神奈川に戻る時は新幹線を使ったので、交通センター前から移動されたというおてもやん像をついでに確認してきました。おお、確かにJR熊本駅の新幹線口にあった。
先日のもとえもんと並べて写真を貼ってみる。同じ作者から生まれた姉弟像。それだけの縁ではなく、民謡『おてもやん』は肥後勤皇党の忍び唄であるという説があり、(信憑性はともかくとして)その意味でも縁の深い二人です。
ちなみに、今回取り上げる宮部さんの銅像はコチラ。
最近はこうした銅像めぐりや石碑めぐりが増えてきているので、「なに?きみ銅像マニアか何かなの?」と訊かれるのですが、違うんだよ!なんかね、最近は銅像や石碑の背後に彼らの人生が視えるんだよ!後光の如くパァァーーー・・・てさ!自分でも何を言っているのかわからなくなってきた・・・
あ、菊池 武光像含めた銅像の画像、お好きにお使いくださいね。ふふ、これで彼らもくまモン並みの拡がりを・・・ふふ、ふふふふ・・・・・・
さて、2015年12月28日、私たち家族は、上益城郡御船町(かみましきぐん・みふねまち)にあるという宮部鼎蔵生家跡と鼎春園(ていしゅんえん)に行ってきました。何故か家族総出で宮部さんにごあいさつである。
永鳥(玉名)、高木(菊池)、宮部と見事にバラバラである。しかし、この御船を南限に肥後勤皇党は出身者の名を見ない。御船以南は天領になった時期があったり、佐幕傾向の特に強い松井氏(細川藩筆頭家老)が抑えていたりしたからだろうか。
そしてここもまた地図に出ないのである。なんで!?一応この人一度は世間に名を轟かせてるんですけど!?
そして私は嫌な予感しかしないのである・・・・・・
本来は練習を兼ねて、ベテラン運転手の父に助手席に乗ってもらい、現在もほどよい田舎であろうそこを私が運転する予定だったのが、御船は私の想像していた以上に山のままであり、ペーパードライバー+ビビリの私では運転できず。どんどん山の奥へと入っていき、弟は酔うわこちとら血の気は引いていくわで本当に嫌な予感しかしない。
私「宮部さん・・・本当にこんなへき地を週一ペースで熊本城下と行き来していたの・・・?(←失礼)
鬼や・・・楽子さん(宮部さんの祖母)鬼や・・・鬼畜の所業じゃ・・・・・・!(←もっと失礼)」
父「しかも子どもの足だったとやろ?だいたい、帰りきれるのかね。
そら道の途中で寝て郡代官に補導されるわけたいね。冬はどうしとったとやろか。
まぁ阿蘇じゃあるまいし、今年は暖冬だから凍えんか。ハッハー!」
父よ・・・・・・何がそんなに楽しい?
要は県道221号線をひたすら進めばいいのですが、そうすっとしゃがなほぼ気づかないまま通り過ぎるのであります!
熊本市方面から来た我らも鼎春園を華麗にスルー。しかし、県道221号線沿いには大きな石碑がありそちらはすぐに見つけることができました。
宮部鼎蔵生家跡および産湯に使われた井戸
この地は私有地であり、他の観光地と比べても慎重に動くべきところだとは思いますが、訪問者には結構慣れておられるようで、「私有地」と書かれた看板に注意書きもしてあるので、その通りにすれば特に気を張ることもなさそうです。
私の時は、土地所有者のかたが外に出てきてくださり、「撮りやすいようにしちゃろたいね」と駐車していた車を移動してくださいました。ありがたいやらお恥ずかしいやら。
生家跡の石碑。「贈正四位宮部鼎蔵君邸跡」とあります。石碑の文字は山縣 有朋が書いたものです。
この石碑を仰いでいると、所有者のかたが「どれ、取った方が写りがよかろたいね」と言って、石碑に立てかけて干してあった大根をどかしてくださいました。あの・・・お供えなのかただ干しているだけなのか、ちょっと訊いてもいいですかね?(結局訊いてない)
日当たりはめちゃんこ良好です。
宮部さんが使用していた井戸の表と裏から。宮部さんが生まれた際の産湯にも使われました。
所有者のかたに鼎春園の場所を教えていただいたところ、「ここ(生家跡)から40mほど西へ進み、左手すぐよ」とのこと。「よかね?ほんとすぐよ」と言われつつ、なんだかひどく照れくさい気持ちになりながら退散。いやね、私そう見られることは少ないんだけどね、結構シャイなんですわ・・・
父「どだった?」
私「なんだかすごく懐かしい感じのする人だった・・・」
父「懐かしいって、お前の家族は俺ぞ。親切にしてくれたのは、あの人が宮部さんの子孫だからじゃなかと?」
え?
た、確かに、他の志士の子孫のかたは移住されていることも多いですが、もとえもんのご親族のように地元に残られていることもむろんあるわけで・・・えっ、ええええっ!?
おはなし・・・したかった・・・・・・
しかし、いつまでも停車してはいられないことと、時節柄ちょいと厳しかろうのでいずれにしろ断念。いざ鼎春園へ。
全景。一番に目を引いたのは、中央にそびえ立つ大きな木。木の大きさに合わせて写真を撮ると、石碑や像がどこにあるかわからなくなりそうです。この写真で銅像がどこにあるか、わかりますか?
御神木か、絶対何か深い意味のある木のハズなのですが、説明書きなどはなくただ、当然にそこに存在しているのでこの木の素性はわからず。あと、左隣には土台石があり、何が建っていたのか、或いは何を建てる予定だったのかも謎です。
鼎春園は、宮部 鼎蔵さんと彼の弟・春蔵さんの偉業を称えるために大正2(1913年)に造られた公園で、中央の石碑が顕彰碑になります。
顕彰碑。碑題は細川家第15代当主・護成公によるもの。
この公園には顕彰碑と銅像の他、鼎蔵・春蔵兄弟の歌碑(鼎蔵:「いざ子供 馬に鞍おけ九重の みはしの桜散らぬそのまに」、春蔵:「故里の花を見すてて飛ぶ田鶴は 雲井の空に羽をやうつらむ」)や鼎蔵さんが脱藩前に家族に贈った「孝忠」の遺訓の碑、2005年にできた彫像の碑などがありました。以下、鉄壁の日光ガードに遭い載せられるものは少ないですが、なんとか見てわかりそうな写真だけ貼ります。
「孝忠」の碑。
弟・春蔵さんの方の歌碑。お兄さんはガードが堅いよ・・・
兄弟といいましても、彼らは19歳年が離れており、鼎蔵さんが春蔵さんに教授する師弟の間柄でもありました。春蔵さんは禁門の変で真木和泉らと共に自決する天王山十七烈士の一人ですが、それ以外のトリビア情報としては、安政2(1855)年に横井 小楠・鼎蔵双方の弟子との間で起こった水前寺乱闘事件の鼎蔵側の弟子とは彼のことで、彼は1年半の禁固と3年間眉なしの刑で済んでますが彼の友だちは一人処刑されてるし鼎蔵さんは一生隠居状態にされてます。あはは、鼎蔵さんの周囲は本当に困ったちゃんばっかりだ!
父「(上の光景を見て)懐かしい・・・・・・」
私「・・・・・・は?」
弟が酔いを通り越してガーゴガーゴいびきをかいている頃に、ようやく車内へ引き上げる。あ、駐車場はありません。空気を読んで引き上げよう。
父に運転を丸投げして帰る。その方が様々な意味で安心だからなのでありまするが、そんな中父がとんでもないことを言い出すのでございます。
父「山を下りられない」
私「・・・・・・え?」
父「ナビの指している方向もおかしいし、次の山に入っていきよる。何故だ」
私「え・・・知らん」
と言いつつ、わたくし内心冷や汗だらだらなのでございました。いくら国土の7割が山林といっても、ここまで山と磁石のようにひっつくやつがあってたまるか!!
説明しよう、私に霊感といった類のものは基本全くないのですが、何故か山とはこんな感じで友人にネタにされるくらい引き寄せられては離れられないディープな関係なのでございます。どうした、山の神は女性を嫌うんじゃなかったのか!?
結局、地元なのに40分くらい山を彷徨った後ようやく家に帰り着きましたー。もうやだこわい。
あ、最後に、鼎春園の住所も永鳥さんの時と同様記しておきますね。
鼎春園:熊本県上益城郡御船町上野2215
梅林児童公園とは対照的に、遊具はなく厳かな空気が流れています。
この記事を作成するにあたって、新たにいろいろ調べものをしていたのですが、その過程で熊本城下(内坪井町)に宮部鼎蔵旧居跡の結構でかい碑があることを初めて知りました。一角しっかり陣取ってるじゃない!ええいつできたの!?←
ちょっ、こらまた時間作って行くしかない!
まだまだ勤皇党からは離れられそうにないでごたる