2015年12月23日、新町での彦斎めぐりを共にした友人Nと歩いていたら、いつの間にか菊池にトリップしておりました。
菊池氏第15代当主・武光(たけみつ)像。この日は雨が降っていたので、暗くてすみませんね・・・
そういえば、銀座熊本館に通い詰めているYが帰熊前にこんなものをくれ
「菊池一族のススメ」パンフレット。キャッチコピーは「刹那の煌めきを見よ!!」。
開いてみると、24人の当主のうち菊池市が選抜した5人の推し当主のブロマイドと決め台詞が載っていました。
中でも菊池市イチ推しの15代・武光の決め台詞は
「どこを向いても向かい風とは上等だ。俺がやる。」
いいですね。
肥後勤皇党でもこういうのできませんかね、
松田「脱藩なんてするもんじゃない。藩外(そと)のことはオレに任せろ。」
永鳥「オレは政治と戦と女が大好きなんだよ。だから・・・金貸して。」
宮部「放っておいてくれないか。私がどこから洗おうが、君には何の関係もないはずだ。」
・・・・・・松田しか真面目にやってくれる自信がない。
話を戻して、私たち、この2時間ほど前には城下のスイーツビュッフェで優雅にバイキングしていたというのに、気がついたら上の菊池 武光像の前にいたのでした。Nと行動するといつもこうである。
きっかけは、
N「菊電乗ってみたくない?」
の一言であった。
説明しよう!菊電(菊池電車)とは、熊本城下の藤崎宮(宮部さんによって神鏡を松陰先生に勝手に贈られた神社です!)から県北部合志市の御代志(みよし、地図上では菊池恵楓園あたり)を結ぶ熊本市北部のローカル電車で、「菊池」電車なのに菊池市に全く届きません!おい!!
いずれにしても、東の横井 小楠の家あたりが行動範囲の私たちとしましては、熊本市北部など未知の領域で、そもそも菊電など乗ったことがなかったのであります。言われてみれば確かに気になる。
城下から菊池までの交通の便は案外悪くなく、御代志から菊池へはバスで行けますし、城下から菊池へ向かうバスも出ています。今回は菊電に乗りたかったので、バスに乗るのは御代志から。
そして、菊池といえば、菊池出身の幕末の志士に高木 元右衛門がおります!前回本ブログで取り上げてから1年が経とうとしていますが、私は君のことを忘れたことはなかったよ!他の人は知らないけどね!
菊電に乗るという目的を達成したはいいが、このまま藤崎宮に引き返すのもなんだか虚しすぎるので、Nに頼んで菊池まで進み、もとえもんの銅像があるわいふ一番館に行くことに。その場のノリで菊電に乗り込んだので、武光像の前に着いた時には16時を回っておりました。
武光像からわいふ一番館まではさっさと歩いて5分くらい。しかし、そこまでの道には菊池神社の鳥居あり(菊池城址)、御神木あり能舞台あり(鳥居の外である御所通り沿い、つまり神社の敷地ではなく参道にあるという変わった配置です)、明治期に建てた医院がありと見どころ満載でした。
清正細川漱石八雲・・・外から来た人しか評価しない熊本の良心だよ、菊池市は。
それらの写真を撮る時間も惜しみ、まずはもとえもんだよもとえもん。17時には施設そのものが閉まるんだし、後でじっくり撮ればいいさ。
あ、あった!
前面の画像は割とあるので、私のブログでは後ろからも。おしり。
この銅像を造ったかたは、熊本交通センター前にあったおてもやん像の作者と同じだそうです。現在おてもやん像はJR熊本駅の新幹線口に移設されたんですって?
あと、上の菊池 武光像も確か同じ作者だったかと思います。
この銅像におけるもとえもんの顔ですが、もとえもんのお兄さんやおじなどの写真が遺っており、モンタージュして出来上がったそうです。実際のもとえもんの容貌は、「顔少長キ方、色少赤キ方、髪少赤キ方、鼻髙キ方、目長キ方、眉コユキ方、力普通ニ越テ強キ方、長五尺六寸余(身長は約185cm)」と記録があるよう。私いつも思うんだけど、志士の平均身長は当時の一般男性の平均身長より30cmくらい高いんじゃないでしょうか。
もとえもんの祖先は菊池氏に仕官しており、そのため、勤皇の志篤く「朝廷衰微を憂る事、朝夕ニ有之候事」「丑・寅之刻より外夷渡来以来ハ、別而攘事或ハ獨事シテ居候事あり」「菊池氏・楠氏之功績、遺跡をしたひ、追ニ落涙ニ及ヒ候事」だったそうです。宮部さんから山鹿流兵学を教わった関係で、肥後勤皇党加盟、池田屋事件、禁門の変と動乱に引き込まれていきます。お酒と古歌をこよなく愛し、一升空けることもたびたびで酒後に古戦場の詩を吟ずることが常だったとのこと。どうしよう、どこまでもまじめ。
もとえもんの遺品。禁門の変で、もとえもんは先鋒として一番の激戦地・蛤御門に突入し、京都守護軍の銃弾を受け32年の命をそこで散ります。これはその際に身に着けていた認証標。
遺品といえば、菊池出身の勤皇の志士はもう一人いて、中津 彦太郎(なかつ・ひこたろう)も菊池市としては推したいようです。彦太郎さんもまた武士の家系ではありますが、大坂相撲にて矢筈嶽(岳)の四股名で活躍していたところ、脱藩して同じく大坂に潜んでいた松田と出会い、彼に心酔。そこから尊皇攘夷運動に傾倒していった異色の経歴の持ち主です。禁門の変で真木和泉らと共に天王山で自決、天王山十七烈士の一人に数えられています。
もとえもんを顕彰するにあたり、菊池市は彦太郎さんの子孫のかたにも声かけをし、彦太郎さんの遺品を探したそうで、遺品が入っているといわれていた箱を初めて開いてみると、そこにはただの石ころのみがあったと聞きました。きっと遺品の代わりに京都から誰かが持ち帰ったのだろう、ということでした。
これまでまるでカバーできていなかった菊池氏、そして志士に関する裏話を聞き、ホクホクで資料館を出た頃には外はもう真っ暗。なんと、18時を過ぎていたのです。職員さん、遅く来て遅く出てすみませんね・・・
なので、写真を撮ったところでどれも暗すぎて載せられないのですが、1枚だけ無理やり載せてみる。
中でも菊池市イチ推しの15代・武光の決め台詞は
「どこを向いても向かい風とは上等だ。俺がやる。」
いいですね。
肥後勤皇党でもこういうのできませんかね、
松田「脱藩なんてするもんじゃない。藩外(そと)のことはオレに任せろ。」
永鳥「オレは政治と戦と女が大好きなんだよ。だから・・・金貸して。」
宮部「放っておいてくれないか。私がどこから洗おうが、君には何の関係もないはずだ。」
・・・・・・松田しか真面目にやってくれる自信がない。
話を戻して、私たち、この2時間ほど前には城下のスイーツビュッフェで優雅にバイキングしていたというのに、気がついたら上の菊池 武光像の前にいたのでした。Nと行動するといつもこうである。
きっかけは、
N「菊電乗ってみたくない?」
の一言であった。
説明しよう!菊電(菊池電車)とは、熊本城下の藤崎宮(宮部さんによって神鏡を松陰先生に勝手に贈られた神社です!)から県北部合志市の御代志(みよし、地図上では菊池恵楓園あたり)を結ぶ熊本市北部のローカル電車で、「菊池」電車なのに菊池市に全く届きません!おい!!
いずれにしても、東の横井 小楠の家あたりが行動範囲の私たちとしましては、熊本市北部など未知の領域で、そもそも菊電など乗ったことがなかったのであります。言われてみれば確かに気になる。
城下から菊池までの交通の便は案外悪くなく、御代志から菊池へはバスで行けますし、城下から菊池へ向かうバスも出ています。今回は菊電に乗りたかったので、バスに乗るのは御代志から。
そして、菊池といえば、菊池出身の幕末の志士に高木 元右衛門がおります!前回本ブログで取り上げてから1年が経とうとしていますが、私は君のことを忘れたことはなかったよ!他の人は知らないけどね!
菊電に乗るという目的を達成したはいいが、このまま藤崎宮に引き返すのもなんだか虚しすぎるので、Nに頼んで菊池まで進み、もとえもんの銅像があるわいふ一番館に行くことに。その場のノリで菊電に乗り込んだので、武光像の前に着いた時には16時を回っておりました。
武光像からわいふ一番館まではさっさと歩いて5分くらい。しかし、そこまでの道には菊池神社の鳥居あり(菊池城址)、御神木あり能舞台あり(鳥居の外である御所通り沿い、つまり神社の敷地ではなく参道にあるという変わった配置です)、明治期に建てた医院がありと見どころ満載でした。
清正細川漱石八雲・・・外から来た人しか評価しない熊本の良心だよ、菊池市は。
それらの写真を撮る時間も惜しみ、まずはもとえもんだよもとえもん。17時には施設そのものが閉まるんだし、後でじっくり撮ればいいさ。
あ、あった!
この銅像を造ったかたは、熊本交通センター前にあったおてもやん像の作者と同じだそうです。現在おてもやん像はJR熊本駅の新幹線口に移設されたんですって?
あと、上の菊池 武光像も確か同じ作者だったかと思います。
この銅像におけるもとえもんの顔ですが、もとえもんのお兄さんやおじなどの写真が遺っており、モンタージュして出来上がったそうです。実際のもとえもんの容貌は、「顔少長キ方、色少赤キ方、髪少赤キ方、鼻髙キ方、目長キ方、眉コユキ方、力普通ニ越テ強キ方、長五尺六寸余(身長は約185cm)」と記録があるよう。私いつも思うんだけど、志士の平均身長は当時の一般男性の平均身長より30cmくらい高いんじゃないでしょうか。
もとえもんの祖先は菊池氏に仕官しており、そのため、勤皇の志篤く「朝廷衰微を憂る事、朝夕ニ有之候事」「丑・寅之刻より外夷渡来以来ハ、別而攘事或ハ獨事シテ居候事あり」「菊池氏・楠氏之功績、遺跡をしたひ、追ニ落涙ニ及ヒ候事」だったそうです。宮部さんから山鹿流兵学を教わった関係で、肥後勤皇党加盟、池田屋事件、禁門の変と動乱に引き込まれていきます。お酒と古歌をこよなく愛し、一升空けることもたびたびで酒後に古戦場の詩を吟ずることが常だったとのこと。どうしよう、どこまでもまじめ。
もとえもんの遺品。禁門の変で、もとえもんは先鋒として一番の激戦地・蛤御門に突入し、京都守護軍の銃弾を受け32年の命をそこで散ります。これはその際に身に着けていた認証標。
遺品といえば、菊池出身の勤皇の志士はもう一人いて、中津 彦太郎(なかつ・ひこたろう)も菊池市としては推したいようです。彦太郎さんもまた武士の家系ではありますが、大坂相撲にて矢筈嶽(岳)の四股名で活躍していたところ、脱藩して同じく大坂に潜んでいた松田と出会い、彼に心酔。そこから尊皇攘夷運動に傾倒していった異色の経歴の持ち主です。禁門の変で真木和泉らと共に天王山で自決、天王山十七烈士の一人に数えられています。
もとえもんを顕彰するにあたり、菊池市は彦太郎さんの子孫のかたにも声かけをし、彦太郎さんの遺品を探したそうで、遺品が入っているといわれていた箱を初めて開いてみると、そこにはただの石ころのみがあったと聞きました。きっと遺品の代わりに京都から誰かが持ち帰ったのだろう、ということでした。
これまでまるでカバーできていなかった菊池氏、そして志士に関する裏話を聞き、ホクホクで資料館を出た頃には外はもう真っ暗。なんと、18時を過ぎていたのです。職員さん、遅く来て遅く出てすみませんね・・・
なので、写真を撮ったところでどれも暗すぎて載せられないのですが、1枚だけ無理やり載せてみる。