☆ 俺たちにはつきがある!☆彡 -2ページ目

☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

  ~ The Moon is always with us ~

 

「なぜこの宇宙は存在しているのか?」

 

この宇宙(時空)が存在している事実において、

ただ言えることといえば、

その宇宙がその存在形式において、

自己目的的に人間といったそれを表象(representation)する

生命の存在が可能であった、ということ、

ただそれだけでしかない。

(認識と存在は同値であるという前提において)

 

これを踏まえると、宇宙が存在することと、

(それを表象する、形成する)生命が存在することは同値であり、

生命の価値は言わば宇宙そのもの、という事が言える。

(時空⇔生命)

 

観測される宇宙の膨張は、 

その無数の存在者(諸物)による絶え間ない 

集合的な精神活動の外的顕現であり、

つまり時空の膨張とは、

意識そのものの増大なのである。

 

今という時は意識する主体と独立に存在しえない。

 

つまり、「この宇宙」というものが存在しているのに、

(それを表象する)諸法((諸物)は欠けることなく、

自己目的的に必要だった、ということである。

 

ともすると人は、承認欲求よろしく、

「自分の存在価値」、などというものついて

考えるものだが、前述の内容を踏まえると、

「宇宙と等価であるあなた」は、

わざわざそれをどこかかから探して

持って来る必要などないのである。

「宇宙と等価の価値があるあなたは」、

(むしろ価値という概念も必要ないのだが)

それこそ無駄に「自分には価値が無い」などと

自己卑下する必要はないのである。

 

つまり、諸物のすべてが、

この宇宙にとって必要なピースであり、

諸物のそのすべてが、

この宇宙の「共創者」であるということである。

 

 

 

「あなたと私の価値は宇宙と同等であり、

諸物のすべてはこの宇宙の共創者である。」

 

もし、そう確信することが出来れば、

ともすると起こりうる孤独感も癒され、

自分に自信を持つこともできるのではないだろうか。

(あなたは独りであっても一人ではないのである。)


愛とは、宇宙が宇宙自身を見つめる眼差しの事である。

 

「今」という時は、それを意識する主体と

独立に存在しない。

 

言わば、時間とは小我独自のフォーカスの事である。

逆に、虚空とは自我という起点を持たない(無我)ことにある。

小我を滅せばそこは虚空である。

永遠とは無時間性の事なのだ。

 

「一心の虚空はもとよりこのかた常住にして

不損不減なり。」

 

空海

 

「すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから」

 

宮沢賢治

 

千峯雨霽露光冷 (大燈国師)

君看双眼色 不語似無愁 (白隠)

 

白隠禅師の「双眼」の主語(体)をどう捉えるかで

解釈が変わる。

その主語は千峯とみるのが妥当。

なぜ「双眼」なのかは私にはわからない。

色は、千峯(自然世界)の姿の事だろう。

大燈国師の一句は悟りの境地であり、

それを受けた白隠禅師の句は、

その静かに、かつ鋭く光を放つ山々の姿に

指月でしかない言語の無用を説く。

そこは問答無用のただある世界である。

 

空海の声字実相義(五大に皆響きあり)や、

蘇東坡のいわゆる「渓声山色」が、

自然の有情説法の一つの表現であるなら、

この二者の詩は、

自然の無我なる無情説法を

言葉にせんと試みた結果であろうか。

 

哲学とはある意味、言語表現の明晰判明さを

追求しつつ、そしてそれを楽しむような側面もあると思う。