知らぬが宇宙 | ☆ 俺たちにはつきがある!☆彡

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<学を断てば憂いなし>


アダムとイブは知恵の実を食べて

「知らぬ」から「知る」に至って

エデンの園から追放された。

局部を無花果の葉で隠して、

「恥」を現し、自他の境を明らかにした。

自分や世界を知でもって規定しだした。

言葉(知)を手にしたばっかりに

小賢しい知恵の世界が世界のすべてだと

思いあがってしまったのかな。

まあ、おとぎ話なわけだけど。


聖書関係なしに言えば、

人はエデンの園から追放…というか、

自分から「分かつ世界」に入って行ったのかも。

知るってことは分けるってことだから

そこは分かつ世界。

自分を対象化して「知るを楽しめる世界」に、

冒険(チャレンジ)しにやって来た?


関係の世界、つまりこの世界は

すべて縁あって起こっていると、縁起の世界を照見しつつ、

その「彼岸」から世界を観ている分には

なんも問題ないわけど、

我々ほとんどは「言葉の世界」に取り込まれてしまって、

彼岸から世界を観る視座を失ってしまった。

「知る」っていうのが、もっと抽象度が高いレベルでの、

非言語による彼岸からの視点(縁起を縁起としてガッチリ観る)

なら問題ないわけだけど、

関係世界のツール、つまり言語を使っての知は、

抽象度が一段低い、

相対的な対象知としての便宜上の解釈だから、

それを駆使しても、決して彼岸には到達できないわけだ。

月を指す指(相対知)は、指し示しているだけであって、

決して月ではないのだ。

他の意味に依っていない意味ってのはないわけで、

言語も関係の世界の産物なわけだから、

どんなに純粋化していっても

それは「高級な観念」に過ぎないわけだ。

観念しなさいな。


__



我々はあらゆる観念から抜け出して、

彼岸に到達することはことができるだろうか?

それには言葉から離れて、瞑想とかするのが手なんだけど、

落ち着きのない私は瞑想は苦手だ。。


そこで私はいつも猫と一緒に「アーシング」をして

相対知の世界から離れることにしている。

アーシング」ってのは

ニャンコが地べたにゴロゴロするのあれだ。

地球と仲良くするやつ?

地球に頬ずりしてんのか?とも思う。

隣で私も一緒に地面に座って、手と足をつけ、

地球との一体感を感じる。

それだけでいいんじゃね?と最近思う。

目を閉じて、愛なる自然世界に

 

心を寄せるだけでいいんじゃないかな。

それを繰り返していれば、

彼岸に帰れるんじゃないかなあ。