その時は熊本に芦谷姓の多い地域はあるかなどについて調べたりしましたが、地名にも藩士の名字にも「芦谷」というのは確認できず、私も「芦谷」なんて名字珍しいな~というのが芦谷 昇に対する印象でした。
現在、彦斎に関連して佐久間 象山の息子さんである三浦 啓之助(=佐久間 恪二郎)クンについての情報をまた見てってるんですけど、悪友か取り巻きか、啓之助クンとともに新選組で粗暴を働く隊士として芦谷 昇の名前はよく出てきます。また、監察方をやっていたので名前だけは見たことある、というかたも結構いらっしゃるのではないでしょうか。
それでもマイナー隊士なので、隊内での経歴を簡単に紹介させていただくと
慶応元年初め・・・入隊 → すぐに諸士調役に登用
同年閏5月・・・捕縛された大洲藩(愛媛県)の国学者・矢野 玄道の訊問にあたる
同年11月・・・長州藩訊問使一行として広島に同行
慶応2年7月頃・・・啓之助クンとともに新選組を脱走
な、なんともう~んな感じです。とっかかりがないよ・・・

ちなみに一番近い同僚は吉村 貫一郎さん。監察方に山崎・尾形といったいわゆる近藤派と篠原 泰之進さん・服部 武雄さんといった伊東派が混在する中で、そのどちらにも与さず第三の道を選んだ人です(爆)
脱走後の消息が全くわからないということで、とっかかりもなく漫然と日が過ぎていっていたのですが、先日、以前買った『新選組隊士録』(相川司・著/新紀元社)を何気なく読み返していたら、芦谷 昇のその後について書いてありました。
芦谷は新選組脱走後、糸川 清太郎と名を改め、啓之助クンとともに佐久間親子の故郷・松代藩へ行きますがそこでも乱暴狼藉を働き、しまいには啓之助クンが逮捕されることに。芦谷は辛くも逮捕から逃れ、横浜へ逃亡、維新後に熊本に戻り、少なくとも明治27年までは生きていたのだそうです(『新撰組始末記』内の馬場 文英による注釈より)。ただ、「芦谷の消息を馬場 文英が知ることは果たしてできたのか」という点で信憑性が微妙で、それ以前に『新撰組始末記』そのものの信憑性も怪しいそうなので、はてさてこれはとっかかりとなり得る情報なのか・・・とまた迷うところですね。
ということで、芦谷 昇についての追加情報でした。
(本自体は2年くらい前から持っていたので既知の情報でしたら参考にならずごめんなさい・・・)
しかし、私は今後もメジャーマイナー尊皇攘夷佐幕開国問わず、一度射程に入った人をしつこく調査しまくります。
御陵衛士についた肥後人・清原 清(竹川 直枝)も例外じゃないゾ★
芦谷 昇に関する新情報を手に入れたかたはぜひ私にも教えてください!