中世宇土城跡と近世宇土城跡(前編:中世編) | 植民所在地3丁目

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Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

ここ数年の急展開と数ヶ月のゴタゴタにより、自身に流れる血の半分が宇土市(うとし、熊本市の南隣にある市で小西 行長の城下町)のものであることが明らかになった私。歴史ガイド兼アッシー君の父とともに(爆)、宇土の城下町を散策してまいりました。

うんとこどっこいしょ。

うん、地図を探す時毎回思うけどWikipediaのこの地図が一番わかりやすいわね。

ちなみに、この地図のうち熊本市(彦斎らもろもろの肥後人たち)、御船町(宮部さん)、玉名市(松村&永鳥)、菊池市(もとえもんと中津 彦太郎)、荒尾市(宮崎兄弟)、八代市(細川家筆頭家老・松井氏)は既に触れています。このブログも記事が増えたもんだ。

ついでに、幕末維新関連の人物では、徳富 蘇峰水俣市の出身です。みんなバラバラ。

 

さてこの宇土市。宇土市にも幕末維新関連の人物はいますが、その人物についてはまた後で。

 

あたしゃ中世時代はちんぷんかんぷんだもんで、かなりざっくり説明させていただきますと、中世から戦国にかけての熊本(県)は菊池氏・阿蘇氏・宇土氏・相良氏という地名と同じ姓を持つ豪族が主な勢力でした。ただ、宇土氏が他の氏と違うところは、菊池氏や阿蘇氏、相良氏が出自が一つであるのに対し、宇土氏は出自が複数ある、というところです。と、いいますのもね、九州の中央にあるので、熊本県そのものが様々な勢力が入りまじり、争い合う草刈り場的なところがあったのですが、宇土地域は特にその傾向が強く、土地を奪った者が宇土氏を名乗っていたのですね。なので、最初に宇土氏を名乗ったのは奈良から移住してきた紀氏(き、三十六歌仙の一人・紀 貫之(きのつらゆき)の一族)だそうです。紀氏は早い段階で土着の豪族の勢力下に入り、その豪族を菊池氏が破ったことで菊池氏の傍流が宇土氏を名乗ります。やがて、その傍流とやらが菊池氏宗家への謀叛を企て敗北、この時は命を助けられましたが、別の謀叛を企てたので宗家から滅ぼされます。完全に内輪での潰し合いですね。

その後に入ってきたのがなんと八代(市)の人で、これを名和氏というのですが、この名和さん、松井さんが入ってくる100年ほど前の八代城の城主です(矢印八代城記事)。相良氏に追われて城を転々とし、行き着いた先がこの宇土の地。ようやく落ち着いたかと思ったら今度は豊臣 秀吉の九州征伐に遭い、降伏するも最終的に滅ぼされてしまいます。名和さん、アンラッキーボーイ。

その後に宇土(というか熊本)に入ってきたのが我らが佐々 淳次郎さんの祖先佐々 成政さんで、この紀・菊池・名和系宇土氏と佐々 成政までが中世宇土城の城主となります。 ま、成政は城主というほどでもありませんが。

 

成政の切腹後、熊本県の北部を加藤 清正、南部を小西 行長が治めることとなり、宇土市にあたる地域は小西 行長の管轄に入りました。行長以降が近世宇土城の時代ということになりますが、また長くなりそうなので、近世宇土城については次回触れるとして、今回は中世宇土城の写真を貼りたいと思います。

 

 

親父の暴走運転で辿り着いた中世宇土城跡。本来は、

 

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このように正面玄関ともいえる整備された入口があるのですが(逆光で見えにくくて申し訳ありません)、

 

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なんか鬱蒼とした裏道から入りました。結果的にそこが建物跡への近道だったのですが、なんたる悪路。

 
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中世宇土城跡の外観。「現在地」と書いてあるところが先ほど言った正面玄関みたいなところです。千畳敷三城(さんのじょう)が中世時代にできたところで、縄文時代や古墳時代の遺跡も周辺にあることから、古代からここが要衝であったことが窺えますね。
この案内図を見ると、千畳敷と三城が離れているように見えるかもしれませんが、実際に歩いてみると近いです。ただ、かなりの悪路です。道などありません。腰の高さまである草をかき分けて前へ進むのです。宇土には「宇土蚊」と呼ばれる特有の大きな蚊がおり、刺されたのですが腫れが大きく痛みのあるかゆさでした。デング熱にはなってない。
 
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こ。。。これが千畳敷の虎口。。。!こ、これはWikipediaのじゃなくて自分で撮った写真だぞ!(2回目)
 
さてさて。。。中は。。。
 
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門の内側から後ろを振り返って。
 
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\大・草・原・・・・・・!/
 
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大草原の小さなおうち。この写真より上の大草原の写真に写っている杭の部分に、掘立柱建物(ほったてばしら-)と呼ばれるこのおうちのような建物が複数あったそうです。
この千畳敷は、中世宇土城で最も重要な曲輪(くるわ、主郭)であると考えられており、最も高台の場所にして立派な堀に囲まれています。それが、こちら。
 
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千畳敷を取り囲む堀。
 
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これは未完成の堀跡で、「小間割(こまわり)」と呼ばれるブロックごとに切り分ける手法を用いて掘削作業をしていたことが予測できるそうです。

 

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もう一つ。千畳敷を取り囲む堀には大量に石塔が投げ込まれており、「城破り(しろわり)」という儀礼が行われた跡なのだそうです。城破りは「城の生命を断ち切る」という意味が込められており、つまりこの城は遙か昔に廃城になっていたという証拠に他なりません。
 
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完全なる「跡地」。つわものどもがゆめのあと・・・

 

しかし、まだ中世宇土城の紹介は終わってない。次回は、三城の紹介と、近世宇土城跡および関連の歴史(小西 行長、加藤 清正、宇土細川家)について触れたいと思います。