◇ 癒しのプロセス2
比較され、優劣を付けられる競争社会。
「人生はサバイバルだ…」
乾いた空気の中、
多くの人は自責行為の元となる、
劣等コンプレックス(観念の複合体)を
抱えて生きている。
劣等コンプレックスは
自我のペルソナの価値感である。
(ほとんど自我と言ってもいいかもしれない)
それは精神の基盤であり、それが他者との比較で
揺れる相対的なものであるということは、
非常にもろい基盤である。
現代人の多くの人は潜在的に、
いつも自分の価値が下がるんじゃないかという、
不安を抱えている。
この世の中が、誰かを批判して
攻撃する人たちで溢れ返っているのは、
批判してないと「自我が立っていられないから」である。
批判することで相対的に自分の価値を高めたい、とか、
本当はやりたいことをやっている人を
自分の枠の中(常識)に引きずり戻して
安心したい、という衝動である。
みな、劣等コンプレックスの虜なのである。
そしてそのペルソナが傷つく恐怖は、
それを相対化する視点の獲得を難しくしている。
がっちり同一化しているから。(ペルソナ=自分)
だから多くの人は、自分を楽にするために、
劣等意識、「自責する自分と対話」し、
自分を癒すことからはじめる必要があるだろう。
「対外的評価?そんなもんなくても俺は俺だよ。」と。
(ちなみに劣等感と優越感は同じ)
ところでここで、
「そもそも自分の存在を認めるのにいちいち
他者からの評価が必要なのだろうか?」
と、一度自分に問い直してみよう。
諸物はただ宇宙の一部分として存在しているだけである。
そのすでに存在している自分に、
いちいち「存在許可証」みたいな物が
必要なのだろうか?
冷静に考えれば、
誰にも文句を言われる筋合いはないわけだが、
経済的にも精神的にも大人に依存している若年期に
否定的な言葉を浴びせられたり、
比較で優劣なんかをつけられると
どうしてもありのままでいる自分に
自信を失ってしまう。
この自責の反応パターンは、無意識に刻まれ、
ある種の防衛機能として働いてしまっているから、
自覚・統御が自力ではなかなか困難である。
一億総批判家とも言える、多勢に無勢のこの社会では、
常識とか呼ばれる「人工的価値基準」を跳ね返して
自分でいられる人は少ないので、
理知的に自我の構造を分析し現状を把握、
さらには自分で自分を癒す必要があるだろう。
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人は「できない自分」や、「失敗した自分」
を「劣っている自分」として責めるわけだが、
果たして、それって「フェアなジャッジ」なんだろうか。
「できない自分」。
諸法無我で回るこの宇宙では、
存在物それぞれにそれぞれの「持ち場」があり、
得意分野がそれぞれ違う。
ミツバチにはミツバチの、ニャンコにはニャンコの、
「なまけもの」に「はなまけもの」の持ち場がある。
赤ちゃんはか弱い立場で生まれてくるわけだが、
弱い立場の人がいないと、我々は優しさを忘れるかもしれない。
'''宇宙の中で、何がどう機能しているかなんて'''、
我々にはわからない。
諸物は循環する宇宙とつながっており、
全体的な関係性の中であるわけであるから、
それぞれがそれぞれの持ち場で、自分性(機能)を
発揮して生きていれば、
宇宙は回るようになっているはず、と私は思うのだ。
だから、「何もかもできる」必要はない。
さらに、それは今できなくてもいずれ
出来るようになるかもしれない。
比較するのは向上していく自分だけでいい。
人それぞれ条件は違うのだから、
何かができないからと言って、
そこに優劣をつけるのは違うだろう。
そもそも人工的観念を無視すれば、
世界は「ただあって」、循環しているだけだから、
ある特定のことが出来ないからといって、
それで劣っている理由にもならない。
諸物は「存在するだけでエネルギーの通り道」。
「存在するだけで俺宇宙」である。
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「失敗した自分」。
それと失敗についてであるが、
人は失敗した過去の自分を責めたがる。
人は他者からの評価を恐れるあまり、
完全主義者のようになってしまうのだろうか。
ここで、「失敗はあるものだ」と
開き直って考えてみよう。
人は神ではなく、あらゆる出来事の因果を
完全に把握することなど当然不可能で、
すべて上手くやることなんて無理なのである。
抱えている条件も人それぞれ違う。
その時々で人は、その人なりに、
妥当な行為をしていたはずなのである。
そのときその人は、そうするしかなかった。
人のその時々の行動は偶然性を帯びており、
その人なりに上手くやろうとしている。
それなのに、いちいちそこを捕まえて
咎めるほうがどうかしているんじゃないだろうか。
私は自責の念が出てきたときは、自分に対して
「それはしゃーないよね。」
と言えるようになってきて、楽になったように思う。
それまで私は、自分にだけ厳しく当たっていたのだが、
やっとフェアに自分も他者も、
見れるようになった気がしている。
「しょうがないよね。」
親友に話すつもりで自分にも話してほしい。
自分だけの「逆えこひいき」はもうやめだ。
私はそれをしはじめてから
他者にも寛容になれてきた様な気もした。
他人を裁く視点は自分を裁く視点でもあった。
裁くものは裁かれる、というわけだ。
そしてそもそも、まずもって言えるのは、
「神の視点から観れば許されない罪などない」
ということ。
そもそも罪って、人間がつくった概念。
世界は存在し、循環している。それだけ。
ただ、他者からエネルギーを奪う事態は、
循環の道理に反しているから、
そのエネルギーの淀みに、同じだけの攪拌が
起こりうる、という道理である。
「別にええやんか。」
神視点で観れば、何にしてもこう言える。
「別にええやんか。それはありうることさ。」
君の神友なら、きっとそう言ってくれるんじゃないだろうか。
その言葉を、自分自身にも、他者にも言えるようになれたら、
いいなと私は思う。
実際神視点で世界を眺められたら、
何も問題など起こっていなくて、
我々がそれを「問題だと思っているだけ」、
だったりすることがわかるかもしれない。