最近、一緒に幕末肥後人創作企画をしてくれるようになった友人から、「轟 武兵衛について詳しい資料がなかなか見つけられなくて困っているから教えてくれない?」と言われて困ったことがありました。私自身、轟さんに関しては未だに調べあぐねている状態だからです。『勤皇党の三強』のうちの一人という重要な人物でありながらも本ブログでまともに取り上げてこなかったのは、一つの記事にできるほど彼についての情報を集められていないからです。断じて推しメンではなかったからではないぞ!←(いつもは「推しメン」と一発変換されるのに今回は最初に「惜しメン」と変換されたのが轟さんの本ブログでの境遇を物語っている・・・)
しかし、轟さんが重要な役割を果たしたことはやはり変わりなく、それは後世現代に遺されている記録そのものから窺うことができます。轟さんはどうやら、現代私たちが目にしている肥後勤皇党資料(史料)の書き手だったようなのです。なるほど、これならば轟さん自身にまつわる記述が少ないこともわかる。新選組でいうならば永倉 新八や島田 魁のように、轟さんは当事者として肥後勤皇党員の働きをつぶさに記録してくれています。現代に生きる私たちに肥後勤皇党の尽力を伝えてくれていること、それが轟さんの最大の功労のようです。
と、いうわけで、本記事では轟さん自身というよりは轟さんの遺した記録、とりわけ後世に影響を与えた情報について書きたいと思います。
八月十八日の政変から3ヶ月後、轟 武兵衛と山田 十郎(十郎については第2回目で触れる予定です)は三条 実美の命によって肥後藩の長州への助勢を求めに帰郷する道すがら、捕らえられて熊本城内の牢獄へ繋がれます。
轟が後世資料となる記録を記したのは獄中でのことで、私が永鳥さんについて調べる際のバイブルの一つであった『松村大成永鳥三平両先生傳(伝)』の原型著者の一人のようです。そこにはたびたび本ブログをにぎわせている三平さんの人となりの他に、三平さんがいかに実家松村家でかわいがられていたかが書かれており、父も母も兄(大成さん)も三平さんの才能を見込んで家財をつぎ込みまくったとあります。何も獄中でそんなこと書かんでも。
編纂者の補足を含めたその記述では、『三平は松村家を出て永鳥家を継いでいたが、永鳥家の家財を費やし尽くしたので頻繁に実家に無心に来るようになった。父・安貞はさすがに音を上げ、
父・安貞「三平は狂人だ!」
と、白眼視した』とのことで、やっぱり当時の目から見ても彼はまじクレイジーだったみたいです。その後の永鳥家が大丈夫だったのかが気がかりです。
子煩悩からようやく目が覚めた父・安貞さんですが、思わぬ人物に背後から刺されることになります。
妻(つまり大成・三平兄弟のお母さん)の田尻さんです。
母・田尻「三平は立派な武士ではありませんか!どこが狂人ですか!金遣いの荒いのを狂人とおっしゃるのですか!?あれは国家のために尽くしているのではありませんか!狂人とはあまりのお言葉です!」
目を覚ませお母さん!!狂人以外の何だというのだ!!
毎度このようにまくし立てられ、ぐぬぬだったというお父さん。あぁ、大成さんと三平さんは16歳年が離れていますが、大成さんは6人きょうだいの長男、三平さんは末っ子だったそうですよ。いつの時代もやっぱり末子はかわいいのか。
つまりは、三平さんのクレイジー伝説がここまで流出していること、本ブログがそれで盛り上がっているのはすべて轟さんの陰謀といってもいいということに・・・恐ろしい子轟さん・・・てか、三平さんのことよう見とるな・・・・・・
獄中の手記ということは、獄中には三平さんもいたわけで、彼が何となく目に入って走り書きしたのでしょうか。もしくは、三平さんは獄中にいる時は病状が相当進んでいたはずなので、彼が生きているうちに書こうとしたのでしょうか。にしてもすごい記録である。
轟さんが影響を与えているもの、それは本ブログの内輪ネタだけではありません。
池田屋事件の戦死者、復習してみると宮部 鼎蔵、松田 重助(以上肥後)、吉田 稔麿、杉山 松助(以上長州)、北添 佶摩、石川 潤次郎(以上土佐)、大高 又次郎(赤穂浪士子孫)が主ですが、さる人によるとこれは轟さんの記録が元になっているのだそうです。むろん、轟さんはその頃獄中にいるので聞き書きということになるのですが、だからこそその記録には信憑性がないとのこと。特に宮部さんの池田屋戦死に関しては実証できないらしいのです(松田に関しては「生け捕りするも傷が深く、当日のうちに獄中にて死した」という別の公式文書があるので実証できるそう)。「だから宮部さんが池田屋にいた証拠はなく、そこで死んだとも限らない」というのが主張のようですが、ならば宮部さんは一体何なの?という別の謎を呼ぶので、私は考えることをやめました。池田屋の情報の錯綜ぶりは半端ない。その説に対する反論が気になりますが、池田屋そのものに対する興味はそれほどでもないので、あくまで静観していたいと思います。
このように、どこまでも記録者として私たちに正体を現さないスタンスの轟さんですが、人物評が全くないわけではありません。本ブログでも以前紹介した本『神風連とその時代』の著者・渡辺 京二先生は「(維新後、轟は明治新政府で弾正大忠という職位につくも)肩書をやたらとふり廻し、在任中の仕事といえば横井 小楠暗殺の下手人を無罪にしようとしたことくらい。帰国した時には金拵えの太刀を佩(は)いており(当時、維新殉死者の追悼の意を込めて豪華な物は自粛する風潮だったようです)、改名(照幡 烈之助)からも幼い自己顕示欲がよくうかがえる。明治6年に死んでいなければいつまでも禄を食み続け」・・・あのすみません、私のライフはもうゼロです。
渡辺先生は「林 桜園の初期からの弟子でありながら、桜園の思想を全く理解していない人」と酷評なさっています。ひいい。
と、いうことで、第1回は永鳥ときどき轟の話でした。
第2回は十郎ときどき彦斎の話をします(松山 守善は!?←)