「至誠にして動かざる者は、未だこれ有らざるなり。」
吉田松陰
我々は本質をついている事実について、
決してそれを無視することはできない。
そしてそれを真剣な眼差しで向けられた時、
その「真心」は必ず心に刺さる。
それはどこか忘れていた、自分自身の
心の手掛かり、心掛かりに他ならないからである。
何故宇宙は、生命を発生させる際、
外部からエネルギーや情報を取り入れなければ
その生命を維持できないような作りにしたのだろう。
何故生命はわざわざ、何かを「外部」から
取り入れないと生きていけない形態なのだろうか。
そう、分かりやすい話、
何故「食べなくても生きていける生命」を
宇宙という神はつくらなかったのだろうか。
生命は、何かしらの情報、エネルギーの
インプット、プロセス、アウトプットという流れがある。
そしてそれを、我々は「面倒とか、不自由」と
思わないのはなぜか。
しかし考えてみると、
そもそも「すべて自足できる存在」は、
他(多)と関係を持つ必要すらないんだろうね。
そう、それを「面倒」だと思うのか。
「豊かな響き」として捉えるのか。
多分後者が勝るから、この形態があるのだろう。
他(多)を感じられる、「豊かな世界」に我々はいるのだ。
観測問題は端的に言えば、
「物質的延長」を典型とする物理的な実在も、
主観的で具体的性質を持った感覚から構成されており、
それは進歩した現代物理学で複雑な実験を介しても、
結局はそう(主観的構成)である、という事である。
(必ず人間が介する)
だから、生命とか意識とか抜きで、
宇宙の表象を「時空間的イメージ」でもって、
その宇宙なるものが存在しているということを
定立してしまって、
それを前提に宇宙の中の物事を考える、
その思考回路を疑う必要がある。
(実は客観とは主観の多一致でしかない、という事)
あなたは全く何もない宇宙というものを
想像できるだろうか?
もちろん、人間が持つイメージや、
概念というものを使ってはいけません。