細川さんちにお邪魔する③~龍安寺~ | 植民所在地3丁目

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Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

 

前日までのあらすじ
主に下調べ不足が引き起こす苛酷な現実に苛まれながらも、受け皿となってくれる細川包囲網にかつての藩主の面影と若干の気味の悪さを感じつつ(←失礼)、慣れぬ京の地をゆく平成肥後の猛婦(もうふ)たち。
先人たちの背を追わんと三縁寺への参拝を画策する私に、またも現実が牙を剥く。


私「えっ、三縁寺って、
参拝する時事前連絡必要なの?」


Y「ふはは!私の気持ち、思い知ったか!」


はい!見事に自分に跳ね返ってきた!
Yはもはや私と同行する気ありません。山に引き寄せられて大変なことになるのを身に沁みて知っているからです。
Yは私が三縁寺に行っている間、龍安寺と源光庵に行くとのこと。


私「いやぁなんか住職さんに言わないといけないみたいで、それが事前に必要なのか当日来た時でいいのかわかんないんだよね。門は開放していないらしい」


三縁寺は専用のHPがないようで、他のかたのブログなどを参考にさせていただいていたのですが、そこらへんの情報をなかなか掴めず。
京都の寺はそんなに気軽に入れるもんじゃないとここ数日でようやく学ぶ←

結局答えは出ず。相手が山であるだけに一か八かの賭けに出るかで悩む私に、Yが

Y「なんか心配だから、今回は私と一緒に細川さんの世話になろうよ。ね?」
私「はっ?なんでまた細川さん??
Y「地蔵院のパンフレットをよう見てみ」
私「?・・・・・・」


ななな、なんですと!?

 

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あ、やっぱガラシャいるんだ・・・・・・じゃなくて!
(前記事の表記間違えてたので書き直しました・・・ごめんなさい
どくろ)
 

龍安寺の開基が頼之さんの4代子孫の細川 勝元さんだと・・・・・・?

Y「ねっ、こうやって受け容れてくれるところはあるんだよ。それが細川さんなんて、運命感じるじゃん?ここは確実に開いているから、ここ行こうよ」
私「お、おぅ・・・・・・」

それでも渋る(というか未だ自分たちが細川包囲網の中にいることに慄く・・・)私に、遂にYが切れ


Y「君っていつもそう。追いかけてばかりいるけどさ、そのたびに玉砕して死にかけてんじゃん。たまにはさ、流れに身をゆだねて現状を受け容れることはできないの?」


と、何やら人生のお説教のような状況に。す、すまん・・・・・・
も、持つべきものは怒ってくれる友ですな・・・・・・



ま、まぁ!という訳で、3日めはまず、またも細川さんゆかりのお寺・龍安寺へ!


 
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もう入口過ぎちゃってますが、入ってすぐはこんな感じです。

勝元さんは室町時代の守護大名で、応仁の乱を引き起こした人。
龍安寺は応仁の乱より前の1450年に建立されましたが当然ながら焼失し、息子である政元さんが1499年に再興しました。
元は平安後期の公家・徳大寺家の別荘だったそうです。

 

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更に進んだ左手に、鏡容池(きょうようち)。徳大寺家の頃のものをそのまま利用しているので、平安後期の面影を残しているそうです。1000年前と同じ風景を見ていると思うと素敵ですね。

 
 
では、入ってみましょう。
 
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方丈正面には昭和初期の南書家・皐月鶴翁作の臥龍梅があります。
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龍安寺方丈は襖絵がとても美しかったので、複数枚載せておきますね。
 
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畳縁にもこだわりがあります。行ったらチェックしてみてねHappy


「虎の子渡し」こと方丈庭園。見どころの一つです。

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知足の蹲踞(つくばい)。これも見どころの一つで、水戸黄門こと徳川 光圀公の寄進だそうです。

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光圀公はこの寺で太平記を借りたこともあったそうで、細川家とはそれなりの交流があったみたいです。
ちなみに、光圀公の時代といったら肥後藩主は第3代・綱利(つなとし)、この人は赤穂浪士の預かりを担当した人で、この時の彼の対応が良かったため、後の幕末、桜田門外の変の際に犯人の水戸浪士たちが江戸の細川屋敷へ駆け込むこととなります。
(ちなみにこの時、怪我をした水戸浪士の手当てをしたのが家老坊主時代の河上 彦斎で、彼らに感銘を受け彦斎は志士の道を歩むことになります。時代を超えて影響しあっているんですね)

更に本ブログだからちょみっと突っ込みますが、光圀公が側近として重宝し、時代劇『水戸黄門』の助さんのモデルといわれている佐々 介三郎(宗淳)の兄の子孫が本ブログの推しメンの一人・佐々 淳次郎さんです。
介さんたちの父は加藤 清正とその息子・忠広に仕えていました。
1632年に加藤家は改易となったため、介さんらの父は肥後を離れ、土地を転々とするようになりました。その中で介さんは生まれ、僧を経て光圀公に召し抱えられたそうです。
介さんの兄も肥後にはいませんでしたが、綱利の時代になってその子ども(つまり介さんの甥)が肥後に戻り、仕官を申し出て藩士になりました。その家系が淳次郎さんです。


写真右手が、龍安寺内にある湯豆腐屋さん。南禅寺豆腐と比べるとかなりお手頃なお値段。
でも、時間が合わず食事は断念
落胆

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ぐりんぐりんこの旅で私の中での細川家のイメージカラーはグリーンになりましたぐりんぐりん



たまには身をゆだねてみるのもいいもんだな・・・と何やら中二っぽい言葉を心の中で呟きながら龍安寺を後にする。
それにしても細川さん・・・・・・ぱないな。
小説を書いている時も戦慄してたんだ・・・・・・脱藩して頑張った肥後の志士だけど、細川さんの及ばない範囲なんてなかったんじゃないかと・・・・・・
そして、今回の旅でそれは確信に変わりつつある。



次は、血天井と悟りの窓で有名な源光庵へ。

 

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本堂。

 
 
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「悟りの窓」と右「迷いの窓」
どうしよう。有名すぎて特にコメントしようがない・・・・・・苦笑
 
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庭園。こちらも紅葉の名所として有名なのですね。
青々とした景色も好きですが、秋口に来るとやはり違うんでしょうなぁ。

血天井はあまりに生々しくて、ちょっと胃が痛くなりました
おばけ



遂に旅の最後!そしてここでクエスト始動!霊山護国神社!
もちろん、肥後の志士たちのお墓参りです。
タイムリーに『池田屋事件と禁門の変』展が行われていたので、時間が心配ながらもガッツリ霊山歴史館も見学してきました。

尾形さんの漢詩、まだ展示してある!ハートハートハート
もうそれだけで私の心はほっこりですニコ

禁門の変について3Dシアターで説明がなされておりまして、真木和泉ら天王山十七烈士に先鋒として立ちはだかったのが近藤 勇率いる新選組と聞いて、またか!と叫びそうになりました。

十七烈士の三分の一は肥後人なんだよお!!!!(敢えての三分の一表記)
まぁ絶対土佐とかの方が新選組は宿敵なのですが、ここで頭をよぎるのはやっぱり尾形さんかな・・・
尾形さんは池田屋事件、禁門の変いずれも出動していませんが、これは近藤・土方両長の気遣いかなぁという気もします。


霊山墓地内の、熊本藩招魂社。
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明治3年3月、当時の藩主・細川 韶邦(よしくに)によって創建される。
さすが藩の総責任者、名前がちょこちょこ出てくるあたりにやってくれている感を感じます。

 
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しっかしなぁ・・・創建する時、よしくにさんは一体どんな気持ちだったんでしょうかね。
熊本にある護国神社もそうですが、熊本県の招魂社は筆頭が宮部さんとなっています。
よしくにさんから見れば、宮部さんは主君を見限った反逆者な訳で・・・
よしくにさんなんか頑固そうですし、正直つらい部分もあったんじゃないかと思うのですが、トップの果たす責任とはこういうことなのだろうなと感じました。
よしくにさんはこの頃から少しずつ体調を崩していくみたいなんですけど、お疲れさまというか、長い間熊本をありがとうございましたと言いたいですね。

 
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こちらの招魂社、元々は宮部、松田、天王山の烈士など14柱が祀られておりまして、昭和43年に彦斎ら3柱、昭和61年になってようやく横井 小楠が合祀されました。それまで小楠は地元では全くと言っていいほど評価されなかったので、酒ぐせって大事だな・・・としみじみ思いました(←オイ)

想像していたほど広い墓地ではなかったので、頂上の木戸さんから小説に出させていただいた久坂さんら長州人、坂本 龍馬や中岡 慎太郎など、一通り挨拶ができました。
ただ、ちょっと気になったのが松田の墓で、彼の墓の前にだけ
きのこが生えてたんですよね。それもけっこう立派なもので、手のひらぐらいの大きさの傘があって、雨を受けてかその色は神々しく白く、しかも一輪だけ、真ん前に。
なんかね、ほったらかしというよりお供え物のような凜とした佇まいでしたよ。
正直、お墓を前にして気分が落ち気味だったんですけど、つい笑ってしまいました。和ませてくれてありがとう、松田ときのこ。
でも松田よ、図鑑見るとそれどうも毒キノコっぽいんだよなぁ・・・



かなり長くなってしまいましたが、これにて全旅程終了!今回は行ったところはほぼ全部書きました。
蓋を開けてみると池田屋、肥後めぐりというよりほとんど細川さん
だった気がしますが、こういうのもま、面白いかな、と思います(笑)
 

熊本人はとかく清正公が好きですが、もちろん細川さんのことも好きで、2014年の東京都知事選の時は、母いわく地元は護熙さん出馬に沸き返っていたそうです(熊本県民関係ないのに・・・苦笑い)
細川家には今でも熊本を拠点にしているかたがいるそうで、熊本と細川家の関係がこれからも長く続いていけばなと思いますうーん


ではでは、読んでくださってありがとうございました!
ありがとうございます