もしも生物が「イデア」を分有していなかったら。
生物は主観世界を表象できないだろう。
世界は表象されないだろう。
簡単に言えば、色も形もない(抽出できない)
混濁した世界が流れるだろう。
逆に言えば、我々は持ち前の「色や形のイデア」
を使わずに宇宙を想定することはできないだろう。
故に生物(表象者)のいない宇宙は存在しない、
とも言えるわけだ。
<認識主体> ⇔ <実在X>
↑
ココ!(リアリティ)
あくまで、世界とは
「実在と認識主体との「関係」」の事である。
(今、説明の便宜上認識者と実在という
二項対立を用いているが、自我を滅っせば、
これらを包含する空なる縁起世界に溶け込むのだろう)
イデア(原型)を有していなければ、主観は
世界から諸物を抽出することができない。
だから、そもそも宇宙を認識できるという事は、
主観が宇宙の原型を内に有している、という事に他ならない。
現実(リアリティ)とは、主観の
心と体のホメオスタシスフィードバックである。
言わば世界を投影しているのは私。
世界を表象しているのは私だ。
実は自分の外には何もない!?
また、時間についてであるが、
仏教的に言えば、世界とは自我の五蘊により、
構成されている「主観的現象」であるが、
「時間」というものを認識者側の存在形式として
考えなければ、この離散的な認識を、
連続しているかのように錯覚させることはできないだろう。
「天地我を待ちて覆載し、日月我を待ちて運行す」
栄西の言葉であるが、
リアリティをすべて、自身の「主観的内部表現」と、
捉えられる感覚が持ててくると、
「マジかよ!!!」と笑いと驚きがこみあげてくる。
「時間とは、他者との待ち合わせの事」だ。
ある先生が言っていたが、時間は
他の主観とコミュニケーションを取るために必要であり、
また、進化の過程で、様々な推論を行うようになった
人類が広げていった世界が、我々の宇宙、ということになる。
それは人類が作った世界精神である。
目を閉じて、そっと心を静めると、
時間はそこにはないのだ。
あれこれと考えをめぐらすから、
時間は意識されるのだ。
そしてその自意識も、他者との関係(縁)を契機に
生まれたものであるなら、
私という意識や、思考も、この世界精神の中の
可能存在という事になる。
それは縁起という関係世界の中の一項として、
一つの主観世界が浮かんでいるのだ。


