②ふたりが出会った少年少女

ここでいう“ふたり”とは、ともに肥後を治めながらも、いや、ともに治めたからこそ仲の悪かった加藤清正小西行長を示します。

 

対比される二人の特徴は、

清正:武断派、東軍、日蓮宗の信奉者、何があっても秀吉に従う

小西:文治派、西軍、キリシタン大名、秀吉の無茶は止めるべき

 

性格も、質実剛健な清正外柔内剛な小西と、魂がもつ熱いものはあっても、方向性は真逆。そんな彼らは、ほぼ同じ時期にそれぞれ、朝鮮人の少年少女に出逢います。彼らと出逢った少年少女は、彼らの教育方針に基づきそれぞれまっすぐ成長し、やがて運命も二分されることとなるのです。

 

 

日蓮宗の僧侶となった余大男(ヨ・デナム)=日遥(日遙上人)

 

余大男(ヨ・デナム)は、文禄の役で清正軍に捕らえられた少年で、当時は12歳でした。親戚が住職、父が文禄の役での朝鮮側の兵士で、朝鮮兵が日本兵に敗れ、父も捕らえられたことによりデナムが隠れていた普賢庵という寺にも押し入られています。

デナムは聡明かつ学問に秀でており、大将・清正の前で紙と筆をくれと言うと、唐の詩人杜牧の詩「山行」の筆記を披露して清正に目を瞠られたとのこと。この年にして自分の売り方わかっとるなんてすごいな。

 

清正はデナムを熊本に連れ帰った後、仏門に入れさせ、その後は日本第一の仏教学院といわれる六條講院(京都府)で最終的に修めた末、日遥(日遙上人)の名をもらい、遠くは山梨、その他、京都や長崎などの寺院を人事異動し、清正を祀る本妙寺の三代目住職になっています。

本妙寺に歴代住職の墓があり、その中に日遥上人の墓もあるそうなのですが、熊本地震により多くの墓が倒壊したままとなっていて、私自身は見つけることができませんでした。

 

日遥に関する史料は実は結構たくさん遺っていて、それこそ朝鮮に住む父と「壬辰倭乱(文禄の役のこと)が終わって何十年も経つのに、まだ日本から帰ってこないってどういうことー!?日本での居心地よくなっちゃったの!?」という手紙のやり取りがあったことも判明しています。

(ちなみに、その手紙に対する日遥の返事は「ちょ、ちょっと落ち着いて父さん、殿にちょっと聞いてみるから・・・」という感じだったよう。律儀やな。)

 

本記事では日遥に関しそこまでたくさんのことは書けませんが、一つだけ。

 

日遥は結局朝鮮に帰らないまま、熊本の地で79歳で亡くなりますが、2004年に日遥の家族の子孫が、本妙寺と日遥が開祖である長崎県島原市の護国寺を訪問。韓国式の法事を行なって日遥を弔い、交流を果たしたとのこと。

これはなかなかすごいことだと個人的には感じています。

 

 

キリシタンとして最期まで身を捧げたジュリア・おたあ

 
一方、小西行長軍は同じく文禄の役で朝鮮人の少女を保護します。その少女がジュリア・おたあ
 
ジュリアおたあ自体はキリスト教の禁教令に従わず流罪にされた悲劇の女性として有名なので、いろいろな説明は省略しますが、ここで触れるのは小西行長との関わりについて。
 
おたあ自身は実名さえわからないほど謎に包まれていますが、文禄の役時点では3~4歳と、少女を通りすぎて幼女だったといわれています。また、最近見つかった弟あて(現在にも系譜が繋がる毛利家家臣・村田安政)の書状から、両班(貴族階級)の出身であることが有力視されているとのこと。
 
小西行長はこの朝鮮出兵に早い段階から限界を感じており、石田三成とともに水面下で停戦に向けた動きをしていたそうです。その動きにいち早く気づいた清正の妨害を受け、足の引っ張り合いとなるのです。
 
そんな状況の中で行長の前に差し出された少女。行長は、この少女が孤児になってしまったことを知り、また出兵に対する後ろ暗さもあり、責任をもって育てることを決めます。そして熊本に連れ帰り、「滝子」と名前を与え可愛がったのです。
 
キリシタン大名であった小西家の愛を受けた滝子は、キリスト教に親しみ、洗礼を受け「ジュリア」の名前を授かります。「おたあ」というのは、日本に来て間もなく日本語がよくわからなかったことや幼児の言語の拙さから、周囲の発音を真似して出てきた言葉であり、「おたあちゃん」とあだ名されたのが由来という説もあるようです。
 
小西家で暮らした日々は、戦国時代の中では平穏な日々だったと、一般的には言われているでしょう。しかし、関ヶ原の戦いで父親代わりだった行長が敗死すると・・・その後の運命は様々な人たちが詳しいでしょう。

 

朝鮮から連れてこられた事実はあれど、住職として比較的平穏に天寿を全うした日遥と、どこまでも運命に翻弄され続けたジュリア・おたあ。

このように、まさに熊本を起点としながらも主の運命によって全く正反対の生き方をした少年少女たちを挙げてみました。

 

そういえば、おたあのことをきちんと知ったのはこの記事を作成するときのほぼ初めてですが、偶然にも、静岡時代に徳川慶喜さんの聖地巡礼で宝台院を訪問したことがあり、その際にバッチリ撮ったおたあゆかりのキリシタン灯篭があったので、その写真を載せてこの記事を終了にしたいと思います。

 

 

次回は、もう少しピッチを上げていきますびっくりマーク(爆)