☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

後悔などする必要はない。
西田幾多郎は何故「後悔を否定」したのか。

西田幾多郎が「後悔」を否定的に捉えた背景には、
「自己の力を過信し、自我に執着する心」
への深い洞察がある。

 



◆自我の過信◆ 

「ああすればよかった」という後悔は、
「自分には自分の人生を意のままに動かす力がある」
という前提に基づいています。
しかし、西田はこうした思考を、結局のところ
「自分を買いかぶりすぎている(過信している)」
状態であると指摘しています。

◆無力さの直視◆ 

西田は、自分が自然や周囲との関係性の中で
はじめてある存在であることを認め、
起こりうる人生における悲哀や苦難を、然るべき
「運命」として受け止めるべきだと説いています。
自己の無力さを深く理解し、絶大な力
(運命や根源的なもの)に己を委ねるとき、
初めて後悔という自我の執着から解放されると考えました。

◆本来の自分への回帰◆
西田にとって、本当に自分があるべき場所は、
そのような個人の小さな「自我」や

その後悔に囚われる場所ではなく、
すべてを包括する「絶対無の場所」です。
後悔に囚われることは、

この根源的な場所から遠ざかる行為であり、
自己の内面を深く掘り下げて、

自分を存在させている「無」に立ち返ることこそが、

本当の意味での救いであると示唆しています。

つまり、西田にとって後悔を否定することは、
単なる気休めではなく、
「自分という存在を、状況を映し出すだけの空虚な

『場所』として捉え直す」
という、彼の哲学の核心へと通じる

実践的なプロセスなのです。

 

 

「有為の奥山今日越えて」

 

いろは歌に出てくる「有為の奥山」。

はて、この「有為の奥山」とはいったい

何を表していると思いますか?
 

ここから発展して、

そもそも「有」とは何なのか。

 

「は?」

 

・・・普通こんなことは考えないんですけど、

私は考えてしまうのでちょっと

お付き合いください。

 


そもそも「有」とは何か。

 

わたしは、有とは、

「主観(小我)独自のフォーカス」の事
と、思っています。

 

「は?」

まぁ聞いてください。。

 

我々は、「本当は何も無い虚空の世界」に、

自我にとってのその重要性を基準に

勝手にフォーカスを当てて(五蘊)、

世界を「限定」しているのだ。

その限定が有である。と。
 

それは言わば、何もない暗闇に懐中電灯を当てて

スポット「〇」をつくっているようなものだ。
それが「有」である、と。

 

 

有とは本来一(無)なる万物斉同の世界に、

小我が独自に設けるフォーカスの事ある。
 

だからもし、無我に目覚め、

その小我の視点を消すことが出来れば、

まさしく虚空、無我なる「無限定」の視点を

持てるかもしれない。

それでも確かに世界はあるのだが、

それは主客未分の、西田幾多郎が言う

「純粋経験」である。

そこに小我という主語は無く、

世界に境界は引かれていないのだ。ただある!


「有為の奥山今日越えて」は、

小我という限定をオフにして大我(無限定)に

帰すプロセスを言っているように思えた。

 

そう、永遠性とは無時間性の事なのだ。 

 

 

有(時空間)とは、

無の世界に「湧く」小我独自のフォーカスの事である。

 

「自己は自己の中に自己を映す」
 

と言ったのは西田幾多郎ですが、

この最初の自己を、絶対者(絶対無)だけではなく、

自分にも当てはめると、自分が表象している他者も、

実は「自分自身の一部」という事になるし、

いや、「世界自体が自分」という事になる。

 

「自己は自己の中に自己を映す。」

(⇒一即多、絶対者の逆対応)

 

それに無自覚な私は、
自己は自己の中に自己を映すが、また、

同時に対象として投影された世界によって、

自分の中の何かが触発されているとか、

「再認識」させられている、ということになる。

実は私は自分の外側を見ているようで、

「内側」を見ているのかもしれないのだ。

自分の世界に立ち現れてくる他者は、

自分の一側面を「明ながら暗に」示している。
 

私は私の中にないものは決して世界から抽象できない。

 

仏教の三界唯心の智恵から考えると、

自分の外には何もなく、すべて、

自分の心がつくり出している、ということにもなる。


As within, so without. 


ヘーゲルも、内的なるものが、外的なるものへ、

みたいなことを言っていたと思うが、
先に挙げたように、

自分が投影している世界はすべて自分の要素、

極端に言えば、「世界には自分一人しかいない」

かもしれないという衝撃があるのである。

そう、「世界のすべてが自分」であるかのような感覚。
「しかしながらそれを対象」として感じている。
(実はそれは「内省」という事実)

これは独我論と実在論が統合されるかのような、

劇的な世界感覚である。それは、西田が言う主客未分の

世界感覚で、そこに確かに我と汝の世界を感じるならば、
それは「愛知合一の無我なる世界」でもあるのだ。

 

「自己は自己の中に自己を映す」

(⇒多即一、諸法(有限者)の逆対応)

世界に存在している諸法すべてが、
私の心をノックしているのだ。