「KY」などといって馬鹿にされる。
だが、一方で・・・
「KYで何が悪い、日本人は空気を読みすぎなのだ!」
と主張する人もいる。
確かに・・・
人の顔色ばかりを気にしていたら
建設的な会話など、出来ないのかもしれない。
まあ・・・
良いか悪いかという議論は
とりあえず・・・置いておいて・・・
大事なのは
空気を読むという行為、
そのものなのだ。
「場の空気を読む。」
これは・・・
日本人が編み出した
「特別な能力」ではないかと・・・
私は勝手に考えている。
狭い島国で・・・
和を重んじるという
聖徳太子の教えを守るためには、
相手の気持ちを察するという能力が
必要不可欠だったのだろう。
人種や国籍というよりも、
この日本という場所が「場の空気を読む」という
独特のムードを求めているような気がする。
アメリカで生まれ育った日本人よりも、
日本で生まれ育ったアメリカ人のほうが
場の空気が読めるという事実が、
それを証明している。
いや・・・
日本生まれ、
日本育ちの生粋の日本人でも・・・
何年間か海外で過ごすうちに
場の空気を読まなくなる。
きっと・・・
読む必要がなくなるのだろう。
そして・・・
こいつらは
なんて気が利かないのだろうという思いが、
自分の心から完全に消え去ることはない。
場の空気を読むというのは・・・
ただ単に
「相手が口にしていないことを察する」
ということではない。
顔は笑っているが、
本当はつまらないんだろうとか・・・
早く切り上げて、
家に帰りたいのだろうとか・・・
相手の心理を察知することは
モチロン重要なのだが・・・
それだけでは
場の空気を読んだとは言えない。
場の空気というのは・・・
その場にいる人たち全員が
創り出しているものなのだ。
いわば・・・無言の約束事。
口には出さないが、目配せで・・・
「つまんない話だよね、ほんとうに・・・」
という共感が生まれるとき、
それが場の空気となる。
つまり・・・
場の空気は
「つまらない」なのだ。
にもかかわらず・・・
同じ話題を話し続けたり、
その話題に突っ込みを入れて、
話を長引かせたりすると・・・
「場の空気が読めない」
という烙印を押されてしまうことになる。
口には出さないが
その場にいる
大多数の人が感じているであろうこと。
それが
場の空気の正体だ。
そして・・・
日本人は
ことさらそれに気を使う。
言いたいことや、
言うべきことは、きっちりと主張する。
というのが
世界の人々のコミュニケーションの基本だ。
たとえ・・・
その場の空気を乱してしまったとしても。
そして・・・
「反論しない=相手の主張が正しいと認めた。」
というような理解をされてしまう。
だから・・・
日本人は国際的な場面で
もっと主張するべきだと言われている。
だが・・・
私の意見は、チョット違う。
いずれ・・・
世界の人々は、
もっと場の空気を読むようになる。
そんな風に考えている。
そうなると・・・
「主張したものが勝ち」という
従来の国際ルールは、
変化するのではないだろうか?
どんなに正論を主張しても・・・
どんなに素晴らしい寄付をしても・・・
その裏側に見え隠れする
「いやらしさ」を
人々は感じるようになるからだ。
日本人は、主張が足りない。
せっかく
ODAで大金を使っても評価されない。
などと・・・言われている。
しかし、途上国への援助を
これ見よがしに主張するほど
いやらしいことはないと思うのだ。
テレビやインターネットが世界中に普及し、
それぞれの主張が溢れかえったとき・・・
人は情報を選別できなくなるだろう。
そうなった時・・・
世界の人々は
自分の感性で、好き嫌いを判断するようになる。
誰が素敵な人で、
誰がいやらしい人か???
どの国が立派な国で、
どの国がいやらしい国か???
主張ばかりする国と・・・
黙々と正しい行いをする国。
どちらが好意をもたれるのかは
明白だと思うのだ。







