「すべては縁あって起こる」
いわゆる仏教の悟りとは、「縁起」の法を
極めることにある、と思っている。
そう、すべては「実在しない」。
すべては縁あって起こっている。
すべては相対的で、絶対になど
絶対に存在していないのだ。
諸法無我。
この世界にそれ単独で存在しているものなど何もなく、
諸行無常。
この世界で変化しないものなど何もない。
すべて、何かに拠りかかって生きている。
縁あって起こっている。
一番リアルに縁起を感じやすいのは、「呼吸」。
吸って吐いて吸って吐いて。
ふ~。
「気の縁」を放出し、また受けている。
私たちはいつも、
緑たちと見えないキャッチボールをしているんだと、
思ってみよう。
「すべては縁あって起こる」
となるとそう、私自身も実在ではない!のだ。
現象世界にあるものはみな、実在ではない。
私という自我も「わたくしといふ現象」に過ぎない。
私も何もすべて、何もかも
縁起という、関係世界の中の一項でしかないのだ。
じゃあそもそも実在していないってことは、
私は「生きてもいないし、死んでもいない」、という事になる。
え?え?え?
だって実在していないんだから、生も死も何もないでしょう。
生も死も、人間が便宜上、勝手にこさえた概念である。
この関係世界(縁起)の中で、「生を受けている」のが、
存在物、生命の実状なのだ。
「ではこのリアルに広がっている世界は何なの?」
と思うんだけど、
この現象世界は、宇宙や、人類の集合意識が
正体であろうと思う。
ふぁ?
少なくとも、観念の世界は人類が想像したり創造した、
想念の集まり、人類の集合意識が、その正体だろうと思う。
この集合意識をバックグラウンドにして、生命は
各々、自我にあった宇宙を表象している。
もっと包括的に言えば、宇宙意識をバックグラウンドにして。
人間特有の「不自然に自己卑下的な妄想」に
囚われていなければ、そもそも存在物(関係物)は
「絶対他力」の縁起世界でふわふわ。
その関係世界の海の上で、ぷかぷか浮かびながら
旅をしているのが現状なのだろうと思う。
それは投げやりなニヒリズムではなく、
「生かされている」、という感覚で、この生命というギフトを
恩寵に包まれた世界の中で、どう楽しんで行こうか、
そういう旅の途中の話である。
最後に一つ、引用文。
存在しないものは無限の可能性を秘めている
存在する限り、その可能性には限界がある
そう、僕達は実は存在しないのだ
生命は単に存在し続けるのでは無く
絶えず自己に言及し確認し自己を再生し続けることで
初めて自己であり続けられる
それはゆらぎを内在したシステムであり
だからこそ必然と偶然の融合という
生命の本質・意志の本質が実現される
木村敏
もうずいぶん前にこの木村さんの一文には
出会っているんだけど、
ようやく、よーやく意味が分かってきた気がする。


