③朝鮮王族の子孫・高本紫溟
今度はなんと 加藤清正とも小西行長とも離れて、細川忠興の話になります。
当然ですが、朝鮮出兵では清正や行長だけではなく、西国を治めた大名を中心に様々な武将が出陣しています。清正の後に熊本を治めることとなる細川忠興もその一人。
それはそうと、表題にある高本紫溟(たかもと・しめい)ですが、この人は熊本藩校時習館で訓導(学校の先生)をしていたと同時に、肥後国学の祖といわれる熊本にはなくてはならない人です。紫溟先生自身は1738~1814年に生きた人と、江戸時代後期のかたですが、彼の本名は「李順(リ・シタゴウ)」と朝鮮の名前です。
そう、この紫溟先生の家系の先祖こそ、文禄の役で細川忠興により朝鮮から日本に連れてこられたのです。
「李」という姓のとおり、紫溟先生の家系の先祖は「李宗閑」という李氏朝鮮の王族の血を引いている人で、つまりは忠興は朝鮮の王族を臣下にしたと。・・・本当か?(爆)
李宗閑が忠興からどのような扱いを受けていたのかはよくわからないものの、少なくとも忠興の子の忠利からは優遇されており、忠利に対する恩義から「候は乃ち高麗、日本二邦」の名を取って「高本」の姓としたと伝わるそう。高本家は細川家について熊本へと移動し、島原の乱にも参戦、その武功で300石を賜り、侍医としての家系がスタートしたのだとか。
さてさて、ここまで「朝鮮出兵によって朝鮮から日本に来た人たちの扱いは決して悪いものではなかった」という視点で、熊本県内のことに限定して語らせていただきました。実際には、まあ恐らく九州人も朝鮮人も加藤清正らにとっては海の向こうの人間という点でさしたる違いはないから区別はなかったのだろうと思います。
指令としてはこの視点での調査なので、任務完了というところなのですが、調査を進める中で面白い情報も知りましたので、本筋とは少しズレますが、番外編も載せておきたいと思います。
朝鮮人の味方になった清正家臣~沙也可~
沙也可(さやか)は、なんと韓国の教科書に掲載されるほど英雄扱いされており、子孫が現在も続いている超超有名人なのだそう。
まず感じるのは、当時の日本人にしてはずいぶん変わった名前をしているな~ということ。沙也可が一体何者なのか、現在も結論は出ていないものの、文禄・慶長の役後に朝鮮に火縄銃と火薬の製造技術が伝わっていることから、雑賀衆の者であるという説が有力なのだとも。現に、朝鮮側の史料には「金忠善(=沙也可)が投降後に火縄銃の製造技術を伝授した」と記録されているとのこと。
「金忠善(キム・チュンソン)」とは沙也可の朝鮮名で、朝鮮での功績から朝鮮王に「金」の姓を賜わったことから名乗り始めたとのこと。
沙也可は文禄の役では加藤清正隊に属し、先鋒として戦ったものの、秀吉の命に納得しておらず、「善良な民衆に害を及ぼすのは、聖賢の教えに外れることだ!」と啖呵を切り、3000人の兵とともに降伏、その後は朝鮮の民衆のために日本軍と戦ったのだという。ふむふむ、あれですね、良甫鑑(リャンポカム)の逆Ver.ですね?(違)
そして、慶長の役では朝鮮方として、沙也可は日本兵と激しい戦火を交える。その舞台がなんと、熊本市の蔚山町の名の由来になった蔚山城の戦い。まさかここで繋がるとは。胸アツ!
韓国で見直される朝鮮人たち
朝鮮出兵は、日朝韓三国のいずれにとっても黒歴史でした。しかし、韓国ではもう少し冷静に歴史を捉え直してみようという向きもあるらしく、例えば、日本で高く評価されている陶工・紙職人・石工などの職人を「日本に来たから彼らの才能は花開いたのであって、李氏王朝では彼らを白丁(ペクチョン、卑しい身分の奴ら)と呼んで見向きもしなかった。才能が育つ土壌がなかったのだ。日本からの好意的な評価を素直に受け入れるのと併せて、韓国でも傍にある才能を見過ごさないようにすることが大事ではないか」という考えも生まれてきているようです。わ、すごい。韓国は前を向いて歩いていこうとしているのですね。
ということで、今回はかつてない大容量の記事になりました。
調べる前はテーマのセンシティブさゆえ、どうまとめたものか結構悩みましたが、私が認識していたものより前向きに事は進んでいることを知り、逃げずに調べて良かった、と思います。
もちろん、やってしまった過ちは反省し続けなければならないけれど。
最後に 冒頭で、特命調査慶長熊本~DEUKU単騎出陣~とは言いましたが、酒の勢いに任せて情報提供を呼びかけたにもかかわらず、召喚に応じてくれたAさんBさんCさんDさん
ありがとうございました~~~
私一人では1日でここまで調査はできなんだ。
まさに私を入れて5名の出陣。私は単騎出陣ではなく部隊編成だったのだ(誰がうまく言えと)。
あと、純粋に遊んでくれた人もありがとうございました。