松田について語る | 植民所在地3丁目

植民所在地3丁目

Alfooでのブログ『誰も知らない植民所在地』の発展系。所在地わかりました。

でも書いてることは変わらない。

描いた絵が溜まってきているので投下。左が河上 彦斎、右が松田 重助のつもりです。

{9EC5889C-716F-474B-8210-65EF1EF7CAD5:01}

熊本では、彦斎は藩家老長岡監物(是豪)の茶坊主、松田は熊本城花畑屋敷の番士をしていました。

松田はかなり早熟だったらしく、肥後勤皇党の支柱である林 桜園の下に1841年に入門しています(実に満年齢にして11歳!)。桜園は政治思想家ではなく、生粋の神道学者で、天皇が政治に利用されることを極度に嫌った人です。公武合体に対して賛成も反対もせず、肥後人が口を噤んでいたのはこの人の教えがあったからかも。宮部さんは1853年に入門したので12年後輩、という不思議な関係になるのだけれども、単なる思想集団が尊皇攘夷という幕末史に登場するのは、宮部さんが思想集団を志士集団に昇華させたことによります。松田はその魁で、1855年に脱藩。

※ ここから追記
宮部さんや新選組の陰に隠れてしまって、調べてもあまり詳しい資料のない松田の経歴ですが、まさかまさかの司馬御大が彼について比較的詳しめに記述しておりまして、
『竜馬がゆく』 、および後藤 是山という人の書いた 『肥後の勤皇』 によりますと

藩主世子・細川 護久(よしくにさんの弟)に懇意にしてもらえるところまでは行き着いたけれども、結局藩論を引っくり返すことはできないと悟り、脱藩。その後、諸国を歩いて勤皇の士と交わりを結ぶ。何気にこの人、横井 小楠と地元では知り合いだったり(小楠は元々攘夷論者でした)、吉田 松陰や桂 小五郎とはかなり親しい友人だったり(彼らとはペリー来航前後から知り合っていたようです)、脱藩後は佐久間 象山の塾に入っていたりして、かなり先見の明があった人なのですね。もちろん、宮部さんは弟弟子ではありますがそれ以前に兵学の師匠なので、身分の割にかなりレベルの高い教育を受けていたことになります(身分に関係なく教育機会を得られ、取り立てを受けるチャンスがあるのは肥後藩および肥前藩の特徴でもあります)。

その後、大坂で私塾を開きます。そこで志士の育成にあたりますが幕吏の狙うところとなって京へ逐電します。ここから松田の逃亡人生が始まります。
京で梅田 雲浜らと出会い、付き合いを始めますが、安政の大獄が起こり、大和十津川郷、紀州高野山など幕吏の追手から逃げ回る日々を送ります。のち備後(広島県東部)の知人に匿われますが、ここでも幕吏に襲われ、九州に逃げます。この時母藩である肥後に密かに入り、永鳥 三平の保護の下清河 八郎と会っています。清河は薩摩の島津 久光が倒幕のために京へ挙兵すると志士たちを京へ向かうよう煽動し、福岡以北の志士たちは既に京への集結を始めていましたが、肥後はさすがに薩摩と直に接しているだけあって清河の言うことを信用できず、彼は宮部らとともに薩摩に偵察に出ます。恐らくこの偵察があって、肥後の志士は寺田屋事件に巻き込まれずに済んでいます。

薩摩偵察を終えた後は再び大坂に戻り、私塾を開きますが、そこで天誅組の変が発生。天誅組の挙兵を知っていた松田は時期尚早と止めようとするも聞き入れられず、自身も幕吏に踏み込まれ逃げることになります。この頃、藩論が完全に尊皇倒幕へと統一した長州藩に声をかけられ、長州に身を寄せることに。肥後勤皇党は他藩との同盟を結ぶことはほぼなく、独自路線で活動を展開していることが多かったですが、長州藩とだけはたった一つ同盟を結んでいて、

『肥後藩公古より本藩(長州藩)と厚交あることに承及べり、
君上は勿論、群臣も亦交互に交はり厚くなりたきこと』
(第二條)

『急務條議十三ヶ條』 という名の盟約に基づいて、元治元年(1864年)、宮部とともに偵察のため京都に上ります。そして今度は新選組に狙われるはめに。
数々来る追手から自身は逃げ切りますが、古高 俊太郎が新選組に捕らえられ、人質(新選組の意図に関係なく宮部や松田にとってはそうだった)にされてしまいます。そこから池田屋事件に発展、35年の人生がここで終わります。

池田屋事件の時の松田ですが、そもそも池田屋に入るのにも苦労するくらい自身にも危険が迫っていたようで、町人の変装で会合に参加していたようです。新選組が突入した時には真っ先に沖田 総司に狙われ、とっさに短刀一本で応戦するも何せ相手が沖田なので到底敵う訳がなく、重傷を負わされます。それでも宮部が活路をひらき、松田を逃がそうとしたそうです。松田は2階の窓から庭へ飛び降りますが、傷のひどさで動くことができず、一度は捕縛される。
その後、隙を突いて池田屋の敷地を離れ、路上へ出ますが、そこで遭遇した会津藩士数人によって串刺しにされるという壮絶な最期でした。

……なんというか、
『逃げの小五郎』といわれている桂さんが霞むほどに、この人は逃亡人生だったように思えます。 (※追記終わり)


{9D3E8E8B-7EC5-4D5E-9B51-C4834874BEE4:01}

神風連の乱が他の士族反乱と少し異質な部分があるのは実は不思議な事でもなく、本質は思想を通り越して宗教集団なのですね。もちろん、信仰心薄い者もいましたが、その人たちは新政府に召し抱えられているか、維新前に死んでいる。肥後は藩内でかなり血みどろの争いを繰り広げ維新の波に乗り遅れましたが、ドロドロになった理由の一つに宗教戦争みたいなもの(横井 小楠一派はキリスト教に傾倒していた)があるのではないかなーと思っております。松田も神風連の色を少なからず継いでいるので(というか桜園の二番弟子のようなものなので)、もしかしたらこんな格好をしていたかも。少なくとも彦斎や神風連の人たちは衣冠束帯を身に着け占いをしていたという記述があります。


{F0C60060-80DE-4841-85A5-F470892DB360:01}

左が松田で右が桂 小五郎(原作者の)。彼らは、1855年に水戸を引き込んで三国連合を作ろうとしたり、初期の段階から協力し合っていた模様。松田はかなり弟思いでもあり、山田 十郎(のち信道と改名、維新後は新政府に入り、県令を歴任後、入閣)を案じて、十郎が藩外での危険な任務を任された際には自らが代り、十郎を国許に帰していたようです。そして十郎の方も、兄の重助が冤罪をかけられた際、宮部と共に弁明するも晴れず、代りに切腹しようとするという。肥後の志士は母藩の方針(土佐藩のように「酔えば勤皇、醒めれば佐幕」ではなく、第二次長州征討で幕府に愛想を尽かすまでは、幕府に忠誠を誓っていた)やその個人主義的な活動形態から、薩長土の志士から「佐幕である藩のスパイではないだろうか」と勘ぐられていた時期がありました。その経緯あって疑われるのですが、十郎が「信じてくれないのなら、兄の代りに自分が責任を取る」と言って自らの腹に刀を当てたので、ようやく信じてもらえたとのこと。肥後人は、一度やると言ったことはどんなにムチャなことでもやりますからね(爆)
ところで、最近思うのだけれど、肥後人はとかく切腹したがるような。横井 小楠を暗殺し損ねた堤 又左衛門しかり、1863年の将軍東帰反対運動に失敗した堤 松右衛門しかり、池田屋事件で新選組に捕らえられる前に自刃した宮部さんしかり。細川の武士道教育の賜物なのかしら。



先週土曜に横井 小楠記念館、田原坂資料館、宮崎兄弟資料館(兄・八郎は西南戦争で西郷方につき、戦死。弟・滔天は孫文の辛亥革命に関わる)に行って来ました。田原坂は4000人以上が戦死した暗澹たる地ではありますが、気分が暗くならないようにポップな!(いっそ乙女ゲーみたいな!)イラストを用いて説明しているという工夫が。それを象徴するこのチラシ。

{E8D3C4FF-3791-411D-AD5C-8FE657286F6C:01}

西郷軍についた桐野 利秋こと中村 半次郎のイラストに悪意を感じましたが()、半次郎も含めイケメン揃いでしたよあと、薩軍くまモン()と官軍くまモン()も

{BC95B15F-622D-4326-B403-0F3519C7889A:01}



今回の帰郷では、小説には恐らく書かなくも掘り出し物がいっぱいの資料を見つけることができたので、ブログに載せられるといいな。永鳥伝説とか。
その前に、明日(といっても数時間後か)宮部さんの親友のいた萩へ飛び立つので、その旅行記もアップできたらなーと思います。体力があれば、ですが()
それでは、おやすみなさい( ˘ω˘ ).。oO





ペタしてね