東京よ・・・ただいま・・・・・・(急に現実に戻る)
京都に行ってきました!東京発が17日だったということで、台風に向かって突っ込んでいくのか・・・と思いましたが、東海道新幹線が普通に走っていたので普通に台風に向かって突っ込んでいきました。日本人の仕事に対する熱意と技術力の高さはつくづくすごいと思う。いえ、私たちは旅行ですけど。
角屋さんで『久坂玄瑞と幕末維新展』があっていたので、その時期に合わせて京行きを決行しました。
角屋の展示品には久坂さんが「通武(みちたけ、家督相続前の名)」時代に書いた墨菊図や、「河野 三平」の変名で書いた密書などが展示されていて、他に武市さん書の鸚鵡美人図などもありました。
武市さんの美人図のあまりの上手さにすごく興奮したのですが、振り返るとちょうど向かいにみちたけの墨菊図が。
神の子Y(今回の旅も一緒)「久坂さん・・・武市さんと並べると絵の下手さ加減が・・・」
私「え?彼絵なんて描いてた?」
_人人人人人人人人_
> 絵なんて描いてた <
 ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
Yはそれから「いやみちたけ時代だし!みちたけ15歳以下だったし・・・」と、何やらぶつぶつ呟いていました・・・
すまん、本当に絵と認識していなかったよ・・・
久坂さんは、字もなんですけど「下手」というより「雑」な印象を受けます。
頭の回転が速くて筆が追っつかない感じなんだろうな~と思いました。
角屋さんでのこの会話から幕を開けた京都旅行、本旅の私のクエストは、池田屋事件と禁門の変に関する史跡を巡ること。また、宮部さんを通じて肥後藩についても少し勉強したので、肥後藩ゆかりの地も確認できればという裏クエストも行うことに。
しかし、それが「池田屋。肥後。いいえ細川です」という細川無双に取り込まれることになることを、僕達はまだ知らない。。。
そして、我々肥後人に苛酷な現実が待ち受けていることも―――
角屋は新選組の壬生屯所より歩いて15分程度の場所にある、ということで、大雨にも関わらず散策が突然始まる。
新選組屯所が近いということは、肥後藩邸も近いということだ。
2年前に京都に来た時は新選組メインの旅で、壬生寺などには行ったのですがこちらは見落としていたのでした。
肥後藩邸は壬生屯所から東へ直進、仏光寺通に突き当たるとすぐ右横にあり(信号は渡らない)、その距離約200メートル。住所は「壬生賀陽御所町」となっています。
肥後藩邸が地図上この地に現れるのは文久3年頃のことで、それ以前は柳馬場押小路という現在の京都市役所付近にあったみたいです。
あ、あった!
!?!?!?Σ(゚д゚lll)
なんと!?これが肥後藩邸跡ですと!?
小柄な私では事実確認が取れないので、Yに上から撮ってもらった写真がこちら。
間違いない・・・・・・
えっなんですかこれ。一体何があったんですか。いや一体何もなかったからこんなに草が伸び放題なんでしょうけど・・・・・・
インターネットで見つけた20年前の画像ではきれいに手入れをされていたというのに!
いやこの草木もきれいではありますけどね!?
これが現実というものなのか・・・入念でまめな京都のことですから、地味にショックを受けました。
ですがこの敷地、現在はどうも在日朝鮮人の集会所となっているらしく、それを知るとなんだか納得しました。なるほど、この敷地は京都であって京都でないのか。もう現実に触れたくないからここで話を切るけどさ・・・
そうしようとした私の背後で「うるさんのしかえし・・・」と呟くY。私があえて避けていた現実ををを!!
うるさん(蔚山)とは加藤 清正の朝鮮出兵にまつわる語。ちょっともう生々しいから話を切るけどさ・・・
私たちが探訪しているのは細川時代の歴史で、草がもしゃもしゃしているのは今この平成時代の現実なのですが、そこから加藤時代の話ができるなんてすごいなぁって思いました。邪推かな?(爆)
この時点で予定を完全に狂わせ、Yを相当に振り回しているので、次はYの行きたがっていた伏見稲荷へ。
なんとはや、赤くて美しい・・・・・・
台風でも関係なく、参拝者は多かったです。
やはり一番の見どころは、千本鳥居ですね。
ただ、この日は台風接近の影響で、奥の院より先に進むことができなかったので、予想です。
また来なければならないなぁ。
伏見稲荷が想像していた以上に早く終わってしまったので、ここで2日目に行こうと計画していた南禅寺へ。
ここもかなりの観光スポットだったなんてにわか歴女の私は知らなかったのですが、やはり台風の影響か、方丈と大寧軒を除いてはほとんど貸切状態でした。今回見たのは、方丈、大寧軒、三門、天授庵、そして水路閣。
方丈は通路がたくさんあり、とかく歩き回るのが好きな私には結構な楽園でした。
いっぱい写真を撮ったのですが、方丈の迷路状態がわかる一枚をば。
ちなみにこの時土砂災害警報がiPhoneに鳴り響き、一気に注目を浴びました(笑)
てか、私のしか鳴っていなかった気がするのだが、何故だ?みんなガラケーだったのか?(爆)
Yから「うるさい!マナーモードにしろ!(笑)」と怒鳴られましたが、マナーモードにして音が鳴らなくなったらもうそれ警報じゃねぇよ(笑)
大寧軒の庭園。1枚目の写真にある三本足の鳥居は2枚目にある滝を神格化して作られたもので、滝は明治時代の琵琶湖疏水によって得られたものなんですって。
明治の茶人・藪内 紹智(やぶのうち・じょうち)によって作られた庭園。
ちょっと順番は変わりますが、これが例の琵琶湖疏水事業で造られた水路閣。
この奥にも寺があるみたいなのですが、時間と雨の関係で断念。
南禅寺での私の本命は、三門と天授庵です。
三門外観。
南禅寺は池田屋事件とも少々関連があり、三門はまさにその舞台です。
宮部さんは上京してすぐ池田屋事件に遭遇することになりますが、古高が捕らえられる前に従者をお遣いに出しており、その場所が南禅寺・天授庵です。
どんな用で遣いに出したのかははっきりしませんが、天授庵は肥後藩の本陣であり、脱藩後も肥後の志士は藩に対して働きかけをしていた形跡があるので、長州藩寛典の依頼だったのかもしれません。
一方、宮部の上京を察知した新選組もまた、南禅寺を怪しんで張り込みをしていたとのことで、ここで従者が捕らえられてしまいます。
新選組は従者を拷問して宮部の居場所を問い詰めますが、従者はどうしても口を割らない。なので、宮部一味を引きずり出すためこの三門に生き晒しにした、というもの。
そこで、従者・忠蔵さんが三門から見ていたかもしれない光景をば。
西・勅使門を望む(白く縦の線になっているのは雨です)
東・法堂(方丈方面)を望む
南・天授庵を望む
これに関しても諸説ありますが、宮部一味に一気に危険が迫ったことは確かで、潜伏先である小川亭や枡屋の監視の目も厳しくなり、古高が拷問されただけではなく、小川亭も後に主人のりせさんが逮捕されています。なんとか乗り切り釈放されたようですが。
はてさて。最後に肥後藩本陣天授庵。
入ってすぐの書院の前には、細川九曜が!
肥後藩と天授庵の縁は、肥後細川家初代・藤孝まで遡り、もともと1339年に創建されていたものが、1447年の南禅寺大火や応仁の乱を経て焼失し、以降戦乱続きで復興できない状態だったのを藤孝が助け、1602年になってようやく再建、以来細川家の菩提寺になりました。
今回は庭園しか見ていないのですが、藤孝・光寿院夫妻の墓や初代肥後藩主・忠利の遺髪塔、そして肥後藩士の横井 小楠の墓などもあります。
本堂前庭と
書院南庭の2種類の庭園があります。
天授庵は紅葉の名所としても有名で、書院南庭の写真の右側は秋口に撮ると赤く染まっているんでしょうなぁ。
と、いうところで、1日目が終了。
この日は偶然にも、祇園祭の先祭(さきまつり)があり、祇園へ。
八坂神社をバックに神輿のベストショット!
台風接近中の大雨ですよ・・・・・・それでも決行する、京市民はやはり強い!