まもなく・・・Merry Christmas(^O^)/  ・・・ですね。先ず・・・

先般、教えている少年団の3年性が初の地区ブロック大会で優勝しました(≧∇≦)b

今後、6年生まで対戦し続ける相手に対して勝てたことは

今後の大きなアドバンテージになることでしょう・・・

 

さて・・・

サッカーと将棋の違いを考えた事があるだろうか。 


まあ、大抵の人はそんな事は考えないだろう。 


何しろ二つの競技は違いすぎる。

だが似ている点もあるのだ。 

 

まず、勝つための戦略を考える人がいる事。 


サッカーならば監督であり、将棋ならば棋士。 


そして・・・

 

その人たちが考えた作戦に従い、動くものたちがいる。 


サッカーならば選手、将棋ならば駒だ。 


ここで質問がある。 


なぜ、サッカーにはコーチがいるのに、将棋にはいないのだろうか?

 

「ふざけた質問をするな」と怒られてしまいそうだが、 
事実、将棋にはコーチがいない。

 

そして、サッカーにはコーチがいる。 


これは、とても重要な違いなのだ。 


そして・・・

 

この『違い』を真剣に考えない人は 
きっとコーチには向かないと思う。 


いや、コーチどころか、あらゆる管理職に不適任かもしれない。 


サッカーにコーチが必要な理由。 


それは・・・選手が駒ではなく人間だからだ。 


「何だ、バカらしい」と思われるだろうか。 


たしかに当たり前の話だが、

この当たり前の事を理解しないままに 
コーチや管理職をやっている人達が世の中には沢山いる。 

 

なぜ?駒にはコーチが必要ないのに、 
人間にはコーチが必要なのか。 


それは・・・

 

人間が『言った通りには動かない』駒であるからだ。 

 

もしも、監督の支持通りに100%選手が動くとしたら、 
サッカーにもコーチは必要ない。 


監督はただ「走れ」とか「寄せろ」とか 
指示を出していればいいのである。 


だが、現実問題として・・・


選手は監督の指示した通りに動かないし、動けない。

 

パスしろと言われてピッチに立ったのに、失敗してしまう。 


この選手を抑えろと指示を受けたにもかかわらず、決められてしまう。

 

人間なのだから当たり前なのだ。 


だが、将棋ならば、こんな失敗は絶対にあり得ない。 


前に進めと言っているのに横に進む駒はないし、 
斜めに移動しろと言われて失敗する角もいない。 


人間は指示した通りには動かないし、動けない。 


これが鉄則なのだ。 


パスをしろという時にパスが出来ない。 


決めなくてはならない時に決められない。 


走らなくてはならない時に止まってしまう。 


だから、コーチや監督が必要なのだ。 

 

つまり、コーチの仕事は 
「出来ないものを出来るようにすること」なのだ。 


中間管理職の仕事もまったくこれと同じ。 


出来ない部下に結果を出させるのが仕事である。 

 

・・・にもかかわらず、 
出来ない部下に嘆く上司のなんと多い事だろう。 


そういう人たちは、

解っていないのだと思う。 


もしも・・・自分の部下たちが

100%経営トップの希望する通りに動いてしまったら・・・


自分の仕事が無くなってしまうということを。 

 

だがもちろん、

中間管理職の仕事は無くなったりはしない。 


それは人間が 
「言われた通りに動かないし、動けない」駒だからだ。 


出来ないものを出来るようにする仕事。 


何とも大変な仕事ではあるのだが、 
それこそが・・・中間管理職であるコーチの仕事なのだ。 

 

急に寒くなりましたね・・・(^_^;) 鍋に熱燗でキュッといきたい今日此の頃です。(^^)ww

さて・・・

 

仕事に優劣はない。

全ての仕事は尊いものだ。 
・・・という意見に、私は反対ではない。 


そういうスタンスで、

他人の仕事を尊重することは 
とても大事なことだと思う。 


だが・・・

 

その一方で、仕事には「お金になる仕事」と 
「お金にならない仕事」があることも事実だ。 

 

誤解しないでいただきたいのだが、 
私は給料の多寡を述べているのではない。 


私が言いたいのは・・・

 

「利益を生み出す仕事かどうか」ということ。 


仕事には、

明らかに利益を生み出すものと、 
生み出さないものとが混在している。 

 

もちろん・・・

 

利益を生み出す仕事といっても 
営業や販売のような仕事だけを指しているのではない。 


直接的ではなくても、

利益に貢献している仕事はたくさんある。 


たとえば・・・

 

営業をサポートしてくれるスタッフの存在。 


そういう人がいるおかげで、

営業マンの売上が伸びるのだから、 
これも立派な利益貢献である。 


では、利益に貢献しない仕事とは、どういう仕事なのか。 


実は仕事というのは 
作り出そうと思えばいくらでもできてしまうものなのだ。 


営業マンのサポートにしても、 
至れり尽くせりにしようと思えば、

いくらでも仕事を作り出せる。 


たとえば・・・

 

営業マンのお茶を入れる仕事や、 
営業マンの机を片付ける仕事、 
営業マンの肩を揉む仕事だってあるかもしれない。 


私がやっているのは人材業を始めとする労働集約業。 

 

利益に貢献しない仕事とは、どのような仕事か。 


仕事というのは・・・

 

『分ける』ことによって増えていく。 


社長一人で、

全てをやっていたところに・・・

事務員さんを雇い、 
経理を雇い、

作業員を雇い、

営業を雇う。 


こうやって人が増えていき、

人が増えた分だけ仕事も増えていく。 


重要なのは・・・

 

仕事を分けたことによって、利益が増えるかどうか。 


これだけである。 

 

営業マンのお茶を入れたり、

肩をもんだりすることによって 
利益の総額が増えるのならば、

それはお金になる仕事だ。 


だが・・・もしも、 
それをやったところで全体の利益が増えないのであれば、 
それはお金にはならない仕事ということになる。 

 

社長の仕事は

「仕事を生み出すこと」だと言っても過言ではない。 


だが、その時に一番重要なのは・・・ 


「お金になるかならないか」をどういう図式で考えているのかだ。 


直接利益を生み出す人だけを採用する。 


それは、

一見手堅い戦略ではあるのだが、 
それだけでは、

大きな利益を生み出すことはできない。 

 

間接的な利益貢献こそが、大きな利益の源泉となるのだ。 


そういう仕事を作り出せるかどうか。 


それは、

社長の想像力にかかっている。 

 

自戒・・・^_^;

 

公私ともに忙しなく・・・暑さと雨にやられて・・・2ヶ月更新をサボりました(^_^;)・・・

ようやく・・・爽やかな陽気になってきましたので、マメに更新しましょう(^^)ww

 

さて・・・

 

私は営業職、俗に言うセールスマンが嫌いです。

「営業ということばが嫌い」などと書かせていただきましたが、 
本当のことを言うと 
私は営業という職種が嫌で嫌でたまりませんでした。 

 

初めて社会に出たときも、できれば営業職だけは避けたい。 
そう思っていました。 
でも現実というのは意地悪なものです。 


結局・・・

 

私はセールスドライバーという、

営業マンとして 
社会人生活をスタートすることになったのです。 

 

私が社会にデビューした当時、 
仕事=営業と言ってもいいほど営業することは常識でした。 


「営業が嫌」などというセリフは、 
面接の場では絶対に言ってはいけない。 


それは「逃げ」であり、「弱さ」である。 


本当にそういう常識が支配していました。 

 

私は、その時には何の決意もなく・・・

キツイ日常に追い回されていて、

ただ、ただ、日常のルーティーンをこなしていました。


それでも、営業は避けて通れない道でした。 


日常の集配を

少しでも軽くしたいのなら『営業力』は必須。 


売る力さえあれば、どんな状況でも生きていける。 
先輩も、そう教えてくれました。 


だから仕方なく、

私は志望職種に『セールスドライバー』と書いてしまったのです。 

 

体育会系については、OK。

 

コツコツ一生懸命に何かを積み上げる。


自分では、

そういう仕事のほうが向いていると思っていましたし、

営業には絶対に向いていないという自信もありました。

 

何しろ当時の私はかかってきた電話を

まともに取ることさえ出来ないほど、人見知りがすごかったのです。 

 

しかし、この長時間重労働を軽減するには

『営業』から逃げるわけにはいかない。 


そう自分自身を鼓舞し、 

朝から発声練習をし、客先で声をかけまくり、

セールスに邁進する毎日。 


それが・・・

嫌で嫌でたまりませんでした。 
本当に嫌でした。 

 

あの頃の自分が

営業の辛さから逃げようとしていたことは認めます。 


出来るだけ営業せずに売上を上げるために、

色々と知恵を絞りました。 


でもそれは『知恵』というよりは、やはり『逃げ』でした。 


周りの同僚も、上司も、そして私自身もそう感じていました。 

 

でも・・・あの頃の違和感は間違っていなかったと、 
今ではそう思います。 


「社長は営業経験者が多いので、

 がんがん営業して来るヤツが好きだ」 ・・・と、先輩や上司から教えられました。 


実際にあの頃の社長は、

そういうタイプの営業マンが好きでした。 

 

でも、時代は変わった。 


今の経営者は、

消費者と同様、営業されることが嫌いです。 


営業しにくくなったという人もいますが、 
私はすごくいい時代だと感じます。 


できれば自分が社会人デビューした時に、

このような変化が起こってくれていたら・・・と、羨ましくもなります。 

 

「営業が嫌いなんです」・・・と面接で胸を張って言える時代。 


今は、まだそこまでは来ていません。 


でもいずれその時は来るでしょう。 


常識が180度変わってしまう時が。 


 


今日は台風の影響とやらで、フェーン現象が発生したようで
日本列島は軒並み「熱中症→危険」状態・・・
私たちが子供の頃とは、チョイと環境が変わってしまったようです。

さて・・・

好き嫌いで物事を判断してはいけない。

それは、大人のする事ではない。

そのような常識の元に、
私たちは生まれ育ってきている。

「嫌いな事など、やらなくてもいい」

・・・というような親は、
世間からは変人扱いされ・・・

コミュニティーに、
居づらくなってしまうというのが事実である。

いじめが問題になっている中学や高校にしても・・・

「嫌なら辞めればいいんだよ」

・・・と言うのは簡単なのだが・・・

実際には・・・

「辞めたら負け」

「それは挫折だ」

「我慢する事も大事」

・・・というような論調のほうが圧倒的に多い。

確かに・・・

生きていれば、
辛い事や苦しい事はたくさんある。

その都度、
嫌な事から逃げていたのでは何もできない。

忍耐力を養う事も大事だ。

・・・という理屈も理解出来る。

私たちは

「嫌な事でも我慢するべき」なのか。

それとも・・・

「嫌なものを我慢する必要はない」というのが正しいのか。

これは、なかなか難しい問題である。

重要なのは・・・

「なぜ嫌なのか」ということ。

その理由が

「楽をするため」というのであれば・・・

我慢する事を教えなくてはならない。

だがその理由が・・・

「とにかく嫌だ」という心の問題だった場合は・・・

どうすればいいのだろうか???

私は・・・

心というのは、
とても繊細で正確なレーダーだと思っている。

訳もなく「嫌だ」と感じるとき・・・

それは本能が

「やめたほうがいい」と信号を送ってきているのだ。

その信号を無視して、嫌な事をやり続けると・・・

人は病気になってしまう。

心を病み・・・

身体も病み・・・

最後には・・・死んでしまったりもする。

心と身体は、切り離せないものなのだ。


私たちは通常・・・

この世に物理的に存在している『身体』のほうが実体で、
『心』はバーチャルな存在だと思いがちだ。

心はコントロールする事が出来るが、
肉体は実在しているのでコントロールに限界がある。

食べなくてはならないし、寝なくてはならない。

結果・・・

肉体を生かすために、心を説き伏せる人は多い。

だが・・・本当にそれでいいのだろうか・・・

なぜ?人を殺してはいけないのか。

なぜ?人のものを盗ってはいけないのか。

「それでは社会が成り立たないからだ」

・・・という理屈だろうか。

では・・・

なぜ?ペットを殺してはいけないのか。

なぜ?山にゴミを捨ててはいけないのか。

それは、
社会とは関係のない項目のはずだ。

だが現実として、
私たちはペットを殺さない。

殺したくないし、
そんなひどい事をする人間を許す事が出来ない。

山にゴミを捨てる人間も、
海に工場排水を流す会社も許す事が出来ない。

それは、環境を守るため。

結果的には、
人間が健康に生きていくため・・・なのだろうか。

私は、違うと思う。

そのような理屈は、
後付けのロジックに過ぎない。

実際・・・

私たちが
ゴミを捨てないのは「そうしたい」からだ。

ペットを虐めるよりも、
ペットを可愛がる方が気持ちいい。

ただ、それだけのことなのだ。

確かに・・・

私たちは、法律に従って生きている。

ルールがなければ、
社会は滅茶苦茶になってしまうだろう。

だが・・・

そのルールは、何に基づいて作られているのだろう。

「こうすれば社会はもっと良くなる」

・・・という論理だろうか。

では・・・どのような社会が、最も理想的な社会なのか。


衣・食・住が満たされている。

それも、もちろん大事だ。

だが、その先は?

もっと豊かになる事だろうか・・・

より、大きな家に住み・・・

より、多くの食料や衣服に囲まれる事だろうか・・・

重要なのは・・・

『心』の満足ではないのか。

私たちの『心』が気持ちいいと感じる社会。

その社会を実現するためには、
心のレーダーが必要だ。

頭で考えるのではなく、心の声に従う。

その時に最も重要なのは・・・

私たちの『心のレベル』なのである。



鬱陶しい天気ですね・・・(^_^;)・・・
子供達は夏休みに思いを馳せて賑やかです。
大人だけが暑さにゲンナリといった感じでしょうか・・・(^^)ww

さて・・・


世の中には、

『星の王子様を読んだ事がある人』と・・・

『星の王子様を読んだ事がない人』がいる。

と・・・世の中を二分してしまいたくなるくらい、
私は星の王子様が好きなのです。

でも最近、
「ちょっと違うかも」と思うような出来事がありました。

それは、友人の一人に

「星の王子様が読めない」と言われたからです。


私があまりにも薦めるものだから、
彼は読んでみたらしいのです。

でも、読めない。

何度読んでも途中で挫折する。

そう言ってました。

すっごく不思議です。

だって・・・

星の王子様は、
子供が読んでも解るように書かれた本です。

それにその友達は・・・

難しい本でも、
スラスラ読んでしまうくらい頭がいいのです。

・・・にもかかわらず読めないと言う。

それでちょっと、
私の中の常識が変わってしまったのです。

もしかしたら世の中には

『星の王子様を読める人』と

『星の王子様を読めない人』がいるのかもしれない。

そう思うようになったのです。


私はものすごく読解力のない人間で、
一冊本を読むのに普通の人の3倍くらいの時間がかかります。
マンガを一冊読むのにも2時間近くかかるので、
漫画喫茶に行くよりもマンガを買う方が安いくらいなのです。
でもそんな私でも星の王子様だけはスラスラと読む事が出来ました。
きっとこの本は特別な本なのです。

でも・・・何が特別なのでしょう?

星の王子様は、
サンテグジュペリという人が・・・

たった一人の友達を励ますために書いた本だそうです。

当時、ひどい迫害を受けていたユダヤ人の友人を励ますために。

よく考えてみると・・・

私が星の王子様を読み返すのは・・・

落ち込んだり、心が疲れたりしているときです。

心がボロボロになりそうな時に・・・きっと、この本は読めるのです。

心が弱っている人にしか読めない本。


とっても不思議な事ですが、
それが真実なのだという気がします。

だからもしも・・・

「私も星の王子様が読めない」という人がいたら・・・

心が疲れている時に、
もう一度そのページをめくってみて欲しいのです。

今まで見る事が出来なかった景色が・・・

きっと、心の中に広がっていく事でしょう。

(^O^)/


梅雨入りしましたね・・・約一ヶ月鬱陶しい季節です^_^;
まあ・・・それが過ぎれば「夏」。今年も暑い夏になりそうです(^^)ww

さて・・・

昔話というのは、教訓に満ちている。

人助けをして、大成功したとか・・・

覗いてはいけないものを覗いて、
全てを失ったとか。

だが・・・

昔話に
教訓が含まれているという表現は
間違っているかもしれない。

正しくは・・・

「教訓を物語にして、伝え残してきた」

・・・と言うべきだろう。

まず始めに、教訓ありきなのだ。

「人に親切にしなさい」とか・・・

「約束は破ってはいけない」という・・・教訓。

だが、
そのような直接的な教訓は、
心に響きにくい。

そして、記憶に残らない。

だから・・・

昔の人は、
わざわざ物語という形にして、
教訓を残したのだと思う。

人は物語に興味を示し、物語を聞きたがる。

そして・・・

聞かされた物語を、今度は人に伝えたがる。

物語という形を取る事によって、
教訓は人々の心を動かし・・・

そして・・・伝播して広がっていった。

決して忘れられることなく。


わらしべ長者という昔話をご存知だろうか。

観音様からもらった『わらしべ』を
いろいろな物と交換していった結果・・・

大金持ちになったという話だ。

観音様は・・・

「ここを出て最初に掴んだ物を大切にしろ」

・・・と教えてくれる。

そして、
最初に道で転んで掴んだのが・・・

『わらしべ』だった。

男は、そのわらしべに、
飛んできたアブをくくりつける。

それを・・・

泣いている子供が欲しがる。

当然、男は渡したくない。

何しろ、
観音様に大事にしろと言われているのだ。

・・・が、結局子供にあげてしまう。

そして・・・

見返りに子供のお母さんから、
みかんを受け取る。

しばらくすると・・・

今度は、
喉が渇いて倒れている人に・・・

その、
みかんをせがまれ、
高級な反物と交換する。

次は・・・

その反物を、
死にかけている馬と交換する。

交換してあげないと、
始末されそうになっていたからだ。

交換した馬は、元気になり・・・

急いで旅立とうとしている金持ちが、
貸してほしいと頼む。

もしも自分が戻らなければ、
この家をあげますよと言われて・・・

結局は、
その豪邸を手に入れてしまうというお話。


この・・・

『わらしべ長者』

・・・という物語を、
聞いた事があるという人は沢山いる。

だが・・・

ストーリーを正確に憶えている人は、少ない。

このストーリーを憶えるには、コツがあるのだ。


 何と何を交換して、最終的に金持ちになったのか。

「交換を続けて金持ちになった話」

・・・として、
この物語を捉えている人は、
その細かいステップを憶える事が出来ない。

このストーリーを簡単に記憶する方法。

それは、教訓にあるのだ。

この話に出て来る教訓は、
ひとつしか無い。

それは・・・

「目の前で困ってい人がいたら助けろ」

・・・ということ。


わらしべで助けたのは、どういう人か?

みかんで助けたのは、どういう人か?

彼らは、何で困っていたのか?

それを、
思い浮かべれば、
ストーリーはつながっていく。

『わらしべ→交換する→交換する→・・・』

・・・ではなく、

『わらしべ→困っている→助ける→困っている→助ける→・・・』

・・・という、ストーリーなのだ。

人は分断された記号のような情報を、
いつまでも記憶しておく事が出来ない。

だが、ストーリになれば別だ。

人は、ストーリーを忘れない。

ストーリーを聞きたがり、
ストーリーを伝えたがる。

このやり方は、
ビジネスでも非常に役に立つ。

分断された商品やサービスを・・・

ひとつのストーリーに乗せて、販売するのだ。

人は、
ストーリーに共感し、
ストーリーを伝える。

その、
ストーリーに乗って、
商品は売れていくのである。



10日ぶりの雨・・・暑さも一休み、アッという間の5月でした。
決算も片付き、17期本番というところですね・・・(^^♪

さて・・・

ちいさな贅沢。

それは・・・

今、現在の私にとっての大きなテーマでもあります。

もともと、
大した資産は持っていませんでしたが・・・

月々のキャッシュフローを
薄皮を重ねるように改善してきました。

だからといって、
正直ものすごく落ち込んでいたというわけではないです。

だって・・・

元々マイナスからスタートしたわけですから。

そう考えたら、
随分と頑張って元に戻っただけです。

「もう一息、一生懸命働くか」

・・・と決意を新たにしたのです。

・・・とはいっても・・・

この10年間くらいの私は、
結構な貧相な暮らしをしていました。

外食する時には、
値段を気にして注文していましたし・・・

欲しいと思う物は、
たいてい諦めてきました。

毎日のように、
チープなものをを食べていた事も事実です。

でも・・・漸く・・・

チョット・・・贅沢な暮らしを手に入れました。

土曜日はスシローにいくとか。。。

サイゼリアに行くとか。。。

一生懸命働いて・・・

一生懸命節約して・・・

たま~に、
チョット贅沢な体験をする。

これが、
今現在の私の目標とする生活なのです。

大金持ちの人からしたら、
つまんない生活ということになるかもしれません。

過去の私と比較しても、
まあ、「小さくなったね」と言われそうな暮らし。

でも、それでもいいかな、と思ってます。

私自身は、
けっこう楽しくこの生活に浸っているのです。

もちろん・・・

「もっと贅沢がしたい」

・・・と思わないわけではないです。

「これを買いたいなー」とか・・・

「あの人くらい稼ぎたいなー」とか・・・

たまには、
そういう事も思います。

でも、たまにです。

ほんとに・・・(^^)ww

正直言って・・・

私はお金自体に興味があんまりないのです。

お金無しでも結構楽しく、
幸せな日常を経験をしてしまったのです。

たとえば・・・

感動するくらいに美味しいお寿司屋さん。

でも・・・

毎日そこでご飯を食べていると、
感動など無くなるのです。

消費体験も同じです。

「欲しい」と思っても、なかなか買えない。

だからこそ、
手に入れた時の感動がひとしおなのです。

贅沢とは・・・

「美味しい物を食べ続ける事」や・・・

「欲しい物がいつでも手に入ること」・・・

・・・ではない。

負け惜しみではなく、本当にそう思います。

お金が無いなりに精一杯楽しむ事によって、
私が得た結果がそれだったのです。


小さな贅沢。


それは・・・

本当に飽きないし、心から満足できる体験。

今、それを実感しています。


コツコツとお金を貯めて、
近所のおいしいお寿司屋さんにいくとか・・・

好きな人と一緒に好きな街へ旅行に出かけるとか・・・

たまには、
チョット贅沢して1000円もする蒲鉾と
静岡産の生わさびで一杯やるとか・・・

そういうことが、ものすごく楽しいのです。

もちろん・・・

だからといって、
お金を稼がなくてもいいとは思っていないです。

「また、いっぱい稼いでやるぞ」と思っています。

でも・・・もしも、そうなったとしても・・・

バカみたいな、
お金の使い方をすることはないと思います。

それは・・・

お金を浪費すると同時に・・・
人生の楽しみをも浪費するやり方です。

もったいなさ過ぎます。

最近、私はペヤングソース焼きそばを食べながら・・・

「これは節約なのか?それとも小さな贅沢なのか?どちらだろう?」

・・・などと、ふと考えてしまうのです。

暑いですね・・・(^_^;)・・・毎年、運動会は日焼け三昧。
そろそろ、鼻の頭の皮が剥けてきそうな・・・

さて・・・

必要なことを、必要なだけやる。

それが
最も効率のいい生き方だと、
考えている人は多い。

それは、
性格の問題ではなく、物心ついた頃から、
そういう常識の中で育ってきた結果なのだろう。

私たちは、
知らず知らずのうちに・・・

効率重視の人生を選択して生きている。

必要最低限の勉強時間で、
効率よく志望校に合格し・・・

必要最低限の単位を取って、
効率よく学校を卒業し・・・

必要最低限の知識を仕入れて、
効率よく企業の面接を乗り切る。

最低限の労力で、
最大の成果を手に入れることは
良いことであり・・・

そこに、
疑問を差し挟む余地などない状況で、
私たちは育ってきた。

効率を重視することが善であり、
非効率を放置することは悪なのだ。

それは・・・

考えるまでもない常識であり、
その常識を追求しつづけることによって・・・

私たちは、
世界に冠たる経済大国へと発展してきた。

だから・・・

私もその常識が間違っていたなどと言うつもりはない。

それは、正しい常識だったのだ。

今までの・・・世界においては。

だが・・・

世界は変わってしまった。


世界が変われば常識も変わる。


私たちも、変わらざるを得ない。

とは言っても・・・

効率の追求に、
ストップがかかるわけではない。

そこが・・・難しいところなのだ。

今、私たちの常識は急速に変化しつつある。

必要なことを、
必要なだけやっていても、未来はない。

そういう人材は、
いつまでも生き残ってはいけない。

それは、
何となく分かっている。

だが・・・

そうはいっても、
目の前の作業には常に効率化が求められる。

組織には、常に・・・

「言われたことを言われた通りに」

・・・こなす人間の存在が不可欠なのだ。


一人ひとりが、
自分の頭で考えて行動し始めたら・・・

組織は成り立たない。

・・・が、その反面・・・

言われたことを
言われた通りにやる人間ばかりでも、
組織は成り立たない。

その矛盾が、
表面化し・・・最大化し・・・
方向を見失っているのが現状なのだ。

だから・・・

組織は、
矛盾する指示を出さざるを得ない。

「言われた通りに実行しろ」という指示と・・・

「自分の頭で考えろ」という指示を。

その状況の中で・・・

私たちは、
どういう選択をするべきなのだろう。

効率と非効率のバランスを、
どうやって実現したらいいのだろう。


もしも・・・

言われたことを、
言われた通りに実行するという・・・

そういう、
生き方を選ぶのならば、
それはそれでいいと思う。

組織には、
そういう人間が必要なのだ。

ただし・・・その年収は下がり続けるだろう。

大企業に勤めていれば、
無条件に高い報酬が約束されるという時代は
もう続かない。

・・・というか、続けようがない。

効率化を追求していけば・・・

最終的には、
人件費に手を付けざるを得ないからだ。

指示通りに動く人材の給料は、
国際水準まで下がり続けるだろう。

これは、もう止めようがない。

その流れに乗りたくないのであれば・・・

『効率』という概念を超えるしかない。

非効率的な時間を、
自分の仕事の中に取り入れるのだ。

指示通りに動かない時間。

不必要なことにチャレンジする時間。

そして・・・

その不必要なことの中から、
新しい価値を生み出す時間だ。

全体の何割を、
その非効率な仕事に当てるのか。

そのバランスは、
上司には決められない。

残念ながら・・・

日本の組織には、
非効率を推奨する文化はないし・・・

現状に、そのような余裕はない。

だから・・・

自分自身で決めるしかないのだ。

効率と非効率のバランスを・・・\(^o^)/


GWスタート目前・・・昨日、一昨日と連続の赤羽詣でで、チョット眠たい夕方です(^^)ww

さて・・・

もしも・・・首相公選制が実現したら・・・

どういうことが起こるのでしょうか・・・

首相公選制に反対する人の意見で多いのは、
ただの人気投票になってしまう。

・・・というもの。

もしも・・・首相公選制が導入され、
ビートたけしが総理大臣に選ばれたらどうするのだ。

・・・という意見。

私は、べつにそれでも構わないと思うのです。

だって・・・

国民が、
もしもビートたけしを選ぶのだとしたら・・・

それは、
経済や外交よりも『笑い』を優先するということだから。

国民の意思が明確になっていいじゃないか、と思います。

でも・・・

きっと、国民はビートたけしを選ばない。

もしも・・・

そのような刺激的なチョイスが出来るくらいならば、
日本はもうとっくの昔に変わっている。

そう思うのです。

一人の人間に権力を集中させるのは、危険きわまりない。

それも、
確かに事実だと思います。

もしも、
アメリカの大統領が核攻撃をすると言ったら、
誰にも止めようが無い。

過去にも、
権力者によって様々な悲劇が繰り広げられています。

しかし・・・です。

組織には、
やっぱりリーダーが必要なのです。

しかも強いリーダー。

そして賢いリーダー。

問題は・・・

そのリーダーを
国民が直接選ぶのか・・・

あるいは、
国会議員が選ぶのか・・・ということです。

国民の手で直接選び、
議会に匹敵するだけの権限を持たせる。

それは、
とても危険なことでもあるのですが・・・

そうする以外には、
組織を機能させる方法がないと思います。

選挙に行かないのも・・・

政策や公約に興味を持たないのも・・・

結局は・・・

自分に関係ないと思っているからです。

それは、
無責任なのではなく、
無責任にならざるを得ない制度の問題なのです。

自分の選んだ議員が、
どんな公約を掲げていようとも・・・

その公約が、
実現する可能性などほとんどない。

その実現のために、
自分自身が出来ることも何も無い。

これでは、
やる気が失せるのも当たり前ではないでしょうか。

もしも・・・

この国で、
首相を選ぶ直接選挙が実施されたら・・・

その投票率は、
70%を間違いなく超えると思います。

選挙方法が改革されたら、
80%を超えるかもしれません。

投票率は上がりつづけるでしょう。

何しろ自分の一票が、
直接政策に跳ね返ってくるのですから。

A:原発に反対である

B:原発に賛成である

C:どちらとも言えない

この三人の誰に投票するのか。

その場合、
どういうことが起るのか。

誰に投票したところで、問題は起こるのです。

重要なのは・・・

その問題を、
自分が選んだ結果として自覚できるかどうか。

これは・・・

国民の自立心の問題ではなく、制度そのものの問題なのです。

国民が、
自分たちの手で選んだと言えるリーダー。

そういうリーダーだからこそ、
国民に厳しいことも言える。

そういうリーダーだからこそ、
外交でも胸を張って交渉できる。

国民の意思を代表しているリーダーを、
国際社会は無視できないのです。

しかし・・・

現実的に、
このような制度を実現することは困難です。

何しろ・・・

それは、
国会議員の地位の低下につながるわけですし・・・

その国会議員の三分の二が賛成しないことには、
法律は変わらないからです。

そこがまた・・・

この制度の矛盾点なのです。

・・・という訳で、GWを皆さん楽しみましょう(^^♪


熊本にまつわる映像を朝から否応なく目の当たりにして、
東日本震災の時のように胸がギュッとされるようです。
何か出来ることをしたいと思います。

さて・・・

できる人と、出来ない人。

その差はどこにあるのだろう。

もって生まれた能力なのか?

それともやっぱり努力なのか?

私は、もうかれこれ30年くらい、
この疑問について考え続けているのだが・・・

未だ明確な答えは出ない。

人には生まれもった才能というものがあり、
努力だけでは超えられない壁がある。

それは事実だろう。

どういうわけか・・・

全く同じ環境で育った兄弟にも、
生まれながら身に付いている性格や能力の違いがある。

他人であればなおのこと。

人は生まれた時から既に違うのだ。

出来ること・出来ないこと・・・

向いていること・向いていないこと・・・

好きなこと・嫌いなこと。

当たり前の話なのだが、人間には適正や個性がある。

ただ・・・

私たち日本人は昔から「文武両道」バランスよく
何でも出来ることを良しとする傾向がある。

たとえば・・・オリンピックの体操競技。

床なら床、鉄棒なら鉄棒のスペシャリストを目指す。

・・・というのが中国などの戦略。

それぞれのスペシャリストが
世界一の技術を身につけたなら・・・

個人競技の数だけ金メダルが取れる。

そして・・・

その組み合わせである団体戦でも金メダルが取れる。

取れないのは個人総合だけ。

個人総合は、
全ての競技におけるバランスが求められる。

どの競技にも苦手が作れないし、
どの競技もかなりのレベルで演技できなくてはならない。

個人総合チャンピオンは確かにかっこいい。

だが・・・

そういう選手を組み合わせても、団体戦は勝つことが出来ない。


人間には生まれもった適正や才能がある。

これは動かしようのない事実だろう。

だが、そうはいっても
努力なしに才能を開花させることは出来ない。

確かに・・・

小学生くらいまでなら、
もって生まれた足の速さや、もって生まれた頭の良さで、
学年トップを取ることくらいは可能だろう。

だが・・・

そのままでは、
いずれ努力する人には勝てなくなる。

最後まで勝ち残るのは、
才能+努力の両方を兼ね備えた人だ。

これは間違いない。

では・・・

才能のない人は、
努力するだけ無駄なのだろうか。

所詮は才能を持った努力家には、勝てないのだろうか。

私の答えはこうだ。

努力だけでは、
才能を持った努力家には勝てない。

スペシャリストとしては。

だが、総合チャンピオンにはなれると思う。

つまりは、
勝ち方に違いがあるということだ。

スペシャリストとしてのチャンピオンを目指すのか・・・

それとも、
ゼネラリストとしてのチャンピオンを目指すのか。

まずは、
そこを決める必要がある。

ただし・・・

ゼネラリストといっても
あらゆることが出来るという意味ではない。

内村選手は、
体操では何でも出来るゼネラリストだが・・・

かといって、
絵画や音楽や勉強に至るまで、
何でも出来るというわけではない。

デキスギくんはマンガの中のお話なのだ。

人間には、生まれもった違いがある。

スポーツに向いている人や・・・

音楽に向いている人・・・

勉強に向いている人。

いろいろな違いがある。

だが、大きく分けるとしたら・・・

スペシャリストタイプと、
ゼネラリストタイプに
分かれるのではないだろうか。

もちろん・・・

どんなタイプだろうと、
努力しなければ自分の能力を開花させることは出来ない。

ここは平等だと思う。

だが、同じように努力した結果、
人は二種類のタイプに分かれていくのだと思う。

一方はスペシャリスト。

もう一方はゼネラリスト。

どちらも、
その合計点は変わらない。

変わるのは、配点のバランスだ。

スペシャリストは
強い部分と弱い部分の差がはっきりと現れるタイプ。

そして、
ゼネラリストは
強みと弱みの差がそんなに極端には出ないタイプ。

形に例えるならば、
ゼネラリストはきれいな丸に近く、
スペシャリストは尖った三角形。

形は違うが面積は同じ。

つまりはタイプが違うのだ。

スポーツやアートの世界では、
スペシャリストが活躍しやすいが・・・

ビジネスの世界では敬遠されやすい。

それは・・・

決定的な弱点をもっているからだ。

たとえば・・・

お客さんとコミュニケーションできないとか・・・

社内で浮いてしまうとか。

だが、
そういうタイプも使いようなのだと思う。

弱点を克服させるのではなく、
強みをとことん発揮させる。

弱点は、
他のスペシャリストとの組み合わせでカバーすればいい。

ゼネラリストとスペシャリスト。

どの分野においても、
その両方が必要なのだと思う。

要は・・・それぞれの生かし方なのだ。