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☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

  ~ The Moon is always with us ~

 

「今」という時は、それを意識する主体と

独立に存在しない。

 

言わば、時間とは小我独自のフォーカスの事である。

逆に、虚空とは自我という起点を持たない(無我)ことにある。

小我を滅せばそこは虚空である。

永遠とは無時間性の事なのだ。

 

「一心の虚空はもとよりこのかた常住にして

不損不減なり。」

 

空海

 

「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから」

 

宮沢賢治

 

千峯雨霽露光冷 (大燈国師)

君看双眼色 不語似無愁 (白隠)

 

白隠禅師の「双眼」の主語(体)をどう捉えるかで

解釈が変わる。

その主語は千峯とみるのが妥当。

なぜ「双眼」なのかは私にはわからない。

色は、千峯(自然世界)の姿の事だろう。

大燈国師の一句は悟りの境地であり、

それを受けた白隠禅師の句は、

その静かに、かつ鋭く光を放つ山々の姿に

指月でしかない言語の無用を説く。

そこは問答無用のただある世界である。

 

空海の声字実相義(五大に皆響きあり)や、

蘇東坡のいわゆる「渓声山色」が、

自然の有情説法の一つの表現であるなら、

この二者の詩は、

自然の無我なる無情説法を

言葉にせんと試みた結果であろうか。

 

哲学とはある意味、言語表現の明晰判明さを

追求しつつ、そしてそれを楽しむような側面もあると思う。

 

 

あるものはある。

あらぬものはあらぬ。

真に「あるもの」(存在)は、

唯一、不生不滅、不変不動である。 (パルメニデス)

 

あらぬものについては語ることなどできない。

「あるもの」の住人である我々は、

あらぬものとは全く無関係である。

故にあなたはいたずらに「死」を恐れる必要などない。

死とはあなたが「妄想」するような、喪失ではなく、
有(ある)の中の一つの変化に過ぎない。

なぜなら、「あるものはあるだけ」なのだから。

そもそも、生きているあなたの体験は

「生の中だけ」にあり、
そのあなたは決して「死を体験することなどできない。」
生者の誰にも「死は見えない」のである。

それだのにその「死」というものついて妄想し、

いたずらに恐れ、狼狽するのは、それこそきっと

「ドクサ」(思い込み)という「亡霊」にでも

憑りつかれているのだろう。
 

それは愚かしい事だからやめることだ。

死を恐れるという心象は、

恐れにまつわれた亡者たちのドクサに過ぎない。

 

滅びゆくもの、消えゆくもの、

それは我ではない。これは我ではない。

 

われわれはある。

ただそれだけなのである。

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「死があるところには我々はない。

我々があるところには死はない」

 

エピクロス