2016年という激動の年に突入して、自分探しという究極の中二病を遂に不治のものとした私。もう治りません。
私の先祖はどうやら、今回取り上げる宇土の地で刀鍛冶をしていた家系のようです。菊池・玉名の同田貫や阿蘇の蛍丸のように地域を代表するような有名な刀は宇土では聞いたことがないですが、友人に小西 行長の遺臣の子孫がいて、その家に私の先祖が刀を打っていたら面白いよね、と地元の友人同士で盛り上がったことが。その子孫は今でも旧宇土藩領に住んでいて、歴史って続いているもんだなぁと思います。私もなんだかんだでずっと熊本にいましたし。
そういえば、刀といえば愛媛・神奈川に次ぐ第四のホーム岐阜県関市が刀のまちで、蛍丸の復元に挑戦してくださっているそうで嬉しく思います。他にも、関市はふるさと納税をした人に刀をプレゼントするという銃刀法的に大丈夫かという実にチャレンジングなことをされており、岐阜県ミーンおよび刀工の子孫である私としましては、市民の動向を見守らずにはおれません。関市のPR動画をたまたま見て、彼らの精神状態が不安になりましたし。
本題に入ります。
中世時代の宇土城で、確か三城(さんのじょう)のご紹介でしたね。
三城もこのようにめちゃめちゃ大草原ですが、千畳敷同様掘立柱建物があったようです。宇土城の掘立柱建物は、板葺きか茅葺きの屋根だったと推定されており、これらの跡から建物の配置を想像すると、以下の図のようになるのだそう。
この建物跡の周りは広い空間となっており、庭園があった可能性が考えられています。つまりは、この三城は領主の住まいであったと。千畳敷を天守とするなら、三城は本丸御殿かな?
また、三城の周囲にはこのように土塁のようなものがありまして、雨が降った際は雨水がこの土塁に流れ落ち、三城の外に排出されていたと考えられるのだそうです。私は気づきませんでしたが、この土塁の写真の右奥(草で隠れているところ)には導水状の遺構があり、それは手前側に向かって緩やかに傾斜し、丘から流れ落つようになっています。
そう、言い忘れてたけどここは西岡台という丘の上にある城。城から宇土市街を望む。
親父の暴走運転で丘を下り、次は近世宇土城へ。近世宇土城は中世宇土城とは異なる場所にあり、こちらは現在、熊本県立宇土中学校・高等学校(中高一貫校)が敷地の一部になっています。
着きました。
と、いうのも、小西 行長の築いたこの近世宇土城は行長の死後、加藤 清正が肥後一円を支配していた時代に一国一城令が発令され、廃城になったからです。熊本では熊本城と八代城の二城が残されました。なので、宇土には400年くらい前から城はありませんが、領主が加藤氏から細川氏へと代わっても重要視され、肥後細川家第2代藩主・光尚(みつなお、忠興の孫で初代藩主・忠利の子)の時代に熊本藩支藩・宇土藩として立藩し、歴代藩主を忠利の弟の家系が継ぎました。3万石の無城大名であったため、現在の宇土市立鶴城(かくじょう)中学校付近に陣屋が設けられています。
また、宇土細川家は本家が男児に恵まれない際などの肥後細川家のピンチヒッター的役割も負っており、宇土細川家から二人、本家の肥後熊本藩主に迎えられています。うち一人は幕末に生きたかたで、第10代藩主・細川 斉護(なりもり)さん、私の推し藩主である第11代藩主・韶邦(よしくに)さんのお父さんです。
斉護さんは彦斎との繋がりもあるかたで、ペリー来航に伴う横浜警備では彦斎を供に連れ出陣しています。1860年の桜田門外の変では井伊 直弼を討った水戸浪士が丸の内にあった肥後藩上屋敷に逃げ込んできますが、そんな彼らに医者をあてがい、丁重にもてなしたのが彦斎でありその主であった斉護でした。
あと、この人も何気にクレイジー吉田 松陰の間接的な被害者でして、松陰と金子クンの下田踏海事件に宮部・永鳥・佐々の関与が疑われた時期、斉護は本来、参勤交代を終えて熊本へ帰る予定でしたが、幕府の引き留めを受けて江戸の滞在期間が1年延びています。1年という単位がもう既にクレイジーですが、引き留めを受けている間に安政の大地震という天変地異が起きており、もはや松陰が何かを持ってるとしか思えません。とりあえず、肥後という国にとって松陰は鬼門だということは分かりました。
この人は桜田門外の変が起きた翌月に亡くなりますが、調べてみると、どうもよしくにさん以上に強硬な佐幕派のようで、亡くなることなく明治維新まで藩主を続投していたら肥後藩の立ち位置はまた違ったものになっていただろうなと思います。よしくにさんと違って年も食ってたし藩主歴も長かったから、老獪そうだし。
そして私は更なるステージへ進む・・・さらば宇土市。
先日、夜中にふと思い立って大阪のホテルを予約したので三連休は大阪に行ってきます。
富田林にある松田関連の史跡を歩いてみる予定です。









