三嶋仙顔を生きた尾形 俊太郎 | 植民所在地3丁目

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でも書いてることは変わらない。

お久しぶりです!

 

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タイトルの通り、ひっさびさに新選組尾形さんの記事です!横流し記事ではあるのですが!(爆)

以前も本ブログで紹介させていただいたかたではあるのですが、尾形さんの出自を非常に詳しく調べておられていて、今や上田 久兵衛さんのご子孫とも連絡を取り合っているスゴイかたです(上田 久兵衛さんのご子孫は古文書解読のエキスパートなのだそうです)。

 

 

このかたの調べで明らかになったことは多く、

 

■尾形家(三嶋家)の藩内での立場

■俊太郎さんのごきょうだいのこと

■俊太郎さんのお母さんがなんか怖い人っぽいこと

(勤皇党員宮部さんのおばあちゃんのあだ名も鬼老婆だし、熊本の女性は元気がいいね!←)

■俊太郎さんに、ちゃんと熊本に友達がいたかもしれないこと(←

俊太郎さん、誤字がすごく多いこと

(片眼の視力が大幅に落ちていたという話があるので、見間違いが多かったのではと思われますが、尾形おおらかうっかりさん説をこのかたは提唱してもいます笑)

 

などなど、結構リアルな実体が浮かび上がってきており、ひっそりとざわついている最近の尾形 俊太郎界隈です。(全てこのかたのブログに情報がありますので、気になるかたはぜひd.heart* mozi**mozi**mozi** こちらのページから入って、他の記事に行くのがスムーズだと思います)

新選組にいたときの様子や肥後勤皇党との関係こそ窺えませんが、地元の、熊本での様子はそれこそこのかたが紐解いてくださいつつあります。

 

 

今回、このかたがまた新たな発見をされまして、これはすごい発見なのでは!?と思ったので紹介させていただきます。

 

 

現在、尾形さんの新選組離隊後の痕跡を示すものは霊山歴史館に展示されている漢詩程度で、他のものは家の火事によって全て焼失してしまっているそうです。

しかし、このたび尾形さんが明治36(1903)年に三嶋仙巌の名で用水路建設の石碑の碑文を書いていたことが分かったとのこと(「仙顔」という号を持っていたことはご存知のかたもいるかと思います。どちらも「せんがん」と読む)。尾形さん、この時65歳。

 

詳しくは該当記事をぜひ見てみてください。

mozi**mozi**mozi**   『鹿北町史』より、新史料

 

その石碑は、山鹿市鹿北町椎持というところに現在もあるそうで(ここも旧嶽間村。岳間渓谷のある多久(村)と椎持(村)が合併して嶽間村となる)、確認することができれば霊山歴史館にある漢詩以外で初めて尾形さんの遺した現物を見ることができるみたい。

とにかく記事を見ていただきたいのですが、「三嶋仙顔」として山鹿に生きた尾形 俊太郎(三嶋 俊太郎)は、それなりにその地で活躍していたようなんですね。戦を経てようやく得た平和な地で、村人たちに慕われて生きたようです。

(嶽間は嶽間で荒れていた時期もあったようですがw  mozi**mozi**mozi** 岳間事件)

 

永倉おじいちゃんの小樽での武勇伝や、斎藤おじいちゃんの「うちの学校の最強の守衛。しかしてその正体は?」みたいなエピソードが仙顔先生にもあったのではなかろうかと私の脳内物語が勝手に幕を開けそうですw

 

 

 

感激して気分が爛々の状態なので、もう一件ちょっと。

肥後勤皇党関連では、更に彼らを身近に感じてもらう企画として、はべろんが『清河 八郎と肥後人』ネタを画策中。できあがったら、恐らくはべろんTwitterの方に上げるのかな。

清河と肥後勤皇党は反りが合わなかったという記述が、かなりはっきり、どの書物にも書いてあるんで、「新選組と肥後人」並みにいいネタになるのではと個人的には思っております。清河さんもそれなりに知名度や人気はあるので、はべろんはプレッシャーを感じているみたいですが笑

 

 

え、私は何をしているかって?

 

 

尾形さんも肥後勤皇党も情報を横流ししてるだけだけど私は何をしているかって?

 

 

久兵衛さん?よしくにさん?おてもやん?

 

 

ふっ・・・ツム顔作って遊んでたら9月が半分以上過ぎていたなんてそりゃあ幻さ・・・・・・