太子町山田の旅~幕末・松田ルート~ | 植民所在地3丁目

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Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

でうく西郷の、ひとり旅~♪(ZIPの○そらキャラバン的なノリで)

あれを見なければ、一日が始まった気がしません。

 

 

本記事は、でうくがはべろんと運営しているHP『幕末熊本最前線 物見櫓』にも同時掲載します。

 

 

今回でうくが旅をしたのは、大阪府の太子町山田。山田は大字の一つでそれほど大きな地域というわけではないけれど、山田だけで記事一つ出来上がるほど濃密な時間を過ごせました。

 

太子町は奈良県香芝市および葛城市と接する大阪府最東端の町で、日本最古の国道といわれる竹内街道が通っています。最寄の駅は、近鉄南大阪線の上ノ太子(かみのたいし)駅。

 

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上ノ太子駅の前にある竹内街道の碑。

 

そもそも、何故私がこの山田に用があったかといいますと、

 

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松田!

 

この太子町山田に、松田 重助の碑があるからです。

 

松田についての手がかりは私の手の届く範囲では本当に少なく、既に手に入れた資料から松田の名前だけを抜き出していくという狂気じみた趣味を発動させていたのですが、根気強く松田ストーカーを続けていると、天誅組について専門的に調べておられるかたのブログに辿り着き、松田について触れられていました。

松田は天誅組のメンバーではありませんが、天誅組を財政面でも兵糧面でも支えた水郡 善之祐(にごり・ぜんのすけ)という人と親しく、追手から匿ってもらったり挙兵を打ち明けられたりしていました。ちなみにこの善之祐さん、中世宇土城の記事で触れた紀姓宇土氏と血の繋がりがあるようです。世間ってば狭くてたまに嫌になりますね!(爆)

なので、松田を天誅組の括りに入れるケースも無きにしもあらずのようです。

 

この松田の碑も『天忠(誅)組松田重助先生~』という名になっているとのことで、このかたの情報を元に私は山田に飛んだ。

正直、私は不安だった。松田の碑に辿り着けるのか。何故ならば、今回はマイナー度がいつもの比ではない上、モータープールの意味が私にはわからなかったからだ。

松田の碑は山田地区の仏陀寺前にあるハタモータープールに建っているという情報だったのだが、初めてその外来語に触れた私は、ハタ・モータープールなのか、ハタモーター・プールなのか、それともハ・タモーター・プールなのかそもそも言葉の区切りさえわからない。「モータープール」をGoogle mapで検索しても山田と全く別の場所が出るので、ハタモータープールは山田にはもう存在しないのでは?それともモーター(何のモーターなのかは察しガーン)をホルマリンのプールにでも漬け込んでいる知ってはいけない場所なのでは?と想像力をたくましくしておりました。「モータープール」を関西語で「駐車場」を示すことを知ったのは悶々とし始めて1時間後のことでした。要は、「山田地区の仏陀寺前にハタさんの運営する駐車場(ハタ駐車場)があって、その敷地内に松田の碑が建っている」ということなのでした。うむ、日本語は深いで!

ま、モータープールの意味がわかったところで仏陀寺が地図検索で出てこなかったら辿り着けていませんでしたがね。

 

 

近鉄線で橿原神宮行きの電車に乗り、奈良方面に向かう途中で上ノ太子駅はあります。駅そのものは羽曳野市(はびきのし)に属しますが、線路を渡ると太子町という、限りなく市と郡の境。

山田地区は結構な住宅地ですが、バスの時刻表を見るとバスに乗って最寄の停留所まで行こうなんていう甘い考えは消し飛びます。かろうじて一軒、レンタサイクル屋さんが駅前の道路を挟んですぐの場所にあって、電動自転車と普通の自転車を借りることができました。私は電動自転車の使い方に自信がなくて普通の自転車にしましたが、借りるならば電動自転車が断然おすすめです。山田地区はその名の通り山を切り拓いて田んぼと住宅地にした地域なので、普通の自転車借りても半分くらいしか自転車の役目を果たしてくれません。半分は、押して、歩く。ええ、西郷恒例の登山イベントですがなにか?(爆)

 

太子町の人たちは、大阪人の人懐っこさと奈良人の穏やかさを併せ持ったかたがたで、道の途中でいろいろなかたに話しかけられながら先に進みました。山田が山を切り拓いたなんて山田に住むおばあさんが教えてくれましたからね。ええ、言われるまで気づきませんでした私。

 

 

仏陀寺および松田の碑は、山田の山の頂上ともいえるところにありました。ほぼ同じといっていい場所に、太平洋戦争で徴兵され、戦死した山田地区出身のかたがたの慰霊碑もある。

 

仏陀寺そのものも結構有名なお寺で、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)の墓(仏陀寺古墳)が境内にあるとのこと。そがのくらやまだいしかわまろ・・・誰かよく知らんけど学校で習ったわ~。名前にインパクトがありすぎて寿限無並みにクラスメートと暗記合戦した。

 

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石川麻呂の墓のある仏陀寺。門は閉じていたので中に入ることは控えました。

 

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塀が低いので、塀の外からでも鐘つき台がはっきりと見えます。この鐘はなかなか数奇な運命を辿ってきた鐘で、大東亜戦争に伴って供出されたものが、敗戦のおかげで溶かされずそのままの姿で戻ってきたのだそう。

 

そして、仏陀寺の向かいが・・・

 

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松田!(爆)
あぁ~会いたかったよ松田!松田!(なんか違う)
 
松田の碑が何故こんなところにあるのかというと、これも天誅組について調べておられるかたのログからなのですが、碑のあるここ(ハタモータープール)はもと円妙寺というお寺であり、円妙寺の僧侶の娘を松田が娶っていたからなのだそうです。えっちょっと待って、松田って既婚者だったの!?しょっく!!←
 
松田は池田屋事件によって京で命を落とし、その遺骸は京の三縁寺に葬られる・・・のは割と知られた話ですが、松田の死を聞いてここ円妙寺でも松田の位牌を置いていたとのこと。円妙寺は現在、大阪市に移転し、位牌もそれに合わせてそちらの方に移っているようで、こちらは『天忠組松田重助先生位牌所跡』として地元の有志によって石碑が建てられたとのことでした。
この情報を受けて、円妙寺が大阪市にあるのかざっと検索してみると、なんと3ヶ所ありました。どれもHP等なく詳細がいまいちわからないのですが、最も大きいと思われる中央区の「円(圓)妙寺」は、大倫寺、正法寺、法雲寺、久成寺など他の寺と隣接していて、松田抜きにしてもなかなかに面白そうな感じ。寺町なのだなぁ。
 
松田は富田林に身を潜め、家塾を営みながら同志集めに奔走しています。それは太子町のお隣・富田林市寺内町の紹介サイトにも載っているのですが、そう、富田林はお隣の市なのですね。鉄道も、上ノ太子経由と富田林経由で違う路線が走っていて、太子町と富田林は結構離れているのです。その距離間は、徒歩にして約1時間半。まぁ、当時の感覚ではそこまで離れていないかもしれないけど、「富田林に潜んだ」という記録にある富田林の範囲が太子町も含んでいるのかいないのかというと、どうも含んでなさそうだなぁと翌日富田林に行ってみて思いました。つまり、「富田林に潜んだ」という記録はこの太子町の円妙寺を指しているのではなく、富田林は富田林で潜んでいたと。僧侶の娘さんを娶ったということは、円妙寺の僧侶の信頼も得て匿ってもらっていたことが考えられるので、ほほうハタモータープールは富田林に次ぐ2つ目の隠れ家かな、と思ってみたり。考えてもみれば、松田は幕府に追われて各地を転々としていたので、痕跡があちこちで出てきても別におかしくはないんですよね。
 
しかし、碑を見つけたはいいが、見つけても別にやることはないのでとりあえず松田の碑の右側にある脇道に入ってみる。岐阜から3時間半かけて来て碑だけ見るってどうよ。しかし鈍行でも3時間半で行けるって岐阜の交通網は何気にスゴイ。日本のへそは最強なのである。
 
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脇道行くとただの竹林。
 
このまま進むと、チェーンソーを持ったおいたんたちと鉢合わせしたので(文章に悪意あり笑)慌てて戻り、自転車を漕いで山田の山を降りると、麓には・・・
 
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なんと!
 
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『推古天皇磯長山田陵』
 
推古天皇のお墓が!光栄だなぁ~松田!てか頭が高いよお前!天皇見下ろしてるよ!(爆)
 
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大正14年に建設された拝所。うぃ、ウィキの画像じゃな・・・!(以下略)

この拝所の奥に、推古天皇とその息子・竹田皇子が合葬されている山田高塚古墳があるそうです。古墳は完全非公開。

 

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太子町は推古天皇のお墓の他、敏達天皇陵・用明天皇陵・孝徳天皇陵・二子塚古墳などがある古墳のまちでして、「近(ちか)つ飛鳥」と呼ばれる飛鳥時代の空気を教えてくれます。松田が山田に痕跡を残したのも、天皇ゆかりの場所が多かったからなのかな。

 

 

松田の痕跡を辿る旅、次回は富田林寺内町をお送りします。

あと、太子町はその町名の通り聖徳太子のまちなので、正規ルートと称して『太子町山田の旅~飛鳥・太子ルート~』と、太子に関連して『大阪・四天王寺』記事を上げる予定です。

 

 

今回の旅で参考にさせていただいたログ:http://blogs.yahoo.co.jp/tentuji