
想像していたよりかなり宮部さんの扱いが良くてうるっ


NHKはどこまで調査の権限があるのでしょうね。
そういえば、『宮部鼎蔵先生殉難百年記念誌』を調べていましたら、宮部さんが肥後藩政へ与えた影響が想像していた以上に大きかったことが分かってきまして、1850年の松陰先生との出会いを始まりとして、1854年の日米和親条約締結の際には長州と肥後の家老家同士が手を組んで締結を阻止する内部工作を働きかけていたことが明らかになりました。
これは『長肥二藩連合時局打開策』というそうで、各藩の代表は以下とのこと。
長州:益田 右衛門介・・・八月十八日の政変では薩会との交戦を主張、のち禁門の変の責任を取り切腹
肥後:長岡 是容・・・藩内の政治抗争で失脚、1859年に病没
この他にもう一つ、梅田 雲浜、梁川 星巌、鵜飼 吉左衛門らによる『尾水越三藩連合』というのが画策されていて、宮部、松陰、永鳥は彼らと頻りに連絡を取り合っていたそうです。どうやら、『長肥』班と『尾張・水戸・越前』班の二方向から尊皇攘夷を決行するつもりだった模様。
なるほど、『尾水越』の方はことごとく安政の大獄で処分を受けているので、それを見越しての分担だったのかもしれないですね。
少し補足が入りましたが、今回は以前発掘した宮部さんにまつわる心温まるちんエピソード、もとい問題児ともいえる愉快な仲間たちとの話について紹介したいと思います。
嘉永3年(1850年)、ある男が九州の地に降り立ちます。
吉田 松陰 です(問題児その1)。
何かと肥後に衝撃的な風を送り込んでくれた松陰先生ですが、松陰先生にとっても肥後人(特に宮部さん)との出会いはかなり衝撃だったようで、その心情を文之進叔父さんに手紙でこう知らせています。
松陰『宮部さんって人がいてね、もう30超えてるんだけど、毎日水浴びしてるもんだから、3回水をかぶると身体の皮がむけちゃうって聞いて、のりかたすごいびっくりしたよ!大事業を成し遂げるならこれ根付かせるべきかなあ!?』
そっち!?
そして、文之進叔父さん宛に書いた手紙を花燃ゆではテッパンの覗き見スキルで見たんでしょうな。
長男の梅太郎さんが慌ててこんな返書を送っています。
梅太郎『宮部さんみたいな生質剛堅の人の真似したらお前風邪引くだろう!兄さんはそれが心配だよ!』
一体何の会話だよ!素敵な家族の会話ですね、はい!
すごく原田 泰造の梅太郎兄さんでイメージできます・・・
宮部さんはこういう体育会系エピソードが多く遺っていてですね、子どもの頃は熊本城下から上益城郡の実家まで七里の道を週一ペースで往復し、疲れて山野で眠っていたところを郡代官に補導されるとか、城下から杖立温泉という阿蘇にある温泉まで歩く時は絶対に「くたびれた」とは言わず、「○○つぁー飯食おうじゃにゃあな」と言うのが休憩したい合図だとかいうのがあります。司馬 遼太郎の『世に棲む日日』でも、真冬の真夜中に窓を開け放って松陰に風邪を引かせかけるエピソードが書かれていますね。
真の敵は永鳥だ!(問題児その2)
そんな、松陰の親友として真っ先に名が挙がる宮部さんですが、年が10も離れているとなるとやっぱり松陰にとっては目の上のこぶというか、口うるさいと感じる部分もあったようで、相談や秘密の告白など肝心なことは宮部さんにではなく永鳥さんにしていたみたいです。宮部さんに打ち明けるのは、後戻りできない段階になってから。
それで
宮部「なんでもっと早くそれを言わないんだ!!」
松陰「だって、言ったら宮部兄絶対反対するでしょう?それに、永鳥兄は賛成してくれましたもん!」
宮部「えっ・・・永鳥君・・・・・・?」
永鳥「ん?何の話だい?

というのがお決まりだったよう。さすがクレイジー永鳥、後輩なのに見事に宮部さんの背後を刺してきます。
(1854年の松陰アメリカ密航未遂の目的ですが、永鳥教唆によるペリー暗殺説が浮上していることを最近になって知りました。1999年に熊本県立図書館で見つかった藩への建議書の写しと永鳥の伝記が根拠になっているようです。少し詳しいサイトはこちら

松陰が小伝馬獄に収容された時、宮部さんは鰻飯を差し入れしたり、一緒に捕まった金子クンの心配をしたり、松陰のパシリで靖献遺言(せいけんいげん)を届けたりしています。松陰が奉行所に連行される時は、囚人籠を覗いては編目の隙間から互いの目を見て微笑みあったそう。金子クンが岩倉獄で亡くなった時は以下の二首を贈っています。
・心なき 深山おろしははけしきに さきがけて散る 花をしぞ思ふ
・空蟬の なきみのからはくちぬとも その名は世々に語り伝へむ
女の人には頭が上がらない?
宮部さんも松陰同様、叔父のスパルタ教育を受けて育ちました。けど、その叔父以上に恐ろしい存在だったのが祖母の楽子さん。肥後の稀に見る女傑で、近所からは“鬼老婆”とあだ名されていたのだそう(それって単に悪口じゃね!?)。記録にも「よく仕える」と書かれており、それだけでもう楽子さんの女傑具合が伝わってきます。ただ、宮部さんもこの楽子さんをとても大切にしたそうですね。
また、旅の途中で夜遅く百姓家に泊めてもらった時に、くたびれすぎて誤って大釜の上に兵児帯を置いてしまい、家主のおばあさんにこっぴどく叱られたのだとか。これはもう志士になってからの話で、他には小川亭のていさんやりせさんに助けてもらったり、何気に女の人に頭が上がらないエピソードが多いです。
親友・末松 孫太郎君の証言(問題児その3)
末松 孫太郎は宮部さんの三歳下で、宮部さんとかなり親しかったといわれる人です。松陰先生や金子クンとも知り合いで、松陰密航前の向島での花見には宮部・永鳥・佐々とともに参加しています。
そんな末松つぁーなんですが、お孫さんに宮部さんとの思い出を語っておりまして、その内容が50年前の記録に残されています。
それによりますと、宮部さんは「大変な負けず嫌い」で、意外にも「冗談好きで改まった話は殆どしなかった」のだそう。
杖立温泉の話や帯の話も末松つぁーの述懐なんですけど、杖立温泉の話には続きがありまして、
末松「宮部どんがお風呂で最初に洗う身体の部位は、ちんだよ~(^_^)V」
と、カミングアウトしております。いや、その情報は墓まで持っていこうぜ!?
プライベートは確かに知りたかったがそういう意味のプライベートじゃねえ!!
末松があの世で「これが本当のちんエピソードばい!( ・´ー・`)」とどや顔してそうで、なんか腹立ちます(爆)
いや、これで終わりならまだいいんですよ。末松つぁー、とことんこの話を引っ張り、
末松「旅ばっかりしとらすから一番初めに狙いを定めるのかなぁ?」
と勝手に考察し、よくわからん結論で自分を納得させようとします。
しかしそれでも飽き足らず、本人とこんな会話までしたそうなのです。
末松「ねぇどんな気持ち?顔から先に洗わないの?ねぇすっごい気になる」
宮部「あっはは、こらわるかった。でも、ほっといてくれる?」
だよな!!ほっといてやれよ!!宮部さんの周囲困ったヤツばっかだな!
この末松、宮部さんだけでなく我らが勤皇党の教祖・林 桜園先生のことも話しており、
末松「一緒にお伊勢参りをしたときのこと、街の左右から宿引きがどうぞ手前にお泊りをという。先生はいちいち有難う有難うと首を下げなはるので忙しそうだった。俺は林先生の下唇が厚いのが気になった」
と、桜園先生の下唇のものまねを孫の前でしたらしいです。
いや、絶対その時他に学ぶことがあったハズだろ!!桜園先生の謙虚さとかさ!!
なに!?肥後人は何か笑いのオチをつけるよう義務づけられているの!?
以上、宮部さん(+松陰、永鳥、末松)の人となりが垣間見えるエピソードでした。
ビビるさんは二次災害を防いでくれたけど、私がいらん部分をさらけ出した感じだな・・・・・・
これにて調べたことは殆ど記事にあげてしまった状態でして、執筆中の小説も肥後人の出番がほぼ終わり、
花燃ゆでも宮部さん見納めということで、肥後人に対する喪失感が半端ないです。
これから小説の結末にかけては長州一本の立場で書くので、肥後からは遠ざかっていきます。
なので、肥後に関する資料などの情報の更新は停滞するかも。
『幕末郷土の偉人』第3弾を書くことがある時に、また別の視点から調べるのを再開したいと思います。
