

こうして今年も新年のご挨拶ができるとは思いませんでした。
昨年は歴史についてお話しするかたが増えて、とても楽しい1年を過ごすことができました。
今年も良かったらよろしくしていただければと思います

今回のお年賀は第2弾(宮部&彦斎編)のメインの肥後人と肥後六花の組み合わせにしてみました

肥後六花(ひごろっか)とは、江戸から明治にかけて肥後藩で品種改良された六つの花のことで、肥後椿(つばき)、肥後芍薬(しゃくやく)、肥後花菖蒲(はなしょうぶ)、肥後朝顔(あさがお)、肥後菊(きく)、肥後山茶花(さざんか)を指します。
肥後藩では武士の嗜みとして園芸を奨励しており、中でも熱心だったのが細川家第6代藩主・重賢(しげかた、藩校時習館を設立)と11代藩主・斉護(なりもり、よしくにさんの父で桜田門外の変の際は水戸浪士を保護する)で、芍薬と菊は重賢が、花菖蒲は斉護が改良を推し進めました。
人物と花の組み合わせは個人的なイメージです。
肥後椿(花期:1~3月)
椿のイメージは宮部さんです。
「ヒゴ・キャメリア」の品種名で世界的に有名・・・らしい。(知らなかった!)
鉢植えや盆栽として栽培され、おしべが黄色く放射状に広がった「梅芯咲き」が特徴。元は一重咲き。
起源は不明。もともと自生していたとも。熊本市の市花に指定されている。
肥後芍薬(花期:5月上旬)
六花の中で最も早く栽培が始まったといわれる。中国から伝わった芍薬を独自に改良したのが起源。
こちらも「梅芯咲き」が特徴。梅芯が大きく盛り上がり、整っていることが美しさの基準(椿も同様)。
藩士・中瀬 助之進が著した『芍薬花品評論』(1795年)が栽培のテキストである。
肥後花菖蒲(花期:5月末~6月)
11代藩主・斉護(1826~1860)の時代に栽培が始まる。江戸花菖蒲が起源。
江戸花菖蒲の改良者である旗本・松平 定朝(まつだいら・さだとも)に苗の分譲を依頼するも断られたため、江戸勤番の藩士を弟子入りさせて粘った結果、門外不出を条件に譲り受けた。以降、現在もその条件を守っている(1度だけ破られたことがあり、熊本以外で見られるものは大正時代に流出した苗の系統)。
江戸花菖蒲との違いは、鉢植えにすること(江戸花菖蒲は池や堀に植える)。花びらが幅広く、おしべとめしべが大きく立っているのが特徴。それらを横から見た時のバランスの良さが美しさの基準。
肥後朝顔(花期:7~9月)
「幻の花」と呼ばれ、起源、栽培法の由来ともに不明。
蔓(つる)を摘まずに高い所にとめ、花は低い位置で咲かせる「小鉢本蔓作り(行儀作り)」という独特の栽培法をする。
蔓と花、葉の位置などの全体的なバランスと花筒(花の真ん中)が純白であることが美しさの条件。
肥後菊(花期:11月)
6代藩主・重賢が宝暦年間(1751~1764年)に栽培を開始した記録があるが、栽培法が確立されたのは文政2年(1819年)。藩士・秀島 七右衛門が著した『養菊指南車』がテキスト。
小さめの花を多数植え、花壇全体のバランスを美しさの基準とする。(小さめの花の中でも)大中小や色によって各花の配置が厳格に定められている。
ちなみに永鳥さんの出身地である玉名市の市花は、肥後花菖蒲です。
肥後山茶花(花期:11月下旬~12月)
6代藩主・重賢が宝暦年間に栽培を開始した記録があるが、改良が始まったのは明治12年(1879年)。六花の中で最後に生まれたとされる。
椿・芍薬と同じく梅芯の美しさを重視するが、時代が下ってから改良が始まったせいか従来の感覚にはあまりとらわれず、多種多様に改良されている。
本年も皆さんにとって素敵な年となりますように

※ 肥後六花の写真は、肥後椿、肥後菊、肥後山茶花をwikipediaの、肥後芍薬を熊本県商工観光労働部【くまもとブランド】の、肥後花菖蒲、肥後朝顔を熊本国際観光コンベンション協会のページよりそれぞれお借りしています。