インド放浪から日本に戻り、仕切り直しで就職先を探します。やはり半官半民ということで、財団法人を選択し、面接でインドの話をしたら「変わっているからよろしい」ということで、激戦を勝ち抜き見事採用されたのです。

○○研究所という名称だったので、研究できるかと思いきや、そんなに甘くはなく、もっぱら医療関係者を対象にしたセミナーや出版物で儲けるのが上手な財団法人でした。

看護師さんからニーズをヒアリングをした上で、著名なドクターを講師に研修会を企画し、全国各地を巡る仕事でした。ここでも、看護師を中心とした病院をフィールドに見立てた「フィールドワークの構え」が役立ちました。が、結局、私はその団体の方針に着いていけず約4年で退職することになります。

2回目の就職先でもしっくりこないことから、自分にはサラリーマンが向いていないことを強く認識し、起業の道を探ることになります。で、その前にもう1回放浪の旅に出ることにしたのです。

前回と同様、1年間フリーの格安航空券を購入し、今度はアフリカ・ヨーロッパ約5カ月の旅へ。そのエピソードは省略。

ギリシャのアテネ⇒トルコのイスタンブール⇒アテネ

ケニアのナイロビ⇒マサイマラ国立公園とナクル湖のサファリ

ザンビアのルサカ⇒ムピカ焼畑農耕民ベンバ族の村(焼畑と狩猟同行)⇒カサマ(JICA隊員訪問)⇒

マラウイのブワザ・マーシュ野生動物保護区⇒ザンビアのムプルング⇒タンガニイカ湖の海賊船渡航⇒

タンザニアのカソゲ(マハレ山麓の京大チンパンジー調査拠点)⇒キゴマ⇒ドドマ⇒アルーシャ⇒キリマンジャロ国立公園

ケニアのアンボセリ国立公園⇒ナイロビ⇒

ギリシャのアテネ⇒イタリアのバーリ⇒ナポリ⇒ローマ⇒オーストリアのインスブルック⇒ドイツのミュンヘン⇒フランスのパリ⇒イギリスのロンドン⇒ダービー⇒ロンドン⇒日本の成田

人が蠢くアジアに比べ、東アフリカでは人の存在が小さく感じました。なぜなんだろう。野生動物、バオバブやアカシアの木、それとも大きく見える太陽のせいなのだろうか?

これ以降何とか起業に向けた学びの話題に戻れそうです。そこに入る前に、どうしてもインド・アフリカ放浪のこと書いておきたかったんです。

今を考える「考現学」を標榜しておきながら、思い出話しのつぶやきが続いていますが、「回顧録でもいいんじゃない」という声もあったので、それならばということで、しばらくこのペースで続けていくことにします。たまには今に戻りますので。

そして、「学び場」をテーマとしてきたここ最近のつぶやきは、内田樹氏の影響を受け『現代日本の国民的危機である「学ぶ力」の喪失をどう取り戻すか』というテーマに大進化を遂げることにしました。

と大きく振りかぶったところで、最初の就職に失敗したのち、放浪の旅に出るストーリーに入っていきます。

1年弱働いて貯めた貯金を元手に「ややこしい日本は脱出だ」と旅に出る決心をする。親元にいったん戻り「これから僕の人生は波乱万丈になるから覚悟しておいてね」と言ったら、おやじ「世界は広い」と返ってきた。そして、1年間フリーの格安航空券を買って、まずはタイのバンコックに旅立った。

はじめての海外で、宿泊先も行先も決めずに旅立つのは、なかなか勇気がいる。知る人ぞ知る放浪者の拠点バンコックの下町にある「楽宮ホテル」に着く。怪しい旅人たちがわさわさと蠢く牢屋のような佇まい、小便臭いその一室から旅は始まる。

書いてみたい旅のエピソードはいっぱいあるが、旅日記じゃないのですっ飛ばそう。

タイのバンコック⇒チェンマイ⇒チェンライ⇒レンタルバイクでラオス国境⇒バンコック⇒

ミヤンマーのラングーン⇒マンダレー⇒インレ―湖⇒ラングーン⇒

インドのカルカッタ⇒ダージリン⇒カンチェンジュンガの麓街⇒パトナー⇒

ネパールのカトマンズ⇒ポカラ⇒アンナプルナのトレッキング(恩師川喜田二郎氏のフィールド・シーカ村に寄る)⇒ポカラ⇒チトワン国立公園⇒ブッダの生誕地ルンビニ⇒

インドのガンジス川の沐浴と火葬のバナラシ⇒ニューデリー⇒ヨガの聖地リシケシ⇒シムラー⇒マナリ⇒ニューデリー

パキスタンのカラチ⇒タイのバンコック⇒日本の成田

旅で出会った人から話を聞いて次に向かう街を決める放浪の旅が約5カ月続いたのでした。初めての異国タイに煽られ、明治期のようなミヤンマーにバックし、カオスのインドにやられ、山並みと荒涼のネパールに癒され、再びカオスのインドに浸かり、日本の味噌汁が恋しくなり、日本の夏の花火が見たくなり帰路につく。

朝方に成田空港に着く便となり、成田から上野までは、ちょうど通勤ラッシュと重なった。みな同じような服を着て、下を向きながらみな同じ方向に急ぎ足で歩いていく日本人を見て、これも一つの特殊な民族なんだとつくづく思った。

旅で何を学ぶって、「やっぱり自分は日本人だなぁ」という実感だ。また、当時の旅ノートの終わりには「シンプル&ワイルド」と書いていた。したたかに生きる人々と接して、そう感じたのだろう。

社会人になってからの学び場といえば、起業するまでの紆余曲折になりましょうか。前に書いたような学生時代でしたから、いわゆる社会人に馴染めない辛い日々を過ごしたと思います。

今でいうならSDG’sになると思いますが、地球環境問題や地域問題をある程度学んでいたこともあり、自社の利潤を追求するために地球環境にとって不都合なモノを生産し、そうでないと給料がもらえない株式会社の一員にはなりたくないという認識をもっていました。

また、公務員や学校の先生は、息苦しそうで気が進まない。その前に試験に通らない。ということで就職したい先が見当たらない状況の中で選んだのが半官半民の団体(今でいうならNPO)です。

最初の就職先は、農村社会運動を普及する社団法人。普及活動といっていましたが、要は農業雑誌を買ってもらうために、農家集落を渡り歩く飛び込みセールス集団でした。叩き上げの哲学がベースにあり出版物の内容は良いものでしたが、働き方としてはブラックでした。昔の運動団体ならそんなものでしょう。

ここで悩みます。農薬を使わない農業をするべきだと、農業経験もない若者が、日々の労働に忙しい農民に向かって変革を迫れるか。そして、雨の日も雪の日もスーパーカブに乗って各地の集落を移動し、飛び込みセールスを繰り返す働き方、まるで聖書をもって寄付を集める宗教集団と置き薬の薬売りを足して2で割ったような働き方、これを一生続けられるのか。「なんで俺はここでこんなことをやってんだ」と、神社の陰(ほかに一人になれるところがなかった)で泣いたこともあったな。

そこで、もがきながら自分なりに編み出したのが、「フィールドワークの構え」で仕事をするということでした。飛び込みセールスではなく、フィールドワークをやっているのだと思えばいいと。農民の暮らしを聞き、集落の様子を観察する、という学生時代に学んだことを引っ張り出し、そのついでに本を売る。

すると、集落の中の人間関係が少し見えてきて、最初に誰を落せば、次々と本が売れるかがわかってくるのです。村の農業熱心なキーマンを探して、その人の話をヒアリングする、できれば本を買ってもらう。その後は、さもその村のことをよく知っているかのようにキーマンの話題を出して会話すると本が売れていくというムラ社会の法則を掴んだわけです。セールストークでいう第三者引用という方法ですね。

その結果、他の普及員(セールスマン)のほぼ2倍の契約が毎日取れるようになっていった。こうなるとどうするか。上司には、その日の契約数を少なめに報告して、翌日は街の図書館などに行って1日過ごした上で、前日の契約の残りを報告することになる。この時間の使い方はセールスマンの特権ですね。そんなこんなで、1年持たずに退職届を出すことに。