辰年のりゅうべえ
下鴨神社で干支の500円玉に乗りそうな
小さい干支の土鈴を毎年買います。
手前の白いのが辰。
今年辰年じゃん⁈
てことは、初代ハリネズミが来てから12年❗️
初代ハリネズミはペットショップの売れ残りで、
息子3人で、チンチラ1vsハリネズミ🦔2
の多数決でハリネズミを我が家にお迎えしました。
辰年だったので、名前はりゅうべえになりました🐲(但し女の子)
ちなみにチンチラはこんな感じ。
画像借りてます。
当時はハリネズミグッズも少なく
小さいハムスター用のヒーターをつけていました。
腫瘍ができて、手術をして回復、
5歳の天寿を全うしました。
(上の写真は寝てるだけ)
私は実は当初チンチラ派だったんですが
今ではすっかりハリネズミ派です🦔
今日の空とランチ
今日はお昼頃から晴れ間が広がりました。
比叡山が見えています。
最近インド料理屋が増えましたね。
昔は店探しに苦労しました。
ネパール・インド料理と看板にあるのは、
ネパール人が経営しているからでしょうか。
そんな中でも創業1980年、老舗と思われる四条寺町のアショカさんでランチをいただきました。
町中のインド料理でもちょっと高級感ある店内。
(値段は街中のお店とかわらない。)
マッシュルームのスープもスパイシー
サラダ、サフランライス、タンドリーチキン
備長炭使用って書いてあった!
ナンもバターたっぷり?で美味しかった。
チキンカレー
あとヨーグルトもつきました。
そのへんの新興店とは一味違います。
京都のアショカは実は初めて。
大阪はマルビルにありましたが、
そのマルビルも解体され、どうなったのか
お聞きすると、移転して営業中だそうです。
会社員時代インド、パキスタンと取引があり、
よくインド、パキスタン料理を予約しました。
(私は事務なのでほぼ行かない。)
ベジタリアンだったり、ムスリムの方が多いから
インド料理レストランリスト作ってました。
本町は繊維屋街なので2箇所くらいあったのかな。
一軒はパキスタン料理の店でした。
ある時インド人の現地社員と一緒にご飯に行った時、
何でも食べるから、「何でも食べるんだね(食事制限がない)」と、言うと、
「クリスチャンだから」と、いうことでした。
「日本のお米は甘いねー」って言ってました。
一方同席したパキスタン人社員はムスリムなので、
ハラールレストランでしか食べられなくて、
それ以外は自国から持参したカップ麺食べていました。
(日本のカップ麺はブタエキスが入っているので食べられない。)
最近もマレーシアの女の子が
「日本のお米はおいしい」と、ご飯ばかり食べていました。
日本のうるち米はおいしいですよね!
アショカに行ってあれやこれや思い出しました。
アメンバー記事をあげる予定です。
今は募集していませんので、あしからず。
京の冬の旅 相国寺慈雲院
本坊から結構離れてところにある慈雲院です。
以前慈照院が公開されていましたが、そのお隣です。
最寄り駅は今出川より鞍馬口かな。
室町中期に創建された相国寺の塔頭寺院です。
本堂は今の同志社女子大学の場所にあった二条家の建物が
移築されたもので
釘隠しや、襖の引手に菊紋があしらわれているなど
その名残が感じられます。
方丈庭園に通じるもんですが、
かわいらしい鯱がのってます。
お庭から見た門。
美しい枯山水です。
反対側がこのお寺の経営する保育園で
かわいらしい声が聞こえています。
北側にある庭。
橋が架かっていますね。
今は水がないけど昔はあったのでしょうか。
写真には撮れませんが、
杉戸絵には虎の絵が描かれていて、
岸派の絵師 岸連山が描いたものだそうです。
岸派といえば、虎の絵を得意とし、
京都御所の諸大夫の間の虎の絵は
岸岱(がんたい)です。
(きしれんざんなのに、岸駒がんく、がんたいと音読みはなぜ?)
あと見落とさないようにしたいのは、
玄関の長押にある麒麟の欄間。
とても見事な彫刻で伝左甚五郎作だそうです。
京都のお寺は非公開が多いけど、
いろいろありますね。
個人的に、水上勉が小僧をしていて、後に雁の寺のモデルとなった瑞春院を公開してほしいです。
20年ほど前に特別公開があり、とても良かったです。
1月17日
今日は阪神淡路大震災から29年。
それをきっかけにボランティアとか、災害対策とか、耐震基準とかいろんなことが変わりました。
それでも大きい災害は避けられないことがたくさんあります。
専門家が能登を調査しながら
「1分で4m隆起した。
今までこんなのは見たことがない。」
いかに激しい地震であったことがわかります。
数千年に一度のことが起こったようです。
関西ローカルの「かんさい熱視線」
阪神淡路大震災の経験者も今や語ることはないけれど、NHKアーカイブ映像から当時の被災者を取材しました。
頭を何針も縫ったという避難所の二歳児とお母さん。
親は怪我をさせてしまったという思いから
地震のことは話さなかったそうです。
当時2歳の子も今は31歳。
その時の映像を親子で初めて見ます。
「え、インタビューされているやん」
また下敷きになった人を必死に救助する人たち。
誰も救助に来てもらえないから、
自分たちで助けるしかなかったと言います。
それを今は語ることはありません。
しかし、若い市の職員が震災経験者から話を聞くという試みが神戸市で行われています。
今その人たちが石川県に応援に行かれているそうです。
私は大阪にいましたが、すぐ隣は兵庫県です。
水や電気はすぐに復旧しましたが、
ガスがなかなか復旧しませんでした。
目の前なのに兵庫と大阪では復旧のスピードは全然違いました。
川の向こうはガスが来なくて、
親戚の人は川の手前の大阪のスポーツクラブでお風呂に入って帰っていました。
兵庫県には他府県のガス会社が応援に来ていたそうで、友達のところは四国の人が開栓に来てくれたそうです。
うちには修理業者が飛び込みで、やってきました。
お断りしましたけどね。
こういう業者もいろいろいて、うっかりすると、ぼったくられますから。
そのころ地震保険なんて誰も入ってなかったのが
入ったばかりだったんです。
それで修理の一部を補填することができました。
能登は水の復旧の目処が立たないそうです。
ある老人施設では井戸を掘り始めたとか。
うまく水脈にあたるといいですね。
















