☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

「何故、ないのではなく、あるのか。」

 

という問いは、本来の自己の所在(無我)と、

その性質が明らかでないがゆえに生じる問いである。

 

本来の自己が、

絶対無という場(無我・虚空)であることと、

その性質が、「自己が自己の中に自己を映す」、という、

言わば、自己の数多の分身を使った

自己投影(一即多・多即一)である、という事を知れば、

 

「何故、ないのではなく、あるのか。」

 

この現れ出ている世界の理由も分かるかもしれない。

そう、この現れ出ている世界は、

「実は自分そのもの」なのだ。

 

 

我々諸法は絶対無が自分自身を知るための

自己限定である。

 

 

 

「今」という時は、意識する主体と
独立に存在しない。

言わば、時間とは(世界を限定する)
小我独自のフォーカスの事である。
逆に、「虚空」とは自我という起点を
持たない(無我)ことにある。
 

小我を滅せばそこは虚空である。
そう、永遠性とは無時間性の事なのだ。

一心の虚空はもとよりこのかた常住にして
不損不減なり。  空海

 

 

この世界に生命が誕生する確率、

よくできた「偶然性」の例を、
プールの中に落ちたバラバラの腕時計の部品が、

「ちちんぷいぷい♪」したら、
「わあビックリ!完成した状態で出てきた!」

・・・そんな感じで例えることがある。

実際は、これよりも凄い事が起きている。
だから、私は何かしら「イデア的な」知の原形

のようなものはあるんじゃないかと思っている。
それと、バラバラの「多」という小粒を、

一として統一する高次の場の想定。

そう、西田哲学で言えば絶対無という場所(一者)のことだ。
そうじゃないとその「多」は、

独立した「一」の乱立でしかないだろう。

仏教的には、この世界は三界唯心、

すべて「幻想」であるという。

ホログラフィー理論で言えば、

渾沌とした全体の情報だけがあり、

それが投影された世界が現実である、と。

 

純粋な自然世界から鑑みて
もし、その「情報が写像された世界の具体性」が

「豊かさ」であるならば、その「豊かさそのもの」が、

その写像する大本の「本質」なのだろうか。

 



この動的な世界を実現するために、
コスモスがカオスをつくり出して、

またカオスからコスモスへと向かういう、
永遠性の運動をつくり出しているというかね。

 

それまさに、銀河の渦巻きのような運動で、

円環ではなく、変化を有する螺旋状の運動であり、

そもそも、存在物は自己相似形に、

すべてそのような形状であり、
互いにその回転エネルギーをぶつけることで、

動き、動かしめて合っているのかもしれない。

いわゆるトーラスの流れや、∞の動きには、

無限性の運動を見て取れるわけだけど、具体的には

多(他)を巻き込んで、渦状の運動をなして

いるのかもしれない。