最近、河上 彦斎を「人斬り彦斎」ではなく「肥後勤王党・河上 彦斎」と記述している本を少しずつ見るようになってきて嬉しいです。
長らく「人斬り」のイメージのまま思考停止されていたのが見直され始め、彦斎自身の思想やその背景に興味が持たれつつあるんだな、と感じるし、「肥後勤王党」という名が出てき始めたことにも肥後の勤皇思想に視点が向かいつつあることを感じます。
これまで彦斎や肥後勤王党について調べてきた中で、「佐久間 象山以外に暗殺の記録がなく、人斬りとしてのエピソードも岡田 以蔵などと似ていて如何にもテンプレート的なのに、何故彦斎を取り立てて“人斬り”と呼ぶのか」「彦斎が“人斬り”でないのなら、じゃあ肥後に“人斬り”はいないのか」という疑問が浮かんだ時期があり、自分の中で一応の決着をみたのでそれ以来忘れていたのですが(爆)、彦斎再評価の追い風になるべく今回少し考察を書いてみたいと思います。
上記の疑問をいっぺんに解決に導くようなキーパーソンが肥後勤王党におります。
堤 松左衛門(つつみ・まつざえもん、1839~1863)という人です。
司馬 遼太郎の『世に棲む日日』『大楽源太郎の生死』に堤 松右衛門という人物が出てきますが、この人のモデル或いは誤記だと思われます。
実は、この人の行動の方が彦斎よりも世間一般的にいわれる“人斬り”のイメージに近い。
松左衛門の出自ははっきりしており、肥後藩足軽である堤家の次男として熊本城下に生まれています。
教育としては申し分なく、轟 武兵衛・宮部 鼎蔵・永鳥 三平のいわゆる「林 桜園門下の三強」から直接的な指導を受けたハイスペック人材です。
彦斎や太田黒 伴雄(神風連の乱の首領)はその際の同級で、親友同士の関係でした。
ここまで書くと“人斬り”のイメージとはまだ遠いですが、松左衛門自身も“人斬り”というよりは吉田 松陰のようなクレイジー特性(というか過激さ・行動力)を持った人間だったようで、そのためか宮部さんには格別にかわいがられていたみたいです。宮部さん、結局そういう人が好きなんだね・・・
ちなみに、松左衛門も松陰同様さっさと脱藩し、海外密航を企てて長崎に行き、失敗しています。私にはこれが永鳥さんがそそのかしたように思えて仕方がありません・・・(松陰の密航の時も背中を押してるし・・・)
密航失敗後、帰国して仏門に入ろうとしますがそれも失敗しています。高杉かあんたは。
でも、この人も24年しか生きていませんからね、激しく動く情勢の中、いてもたってもいられず、しかし自分に何ができるかわからずじたばたと足掻いていたのだろうな、と思えて共感を抱かなくもないです。
密航や仏門の失敗を経て、最終的に松左衛門が自身の役割を見出したのが“暗殺”です。
時々、「彦斎は田中 新兵衛や岡田 以蔵らと手を組むことがなかったから、人斬りの中ではアウェイ感がある」との感想をネットで見たりしますけど、松左衛門は岡田 以蔵とともに関白九条尚忠の諸太夫を暗殺したという記録がありますから、その点では彼の方がより人斬り“らしい”といえるかもしれません。この頃(1862年)、松左衛門は肥後人ではなく長州人や土佐人と行動をともにしており、特に長州の松下村塾生(正義党)には、宮部さんも半ば“預けている”状態だったみたいです。(永鳥さんが脱藩したての松田を雲浜先生に託したように。。。)
そして、九条家諸大夫の暗殺の後に松左衛門が着手したのが、同胞である肥後人の横井 小楠の暗殺です(一説には宮部と轟の命によるものとも)。しかし、これは失敗し、横井 小楠に逃げられてしまいます。そのため、肥後藩が動き出し、松左衛門に嫌疑がかかって肥後勤王党も少なからぬ影響を受けることになります。松左衛門はその責任を取り、京の青蓮院大日堂(或いは南禅寺)にて自刃します。“人斬り”の最期とするには、あまりにもお粗末でしょうか。
私にはどうも、この“堤 松左衛門による暗殺”と“佐久間 象山暗殺の話題性”が人斬り彦斎のイメージを構築しているように思えるのです。
肥後勤王党について少し細かく見てみると、党員による役割分担が割ときちんとしてあって、彦斎は宮部さんとともに公卿へのアプローチや尊攘派の他藩士との談議、政事工作など、顔出しの多い役割についています(なので、暗殺者として動くのは難しい)。また、年配者も多い肥後勤王党においては珍しく若年にしてリーダーシップを発揮するタイプだったようで、情報も手に入れやすい立場にいたらしいです。堤とは親友同士でしたし、堤の行動を彦斎が口にしたことで、人斬り彦斎としての逸話が生まれていったのではないでしょうか。
もう一つ、彦斎自身が横井 小楠の暗殺を企てた記録は見つかっていませんが、1855年に小楠ら開国派と党の分裂を起こしたのち、藩内抗争が激化していた1858年、彦斎は小楠に「あなたはいつか斬られるかもしれないので気をつけてください」と警告の手紙を送っていたとのこと。4年後に実際に小楠は襲われて命からがら逃げているので、「あれはもしや、彦斎のしわざ!?」と勘違いする可能性もあるのではないかと思います。“指示”は本当にしたのかもしれませんしね・・・・・・
ということで、彦斎を取り立てて“人斬り”と呼ぶ理由は「彦斎自身による殺人」に「堤 松左衛門による殺人」が足し算され『人斬り彦斎』という共同ペンネームのような形になったから、肥後に人斬りはいないのかという疑問には「堤という新しい可能性が出てきた」と自分の中で一応の結論がつきました。
「人斬り松左衛門」・・・いいんじゃないですかね・・・でも暗殺失敗してるから人斬りの条件を満たせていませんかね・・・・・・
ここまで彦斎は人斬りじゃない的なことを書いといてなんですが、私も小説でさんざん彦斎を人斬りとして扱っています(爆)
ネタとしてインパクトがあると、そこから先に進もうとするのはなかなか難しいですね。