刺し殺します。トムはフィリップの死体を帆布に包みロープで縛り、碇を重石にして海へ捨てました。
彼は港に戻るとフィリップになりすまして、彼の財産を手に入れようと画策します。ホテルに泊り、身分証明書を偽造し、サインを真似、声まで真似るよう練習します。その甲斐があって、ヨットを売り払う交渉も、親元からの送金を引き出す手続きも問題なく運びます。その一方で、マルジュ宛てにタイプライターで打ったフィリップの手紙を送り、彼のことをあきらめるように手を打ちます。
そんな折、フィリップの友人のフレディ(ビル・カーンズ)が、フィリップの居所を嗅ぎ付け訪ねてきます。そこで、フレディはトムがフィリップになりすましていることに気づき、彼を問い詰めようとします。しかし、トムは返り討ちにしてフレディを殺害。夜間になってから、彼の死体を捨てに行きます。翌朝、フレディの死体が発見され、トムが借りたアパートに警察がフレディ殺しの容疑者としてフィリップを逮捕しにやって来ます。トムは荷物を持って、間一髪アパートを離れることに成功。警察はフィリップの関係者から事情聴取をして、トムにも聞き込みをします。
彼は警察がフィリップを追っていることを利用して、マルジェ宛てに自殺を仄めかすフィリップの手紙を送り、彼女に全財産を譲る遺言を偽造します。頃合いをはかって、トムはフィリップのなりすましから元の自分に戻り、傷心のマルジェを慰めながら彼女をモノにします。やがて、マルジェはアメリカから来たフィリップの父親と、財産の一部であるヨットの売却の立ち合いに行くのですが・・・。
本作を最初に観たのは70年代半ばの頃で、トムとフィリップが見かけは友人であるにも関わらず、主従関係にあることは理解できても、さすがに同性愛の視点で描かれていることまでは見抜けませんでした。トムがフィリップの服を身に着け、鏡に映った自分に陶酔する描写だけで、ホモセクシャルと指摘した淀川長治氏の眼力は鋭いと言う他ありません。
原作がパトリシア・ハイスミスで、彼女自身が同性愛者であることを考えれば腑に落ちるのですが、当時高校生だった私は、そこまでの知識はありませんでしたし頭も回りませんでした。また、ルネ・クレマンの演出も、トムの殺意がフィリップのサディスティックな性格、持つ者と持たざる者との差からくる妬み、フィリップの許婚のマルジェの存在などに起因するものと思わせつつ、もっと根深い要素が潜んでいることを巧みに覆い隠しています。
主役のアラン・ドロンは卑しい美しさが滲み出ていて、トム・リプリー役には正にうってつけ。フィリップを演じるモーリス・ロネも、常に相手を見下す傲慢さが板についていて感じの悪さが際立ちます。二人のよこしまな男たちに翻弄されるマリー・ラフォレは、清純さが引き立ち一服の清涼剤の役割を果たしています。また、フレディ役のビル・カーンズも金持ちのいけ好かなさが良くでていて、貧乏人のトムとは如何にも相性の悪さが納得です。
また、サスペンスとしても見どころが多く、トムがアクシデントに見舞われ窮地に追い込まれながら、その都度機転を利かせて切り抜けていくことから、悪党ながらも感情移入しやすいキャラクターなっています。ラストは原作と異なっていますが、映画的な快感を得られる点において、効果的な改変だったように思います。
「太陽がいっぱい」が公開された当時は、ヌーヴェルヴァーグが吹き荒れていた時代。中堅監督にとっては若手監督によるフランス映画界の新しい波は大いに刺激になったでしょう。その一方で、トムをゴダール、トリュフォー、レネなどヌーヴェルヴァーグの若手映画作家、フィリップとフレディをジャン・ルノワール、ジュリアン・デュヴィヴィエ、ルネ・クレールなどフランス映画界の重鎮に見立てると、また違った面白さを見出せるかもしれません。
