「つらい=病気」ではないという話
恋人に別れを告げられて悲しくて涙がでて、眠れなくなった。
職場で不正が発覚し、懲戒処分を受けて気分が沈んだ。
こうした出来事をきっかけに精神科を受診される方も、頻繁ではありませんが、これまでに実際に経験したことがあります。
その多くは、出来事が起きてからまだあまり時間が経っていない段階で来院されるケースでした。
もちろん、落ち込みが長期間続き、仕事や日常生活に明らかな支障が出てくれば、専門的な支援が必要になります。
しかし、嫌なことや望ましくないことが起きて気分が落ち込むのは、病気でも異常でもありません。
それはむしろ、ごく自然な人間の反応です。
医療機関としては、受診していただけること自体は経営上ありがたい側面もあります。
けれど、だからといって安易に薬を処方し、結果として薬への依存を生んでしまってよいのか。
その点については、医師として常に慎重であるべきだと感じています。
悲しいときには、思いきり涙を流して悲しむ。
自分の落ち度でやるせない気持ちになったときには、その感情を糧にして次へ活かす。
感情をきちんと味わい、受け止めること。
それは、健全なメンタルを保つために欠かせない過程だと思います。
安易に薬に頼るよりも、そのほうが長い目で見れば、心はしなやかに保たれるのではないでしょうか。(必ずしも薬を求めて来院されてる訳ではないでしょうが)
なんでもかんでも「病気」にしてしまうことの弊害
かつて、大相撲で一時代を築いた横綱 朝青龍 が、
疲労骨折の診断書を提出し親方へ断りなく巡業を休場後、母国モンゴルへ帰国し、現地で楽しそうにサッカーをしている姿が報道されバッシングを受けた事がありました。
その後、マスコミを避けて引きこもるようになった彼に対して、
精神病ではないか、解離性障害ではないか、いや神経衰弱状態だといった、さまざまな憶測的診断がメディアで飛び交いました。
そのとき、精神科医の 小田晋氏 がテレビでコメントを求められてひとこと
「単に不貞腐れているだけでしょう」
この一言は、揶揄でも軽視でもなく、
人間の感情を過剰に「病名」で説明しようとする風潮への、極めて的確な指摘だったように思います。
(小田晋氏も本人を直接診察したわけではないため、あくまで推測の範囲ではありましたが、その後の朝青龍の言動を見る限り、この見立ては比較的、的を射ていたように思われます。)
医療が踏み込みすぎないために
現代は、メンタルヘルスへの理解が進んだ一方で、
「つらい=病気」「落ち込む=治療対象」と短絡的に結びつけてしまう危うさも併せ持っています。
医療として介入すべき状態と、
人生の中で誰もが経験する失望や挫折、悲嘆といった感情とを、
きちんと区別すること。
それもまた、精神科医の重要な役割だと思っています。
人は、傷つき、悩み、立ち止まりながら成長していきます。
その過程まですべて医療化してしまうことが、本当に本人のためになるのか。
そこには、慎重な判断が必要です。
必要なときに、必要な医療を。
そうでないときには、人として自然な感情を、自然な形で生きる。
なんでもかんでも病気として扱わないこと。
それもまた、健全な社会と健全な医療のために大切な視点ではないかと思います。