※ 平成28年1月18日現在
どうやら同姓同名のお酒があるみたいです。しかも高級梅酒。
商品説明によると、「山田」が「酒」、「十郎」が「梅」にかかるそうで。。。
つまり、「梅酒」の並びを酒造業界風に訳すると「ジュウロウ・ヤマダ」という欧米風な読み方になるというな。。。あっはいちょっと黙ります←
このことを知ったMM(ミッツマングローブ)と「そういえば萌え酒というのがあるな」(お酒を萌え擬人化すること)という話になり、「それを踏まえると梅酒山田十郎が萌え擬人化される可能性は大いにあるが、果たしてその梅酒山田十郎とは男なのか女なのか」というこれまた深い話になりました。チープな人生を歩んできた私にはその答えを見つけ出せそうにない。
まぁ今の時代、男の娘という選択肢もあるんじゃないですかね。
・・・・・・。
さて、本題です!
本記事では人間の山田 十郎、それも私の推しメン松田 重助の実弟がキーとなっております。私の張り切りようはだから半端ない。
轟サイドは前回書いたとして、十郎サイドでは苛酷な拷問が待っていました。轟も拷問を受けたとは思いますが、状況が記録に残っているのは十郎の方です。どうやら肥後勤皇党は、三強(宮部・永鳥・轟)のコメディ班と彦斎・松田・十郎のシリアス班に明確に分かれるようですね。
十郎の拷問を担当したのが、今回紹介する松山 守善(まつやま・もりよし、1848~1945)です。
十郎が受けたのは釣り拷問。拷問の中でも最も苛酷な部類に入ります。この頃、宮部や彦斎、藤村 紫朗(第5回にて紹介)らはまだ逃げ回っている最中で、彼らの居所も松山は吐かせようとしたのでしょう。しかし、十郎は決して屈せず、「眼よりは一種名状すべからざる光を放ち、口をしめ額には油汗をうかべながら」苦痛に耐えきったのだそうです。松山は「涙を掩(おお)うてこれを見」、十郎の志士たる態度に自らが膝を屈します。
やがて、今度は彦斎が同じように入獄してきて、獄中で松山は教えを乞い、彼に心酔するようになります。
彦斎は果たして人斬りかと私が疑問に思う根拠がここにもあり、彦斎には言論で人を引きつける宮部さんや松陰先生に似たカリスマ性がどうもあったようなのです。松山以外にも、旧佐幕派(時習館党)や若者の心を掴んで敬慕されています。だからなのか、地元では世間が言うほどの「人斬り」「テロリスト」といった低い評価を彦斎自身にはしていないのです。
ところが、明治に入ると勤皇党の精神的支柱であった林 桜園が死去、大楽 源太郎を匿った彦斎の東京護送および処刑、更には横井 小楠暗殺によりこれまた精神的支柱を失っていた時の政権・実学党による十郎らの再投獄(小楠を実際に殺したのは十津川郷士ですが、堤 松左衛門の一件から実学党は勤皇党に強い恨みを持っていました)が立て続けに起き、拠り所を完全に失った太田黒 伴雄、加屋 霽堅(はるかた)ら敬神党(神風連)は宇気比(うけひ:神慮、占い)に全てをゆだねるようになります。
この変貌を目の当たりにした松山は
松山「こいつら、やっべぇぞ」
と、ドン引きします。
敬神党もやはり当時からクレイジー集団として認識されていたようです。でも、こういった背景を考えると実は決して他人事ではない心理状態だと思うのですが、どうでしょう。
ともあれ、敬神党にドン引きした松山は熊本にいる理由がなくなり、離党して東京に向かいます。ついでにいうと、上京を促したのはなんと轟さんだったとのこと。
更に更に、上京した先で出会ったのが、なんと、もとえもんの義理の兄弟・宮崎 八郎。
いやはや、繋がっているものですねぇ。あらふしぎ、宮崎兄弟に関する記事も以前書いてる!(爆)

宮崎 八郎と懇意になった松山は、今度は自由民権家として熊本の地に舞い戻ってきます。
宮崎 八郎といえば西南戦争で薩摩軍につき、戦死しますが、じゃあ松山はというと結婚話が浮上しており、妻との平穏な生活を取るか、同志を取るかの選択を迫られ、結果、妻を取っていました。
そして、神風連の乱と西南戦争が起こる。松山は官吏として身の上を保障されながら、かつての同志たちの遺体を検視したのだといいます。
その体験があってかすぐに官吏を辞め、弁護士に転職。「若い頃は誰しも過激思想に傾くことはある」と言い、政治犯の弁護に力を注いだのだそうです。さまざまな思想を渡り歩いてきた松山だからこそいえる深い言葉ですね。
熊本は思想に溢れる地です。いや、人の数だけ思想があるのはどの地だって同じだけれども、それを確立し発信するには言葉に落とし込む語彙力と論理的に組み立てる思考力が必要です。江戸期細川の武士教育はそれらつまりは“具体的に説明する能力”を徹底的に鍛えた。
人間は自身に語彙や論理的思考力がなければ、「なんとなく自分が思う」カテゴリのグループに加わりなんとなくそれに合わせた行動をするのだそうです。グループの長になるのはその中で最も説明力のある人で、他の人はその人に“説得”された形となるので以降はなんとなくの行動を取る。頭脳を上の人に預ける訳ですね。
しかし、肥後人にはそれができない。その教育は低い身分の者にも浸透していた節があり、皆が皆ひとかどの論を持っているのでそもそも説得でなく議論になり、“違う”部分に目がいき徹底的に説明を求める。その性質は緻密な修正が必要な藩政改革などには大いに役立ったけれども、革命などといった壮大な理想を掲げるべき場面では妥協ができず、細かな思想が群がり出て食い合う。それが『肥後の議論倒れ』とか『肥後の鍬形(一人ひとりが大将気取りで一致団結しない意)』と呼ばれる県民性の正体で、幕末の三つ巴の争い(時習館党vs.勤皇党vs.実学党)や維新後の実学党による弾圧、神風連の集団自決に近い反乱、宮崎 八郎の西南戦争への参戦に結びつくのだそうです。松山や徳富 蘇峰などは時代的にその争いの渦中にはいるけれども主導権は握らない、各党の中枢より一世代後の人間であり、上の世代による無益な殺し合いを冷静に観察している世代でした。
それでも、最初に触れた彦斎の思想は松山の心に深く根ざし、彼の著した『河上彦斎伝』が現代の私たちの資料となっています。
松山は終戦間際まで生きました。物資不足のため霊柩車を用意できず、遺体はリヤカーで火葬場まで運ばれたとのことです。
投獄、記録者、クレイジーと共通のワードは多いのに、前回とは対照的な話の真面目さでした。
第3回は肥後勤皇党から抜け出して、少し

