お久し振りにござぁます。
ただいま、諸事情により熊本に帰省しておりまして、せっかくだからということで『ひとり幕末肥後巡り』をやっております。
現在、『幕末×郷土の偉人』小説の第二弾として、肥後の攘夷志士宮部 鼎蔵と河上 彦斎にスポットを当て、長州志士との交流を軸とした物語を執筆しています。ちなみに第一弾は新選組副長助勤・尾形 俊太郎(佐幕派)。興味のある方はそっちも見てってね
リンクはこちら→ 新選組・真の参謀/でうく
さて、この第二弾・宮部 鼎蔵 & 河上 彦斎ですが、前作と違い非常に地方色の強い話となっておりまして、肥後、および長州の藩事情を中心に物語は展開しております。最初は、幕末の肥後人をテーマに書きたいと主張する私に「久坂 玄瑞を主役にした話を書け!」とリクエストしてきやがりまして(例の原作者のカノジョです)、は!?接点あんのかよ!と思ったものですが、調べてみると思っていた以上に彼らの関係が深い事がわかりまして、長州と肥後の両方が主役の物語をとりあえず書いてみようと相成りました。
まず、宮部 鼎蔵と河上 彦斎の事を簡単に紹介させていただきますと、一般に知られている人物像と熊本県内での扱いに結構な隔たりがありまして、
宮部 鼎蔵は世間一般には池田屋事件で新選組に襲われ、自刃。という風にしか知られていませんが、実際には吉田 松陰の親友であり、久坂 玄瑞に松陰の存在を知らしめた人でもあり、松陰が久坂や高杉 晋作、吉田 稔麿(この人も池田屋で闘死しますね)などの志士を育てると同様、松陰と励まし合いながら肥後の尊攘志士を育てていきます。水戸は水戸学があるので勤皇精神の先輩と言えますが、長州と肥後は松陰と宮部の先導で共に尊攘の精神を成長させていった、と言えそうです。しかし、肥後は佐幕色が強く藩の内外から制圧され、長州の同盟相手は土佐、薩摩へと移行していきます。
一方で、河上 彦斎は世間一般にはるろうに剣心の主人公のモデルとして知られ、『幕末三大人斬り』の一人に数えられるいわゆる“暗殺者”のイメージが強いですが、実は熊本の維新史を語る上で絶対に外せない重要人物でした。九州周辺は維新後から西南戦争にかけての10年、とにかく戦乱続きで、順番的には山口、大分、佐賀、熊本、福岡、(また山口)、鹿児島と伝播していくのですが、それに先駆けて大村 益次郎や横井 小楠の暗殺、二卿事件、長州の反乱分子・大楽 源太郎の肥後領への逃亡などが起こり、肥後人の関与が疑われたので肥後の国そのものを潰してしまおうという働きが新政府の間でなされます。彦斎はこのどれにも無関係でしたが(大楽の件は決起を促されましたが断っている)、罪を被って斬首される事で肥後は潰されなかったという経緯があります。熊本の歴史本は、人斬り彦斎の名も勿論載せていますが、維新後の彦斎の働きを主に扱っています。
つまり、肥後の尊皇攘夷活動は宮部から始まり彦斎が責任を取った、と言っても過言では無さそうですが、二人とも『肥後勤皇党』という組織に属していました(武市 半平太の『土佐勤皇党』と根本的には同じ)。肥後勤皇党は神風連と呼ばれる組織の前駆体でもあり、神風連の乱を引き起こした太田黒 伴雄達は彦斎の元同僚です。
と、いう事で、やっと本題に入りますが、肥後勤皇党は熊本でも殆どクローズアップされないので、教科書にも載っている神風連から宮部さんと彦斎の軌跡を辿る事に。本日は、神風連資料館と桜山神社、宮部さんのお墓がある小峰墓地へ行って来ました。
桜山神社には、肥後勤皇党および神風連の烈士達の墓があり、勤皇党員22名、神風連の烈士123名と、彼らの精神的支柱となった林 桜園という人の名が刻まれています。中には女性1人、義犬1匹の名も。
雨でしたが、木々が鬱蒼としているので傘いらず(爆
彦斎の仮墓です。維新後は高田 源兵衛と名乗り、藩命で豊後鶴崎(大分)にて文武を教えていました。
東京で処刑されたので、熊本に墓はありません。
神風連資料館。やはり神風連の乱関係が多いですが、彦斎関係も割と展示されていました。彦斎は結構歌を詠んでいたらしく、歌集が売ってありました。つくづく、どうして人斬り扱いされているのか疑問に。
神風連首領・太田黒 伴雄が彦斎に宛てた手紙。太田黒は彦斎より1つ年上で、勤皇党の同僚でした。
新年の挨拶と新年早々辛気くさい時勢の話をしたためています。ただ、追伸でとろろ昆布の郵送方法について色々注文をつけているのには受けました。このような手紙が遺ってると和むね。
資料館の方曰く、神風連の親族は殆どが各地に散ってしまったらしく、子孫の特定が非常に難しいそうです。と、いうのも、結局は国に逆らった逆賊なので、遺品は全て焼き払い、遺族は熊本から離れて身を隠して生きるしか無かったそう。この間は神風連副首領の加屋 霽堅の子孫だろうという方が神風連資料館を訪ねたらしいですが、証拠が何も無いのでどうしようも無かったとか。
最後に、小峰墓地。
この墓地は一般の方のお墓も多分含まれていて、公園と呼ぶにはおどろおどろしい感じがする(一応、墓地公園らしい)。
西南戦争の石碑。熊本一帯は新政府軍と西郷軍のぶつかった戦場となり、両軍合わせて約1万2000人の戦死者が出たそうで、熊本城の天守閣もその時に焼け落ちてしまったので熊本人は割とねちねちこの事を言います(←加藤 清正が大好きなので)。そういえば、天守閣を燃やしたのは誰か?について長らく真相がわからぬままでしたが、最近ではどうやら目星がついているらしく、谷 干城の命令により(この人は近藤さんを斬首に追いやった人ですね)児玉 源太郎が行なった説が濃厚との事。おかげで私は谷さんいっちょん好かんとよ。近藤さんも死に追いやってからに。
天守閣炎上の事以外については特に熊本人は西南戦争の文句を言わないのですが、やはり死者の数が数だからか激戦地だった田原坂(たばるざか)は「出る」と言われており、特に夜に付近を通るなんて言語道断との事。感じる人は昼でも結構感じるらしく、実家が田原坂から離れている私でも、その怪談を聞いて育ちました。こちらも真相は謎ですが、そっとしておいた方がいいかもね。
宮部さんのお墓です。
左側にある『勤王の志士 宮部鼎蔵の墓』という印の日付が今年になっているのを見ながら、あぁそういえば、今年が池田屋事件から150年と京都や日野で騒いでいたな、と思いました。尾形さんだけ執筆していた時は何とも思わなかったのですが、ひっくり返せば、そうか、池田屋から150年という事はそのまま宮部さんが亡くなって150年になるのかと。そう思うと微妙な気分ですね。池田屋はやはり新選組が獅子奮迅の活躍をしたので勝者側に目がいきがちですが、その裏には犠牲もいる事を今更ながら実感。本作では彼らの視点から池田屋を書く事になるので、なかなか苦しい気持ちになるかも。
来週の木曜に関東へ戻る予定ですが、その前に萩へ寄る事を画策中。完全に取材旅行になりつつある。