彦斎さんのきれいにした地面を無自覚に踏み荒らす佐々さんとそれを控えめに注意する松田さん。
今回は轟さんのキャラクターデザインも本格的にしてもらいました。
友人が原作の漫画に出してくれるのだそう。
轟 武兵衛(とどろき・ぶへい)についてこのブログでは殆ど触れていませんが、小説では彦斎の師匠かつ肥後藩の隠れた人間兵器として重要な役回りを演じてくれています。
推しメンでなかったのでガッツリと調べてはいなかったのですが、これから知っていきたい人ではあります。
宮部、永鳥と並ぶ肥後勤皇党および林 桜園門下の大御所。
ところで、私、小説を書いている時、轟さんを屈強そうな名前の響きから
友人に「どんなイメージ?」と聞かれた際に具体的に答えなかったこと、
友人に「ゴツい絵を描くのは苦手だ」と言われていたこと、
史料を見てみると、実際は「矮小婦女子の如き風采」だったらしいこと、
永鳥さんにさんざん振り回されていた人であったことを知り、おもしろおかしくそっちを友人に伝えていたからか
こんなにかわいくなりました
いやぁ、いいんじゃないですかwww
今回は轟さんのキャラクターデザインも本格的にしてもらいました。
友人が原作の漫画に出してくれるのだそう。
轟 武兵衛(とどろき・ぶへい)についてこのブログでは殆ど触れていませんが、小説では彦斎の師匠かつ肥後藩の隠れた人間兵器として重要な役回りを演じてくれています。
推しメンでなかったのでガッツリと調べてはいなかったのですが、これから知っていきたい人ではあります。
宮部、永鳥と並ぶ肥後勤皇党および林 桜園門下の大御所。
ところで、私、小説を書いている時、轟さんを屈強そうな名前の響きから
『修羅の刻』(川原正敏先生)の柳生 十兵衛さん。『刻』シリーズはバイブルです。
こんな感じのイメージのまま書いていたのですけど、
友人に「ゴツい絵を描くのは苦手だ」と言われていたこと、
史料を見てみると、実際は「矮小婦女子の如き風采」だったらしいこと、
永鳥さんにさんざん振り回されていた人であったことを知り、おもしろおかしくそっちを友人に伝えていたからか


いやぁ、いいんじゃないですかwww
初めて見た時実はイメージのギャップに吹き出したんですけど(ゴメンね、Y
)

悩みや迷い一つ持たないぶれない男が実はこういう姿をしているとか
やたらと古風で漢らしい言動をする人が実はこういう姿をしているとか
目線や気配で人を殺せる最強の人物が実はこういう姿をしているとか
そういう部分が一切小説では匂わないのが個人的には大変おいしゅうございます
以蔵も実は司馬御大の人斬り以蔵やバーサーカーチックなのをイメージして書いていたのですが、
Yは見事に美人さんにしてくれました。
以蔵は執筆の途中で美人さんであることがわかったので、終盤は結構それを意識しています。
私も早速描いてみた。
やたらと古風で漢らしい言動をする人が実はこういう姿をしているとか
目線や気配で人を殺せる最強の人物が実はこういう姿をしているとか
そういう部分が一切小説では匂わないのが個人的には大変おいしゅうございます

以蔵も実は司馬御大の人斬り以蔵やバーサーカーチックなのをイメージして書いていたのですが、
Yは見事に美人さんにしてくれました。
以蔵は執筆の途中で美人さんであることがわかったので、終盤は結構それを意識しています。
私も早速描いてみた。
デザインはかわいいし小説でもキャラを崩すことなく退場したのですが、油断したね。
絵を描いたら、私の作品最速の顔面崩壊現象を引き起こしました。
被害者が増えておる・・・!
轟さんは京都御親兵に選出され、八月十八日の政変後に三条 実美の命によって肥後に帰郷し、よしくにさんへ長州藩救済の嘆願を目指す道中で藩に捕らえられました。明治になって釈放され、照幡 烈之助(てるはた・れつのすけ)の名で明治政府に出仕します。「武兵衛」と同じで、いかにも雄々しい名前つけてるでしょ?「矮小婦女子の如き風采」だから名前だけでも強くしようとしたのか・・・ちょっと誘導しようとしてるよね(爆)
明治政府の方針に失望し、すぐに帰郷。明治6年に没します。
桜園先生の原道館には1836年の入門で、勤皇党の中心人物の中では一番の古株です。
他、三大人斬りの一人である田中 新兵衛が容疑者となった朔平門外の変では、轟さんが肥後藩の探索方として事件を担当し、実況見分と証拠の収集をしたという記録があります。
桜園先生の原道館には1836年の入門で、勤皇党の中心人物の中では一番の古株です。
他、三大人斬りの一人である田中 新兵衛が容疑者となった朔平門外の変では、轟さんが肥後藩の探索方として事件を担当し、実況見分と証拠の収集をしたという記録があります。
ついでに松田とよしくにさんのらくがき。
松田が17歳くらい、よしくにさんが12歳くらい。
大人のよしくにさんを描けたためしがない。でもまぁそれもいいと思ってる。
よしくにさんは13歳の頃に肥後に来て、その前は江戸生まれの江戸育ちだったようです。
14歳の時に兄で藩主世子のよしちかさんが亡くなっているので、肥後に住まいを移したのはきっとそれが絡んでいるのでしょうね。1860年、25歳で藩主になりました。
小説では、複雑になりすぎるため全部よしくにさんに集約させていますが、実際に松田と接触があったのは弟の護久さんのようです。その齢10歳程度。10程度のお子に尊皇思想を吹き込む松田まじ不審者。そのうえ、藩主邸での勤務態度は不真面目極まりなかったらしいですから胡散臭さ満点ですよね。下心はせめて隠せよ!(爆)
よしくにさんはともかくとして、お父さんで藩主だったなりもりさんは藩内尊攘派の動きをかなり警戒したようで、当時攘夷派として中心的役割を担っていた横井 小楠や長岡 是容を排除しています。よしくにさんもそのスタンスを継ぎ、強固に佐幕を貫きます。
結構頑固だな、と思うよしくにさんのエピソードとして、戊辰戦争で戦場が東へと移っていく最中、熊本ではずっと冷遇されていた小楠一派の実学党が実権を握り、反動政策を取るようになってきます。
その際、熊本城も前時代的だから取り壊してしまえという極論に達するのですが、よしくにさんは断固として反対し、結果、明治6年の廃城令も免れて西南戦争まで残ることになります。
よしくにさんが抵抗しなければ、明治3年には熊本城はなくなっていたかもしれません。
また、版籍奉還後によしくにさんは熊本藩知事になりますが、明治政府の方針には一貫して反対の態度を示しており、薩長に睨まれるようになってきます。征伐を恐れた藩政府はよしくにさんを藩知事から降ろし、代わりに弟の護久さんを据えます。その後、廃藩置県に伴って東京に移住し、奇しくも神風連の乱の前日に亡くなりました。
ん~いいね、この頑固さ。立場はいろいろあるだろうけど、その貫こうとする姿勢、好きだよ。
第二次長州征伐では小倉藩に与して戦った、というところまでは有名ですが、諸藩撤兵により小倉城が孤立し、落城した際は藩主一家を匿い、以後1年に渡って熊本で保護しています。撤兵を決めたのは自分んとこの家老ですからまぁ、当然といえば当然かもしれませんが、桜田門外の変で水戸藩士を保護したお父さん同様、義に厚い人でもあったようです。
また、別の弟が津軽藩主(12代・津軽 承昭(つがる・つぐあきら、元の名前は細川 護明(もりあきら)))であったことから、奥羽越列藩同盟が瓦解した後の津軽藩支援にも回っています。その際、海路北へ藩士を派遣するのですけれども、房総半島沖で船が難破し沈没、130名(200とも)の犠牲者を出してしまいます。
その犠牲者を祀る官軍塚が千葉県勝浦市にあるそうで、どうも「男の霊がうろついている」と心霊スポット扱いされているみたいです。まぁ、女だったら完全に違うところの霊ですよね。
2011年には沈没船である『ハーマン号』(肥後藩が米国より借り受けたもので、米国人乗組員も同乗していた)が海底で発見され、現在調査が進められているとのこと。これはまだ比較的新しい話ですね。
他、よしくにさんが熊本に遺していったものは熊本市中央区にある熊本県護国神社で、宮部さんたちが祀られています。そこは神風連の乱の際の本陣でもありました。
また、日本五大稲荷の一つといわれる高橋稲荷神社を篤く崇敬し、維新後には五万坪の土地を献納したとのことです。
なんだか“ついで”の方が分量倍ぐらいある気がするんだが、まあいいか。
司馬御大の『酔って候』を読んだ時に、あぁ、藩主側も明治維新はいろいろ予期せぬ展開だったんだなぁ、としみじみ思いましたね。よしくにさんが主役の小説もぜひ書いてみたいところです。
あと、少し気になる人によしくにさんの懐刀の上田 久兵衛がいます。
この人は肥後藩の京都留守居役で、禁門の変の処理などをしましたが、あまりに有能で幕府からの信頼が厚かったためによしくにさんが帰藩命令を出したら幕府が怒ったという話まであるのだそう。また、会津藩と懇意で新選組とも接触しています。
そんなたいそうな人を放ってはおけないので、早いとこ今のを終わらせて次にいきたいと思います(←オイ)