「有」とは何か? 有為の奥山今日越えて | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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  ~ The Moon is always with us ~

 

「有為の奥山今日越えて」

 

いろは歌に出てくる「有為の奥山」。

はて、この「有為の奥山」とはいったい

何を表していると思いますか?
 

ここから発展して、

そもそも「有」とは何なのか。

 

「は?」

 

・・・普通こんなことは考えないんですけど、

私は考えてしまうのでちょっと

お付き合いください。

 


そもそも「有」とは何か。

 

わたしは、有とは、

「主観(小我)独自のフォーカス」の事
と、思っています。

 

「は?」

まぁ聞いてください。。

 

我々は、「本当は何も無い虚空の世界」に、

自我にとってのその重要性を基準に

勝手にフォーカスを当てて(五蘊)、

世界を「限定」しているのだ。

その限定が有である。と。
 

それは言わば、何もない暗闇に懐中電灯を当てて

スポット「〇」をつくっているようなものだ。
それが「有」である、と。

 

 

有とは本来一(無)なる万物斉同の世界に、

小我が独自に設けるフォーカスの事ある。
 

だからもし、無我に目覚め、

その小我の視点を消すことが出来れば、

まさしく虚空、無我なる「無限定」の視点を

持てるかもしれない。

それでも確かに世界はあるのだが、

それは主客未分の、西田幾多郎が言う

「純粋経験」である。

そこに小我という主語は無く、

世界に境界は引かれていないのだ。ただある!


「有為の奥山今日越えて」は、

小我という限定をオフにして大我(無限定)に

帰すプロセスを言っているように思えた。

 

そう、永遠性とは無時間性の事なのだ。 

 

 

有(時空間)とは、

無の世界に「湧く」小我独自のフォーカスの事である。