ベースボールバイブルの東です。
昨日、U18日本代表のコーチングスタッフが発表されたようです。
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U18日本代表監督に小枝氏を選出(デイリースポーツ)
日本高野連は27日、大阪市内で理事会を開き、今夏の「U-18アジア選手権」で高校日本代表を率いる監督に、元拓大紅陵監督の小枝守氏(64)を選出した。ヘッドコーチに元中京大中京監督の大藤敏行氏(54)、コーチには関東第一・米沢貴光監督(41)、敦賀気比・東哲平監督(36)が就任する。
一度は野球を捨てた野球人がいろんな人に助けられて日本代表のコーチになる。
彼の人生を近くで見てきた人間としては感慨深いものがありますね。
まあ、高校野球の監督っていうのは本当にホントにほんと~~~に大変な仕事だと思いますが、弟にはこれからも情熱と愛情を持って選手を育成して欲しいなと思います。
さて、話は変わって…
広島の新井選手が2000本安打を達成されました。
こういう選手がプロの世界で2000本もヒットを打ったというのは非常に大きなことだと思います。
というのも…
プロ野球選手になる前の新井選手を知っていた人はどれぐらいいるでしょうか?
僕は新井選手と歳が近いんですが…
正直言って全く知りませんでした。
だいたい、歳が近いプロ注なら名前ぐらいは聞いたことがあるものです。
でも、
本当に全く知りませんでしたし、1つ上で敦賀気比高校から駒澤大学に進学された先輩も2人いましたが、その先輩からも新井選手の話は聞いたことがありません。
そもそも大学時代の実績も輝かしいものではなかったと思います。
そんな選手がプロ野球選手になれた理由が最近、記事になっているんですよね。
まず、当時の駒澤大学の監督であった太田監督に「契約金ゼロでいいから、どうしてもプロに行きたいです」と訴えたそうです。
※【広島】駒大・太田誠元監督、新井は「センスはなかった」
これで分かるようにプロ側が欲した選手ではなかったということです。
それを聞いて太田監督は駒大OBの大下氏に相談して、当時の担当スカウトであった渡辺秀武スカウト(故人)に話をまとめてもらったそうです。
※駒大恩師・太田氏、新井2000安打に「びっくりポンだ」
で、新井選手本人はプロ入り前に野村謙二郎氏の自宅まで行ってスイングを見てもらったそうです。
その結果、コネ入団が実現したんですね。
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広島・新井 コネ入団から努力の2000本(THE PAGE)
1998年のドラフト6位入団。6位以降の選手の名球界入りは、7位の福本豊氏以来、2人目である。
実は、コネ入団だった。
駒大時代に、日米野球で活躍、東都で打点王、ベストナインを獲得したが、どの球団の獲得リストにも新井の名前はなかった。それでもプロを夢見る新井の思いを知る知人が松田オーナーに直談判し、新井自身も、駒大の先輩である野村謙二郎氏の自宅を訪れ、バットスイングを見てもらい“推薦”を願った。
チームには、ヘッドコーチとして、もう一人の駒大の大物先輩である大下剛史氏が就任していたため、大下氏にもすがり、あらゆる方面から最終決定権を持つ松田オーナーへの推挙を受けたが、オーナーが現場のスカウトの意見を聞いたところ、「身体が強く、バッティングは当たれば面白いが、肩がまるっきり弱くてプロでは守るところがありません」という評価だったという。それでも松田オーナーは、地元広島出身で選手でもあり、大下氏、野村氏の意見と「当たれば面白い」の長所だけを信じて駄目元で新井獲得の号令を出した。
実は、コネ入団だった。
駒大時代に、日米野球で活躍、東都で打点王、ベストナインを獲得したが、どの球団の獲得リストにも新井の名前はなかった。それでもプロを夢見る新井の思いを知る知人が松田オーナーに直談判し、新井自身も、駒大の先輩である野村謙二郎氏の自宅を訪れ、バットスイングを見てもらい“推薦”を願った。
チームには、ヘッドコーチとして、もう一人の駒大の大物先輩である大下剛史氏が就任していたため、大下氏にもすがり、あらゆる方面から最終決定権を持つ松田オーナーへの推挙を受けたが、オーナーが現場のスカウトの意見を聞いたところ、「身体が強く、バッティングは当たれば面白いが、肩がまるっきり弱くてプロでは守るところがありません」という評価だったという。それでも松田オーナーは、地元広島出身で選手でもあり、大下氏、野村氏の意見と「当たれば面白い」の長所だけを信じて駄目元で新井獲得の号令を出した。
スカウトの方たちの意見があまりにも辛辣ですよね^^;
「身体が強く、バッティングは当たれば面白いが、肩がまるっきり弱くてプロでは守るところがありません」
って…
まあ、それでも何とかプロには入れたわけです。
が、
入った後も大変だったようです。
キャンプでは大卒で即戦力のはずが、まるっきりバットにボールが当たらない。
「マイナスからのスタートでした」と新井は言う。
当時の監督だった達川光男氏は「5年でいなくなるだろう」という印象を持った。
※広島・新井 コネ入団から努力の2000本(THE PAGE)
「マイナスからのスタートでした」と新井は言う。
当時の監督だった達川光男氏は「5年でいなくなるだろう」という印象を持った。
※広島・新井 コネ入団から努力の2000本(THE PAGE)
初めて出会ったのは駒沢大の1年生のときだが、守備はヘタだし、足も速くない。取りえといえば、少し力があって大きな声を出すことだけ。
※大下剛史氏「西田打撃コーチとの出会いがなければ今日の新井はなかった」
※大下剛史氏「西田打撃コーチとの出会いがなければ今日の新井はなかった」
――新井貴浩選手が駒沢大からドラフト6位で広島に入団したのが1999年。西山さんはプロ14年目でしたが、当時の新井選手に対する印象は覚えていますか?
覚えてますよ。最初はほんまに「よくこんなんがプロ入って来れたなぁ」って思ったよ。当時ヘッドコーチだった大下(剛史)さんとか、野村(謙二郎)さんが大学の先輩やったし、コネもええとこやなぁって(笑)。確かに体はゴツかったし、力も強かった。でも、まったくバットに当たらんかったからね。本人がカープに行きたいって熱望してたみたいやし、「やっぱりコネやな」って。金本(知憲)ともよく「コネっていうもんは大事やな」、「噂では契約金を逆に球団に払ったらしい」、「人脈は金なり」なんて冗談を、一緒に言ってましたよ(笑)。
※西山秀二氏が語る“新井貴浩”という男「プロ入り後に誰よりも成長した」
覚えてますよ。最初はほんまに「よくこんなんがプロ入って来れたなぁ」って思ったよ。当時ヘッドコーチだった大下(剛史)さんとか、野村(謙二郎)さんが大学の先輩やったし、コネもええとこやなぁって(笑)。確かに体はゴツかったし、力も強かった。でも、まったくバットに当たらんかったからね。本人がカープに行きたいって熱望してたみたいやし、「やっぱりコネやな」って。金本(知憲)ともよく「コネっていうもんは大事やな」、「噂では契約金を逆に球団に払ったらしい」、「人脈は金なり」なんて冗談を、一緒に言ってましたよ(笑)。
※西山秀二氏が語る“新井貴浩”という男「プロ入り後に誰よりも成長した」
まあ、要するに…
誰も新井選手がプロで活躍するなんて思わなかったわけですよ。
でもね、
新井選手には大きな武器があったんですね。
それが思いと体です。
絶対にプロ野球選手になりたいという思い。
で、
その思いを実現させてくれた多くの方々を裏切るわけにはいかないという思い。
その思いが猛練習につながったのではないでしょうか。
そして、彼にはその猛練習に耐えられる体があった。
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【新井独占手記】不器用で下手クソだった自分がよくぞここまで(スポニチアネックス)
勝ち試合で達成できて本当にうれしい。不器用で下手クソだった、あの新井がよくぞここまで…。自分のことだけど、入団当時を思い起こすと純粋にそう思う。感謝の気持ちしかない。丈夫な体に生んでくれた両親、鍛え育ててもらった歴代監督やコーチの方々、そして広島東洋カープ。周りの支えがあったからこそ達成できた記録だ。
思えば無我夢中で走ってきた。130キロの球がとてつもなく速く感じ、プロでやっていくのは無理だと思った18年前。朝から晩まで練習した。いや、させられた。必死に一日を乗り切れば、しんどい明日がまたやって来る。その繰り返し。余計なことを考える体力すらない。3年目まではずっとそんな日々だった。
今でも思い出す。早朝6時に起床し、山口県の由宇で2軍戦に出場。先に抜けて旧広島市民球場に戻り、試合前の練習を終えると、ビジターチームの練習中にも片隅でゴロ捕球を課せられた。真夏の猛暑日。ナイターにもスタメン出場し、ぶっ倒れる…と感じたことは一度や二度じゃない。
でも、歯を食いしばって立ち向かっていった。自分で言うのは生意気だが、怒鳴られても殴られても、どんなに過酷な練習を課されても、気力を奮い立たせて必死にやり通した。なぜ厳しい環境から逃げなかったのか。よく聞かれるが、本能としか言いようがない。
父・浩吉と母・美智子は厳しかった。理不尽に怒られた記憶はないが、これをやれ…と言われたら、必ずやらなければならない。反抗したことはあっても、僕には反抗期と言えるものがなかったと思う。それだけ両親は怖く、絶対的な存在だった。ふてくされず、下を向かず、命じられたことは最後までやり通す。そうした教えや習慣が、厳しい練習に立ち向かえた原点かもしれない。
思えば無我夢中で走ってきた。130キロの球がとてつもなく速く感じ、プロでやっていくのは無理だと思った18年前。朝から晩まで練習した。いや、させられた。必死に一日を乗り切れば、しんどい明日がまたやって来る。その繰り返し。余計なことを考える体力すらない。3年目まではずっとそんな日々だった。
今でも思い出す。早朝6時に起床し、山口県の由宇で2軍戦に出場。先に抜けて旧広島市民球場に戻り、試合前の練習を終えると、ビジターチームの練習中にも片隅でゴロ捕球を課せられた。真夏の猛暑日。ナイターにもスタメン出場し、ぶっ倒れる…と感じたことは一度や二度じゃない。
でも、歯を食いしばって立ち向かっていった。自分で言うのは生意気だが、怒鳴られても殴られても、どんなに過酷な練習を課されても、気力を奮い立たせて必死にやり通した。なぜ厳しい環境から逃げなかったのか。よく聞かれるが、本能としか言いようがない。
父・浩吉と母・美智子は厳しかった。理不尽に怒られた記憶はないが、これをやれ…と言われたら、必ずやらなければならない。反抗したことはあっても、僕には反抗期と言えるものがなかったと思う。それだけ両親は怖く、絶対的な存在だった。ふてくされず、下を向かず、命じられたことは最後までやり通す。そうした教えや習慣が、厳しい練習に立ち向かえた原点かもしれない。
これを読んで分かるように…
新井選手はセンス抜群で黙っててもチャンスが与えらえる。
そういう立場ではなかったわけですね。
そんな選手がプロで2000本。
夢がありますよね。
別にヘタクソでもいいんですよね。
ただ必死にやってみるということです。
今、この日本に野球を必死にやっている選手はどれぐらいいるでしょうか?
上手い選手は日本中にもたくさんいます。
ただ、
本当に必死にやっている選手はそんなにいません。
そこにチャンスがあるって気付いて欲しいですね。
新井選手には野球選手として一般的に言われる技術的なセンスはなかったのかもしれません。でも、野球選手として生きていくセンスは人一倍あったんだろうなと思います。
まあ、どんな生き方を選択するかは選手の自由です。
でも、こういう生き方もあるという素晴らしい見本だと思いますので、ぜひ新井選手の生き方を参考にして欲しいなと思います。
では、また。
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