法学部生が司法試験合格までの足跡を残す

法学部生が司法試験合格までの足跡を残す

法律問題についての私見、及びその検討、私事について記事を書くつもりです。不定期更新です。
※内容は誤りのないよう精査してますが、誤植や、内容に重大なミスがあることがあります。
それ故、それを信じて、何か不利益や損害を被られたとしても責任を負いかねます。

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前回に引き続き、法律論文の論述の方法を紹介したい。
前回、①と、④については説明を加え、そして②についてもある程度説明を加えたので、②の説明の補完と、そしてそれ以外についての説明をする。

まず、②法的三段論法を用いている、ということだが、そもそも法的三段論法とは何ぞや、と思われる方が大半であろうと思う。
これは、論理の流れを三段階に分けて論ずるというもので、抽象的な段階として
(0問題提起…司法試験論述には必要となることがある)
ⅰ規範定立
ⅱあてはめ
ⅲ結論

があり、これらの流れに沿って論ずる論法である。

例えば、民法94条2項類推という事例において、

規範定立の段階においては、94条2項は、所謂権利外観法理の表れであって、自らが虚偽の外観を作出したときにおいては、それによって、自己の権利を主張できなくなったとしても仕方がない、という規範であることをいい、

ⅱ本件においては~という事情があり、それゆえ、虚偽外観作出者には、その権利を主張することが出来なくなっても仕方がないと思えるような帰責事由が認められる、という、具体的事実について、規範をあてはめ

ⅲそれゆえ、虚偽外観作出者は、その権利を主張することが出来ない、と結論付ける。

司法試験の法律論文に限らず、実務家においても、このような論述は為されており、基本的なものであるので是非とも覚えておいていただきたい。

また、司法試験の論述においては、規範定立以前に、何がこの問題では争点となっているかにつき、問題提起という段階を踏む必要が出てくる。
予め、争点の洗い出しをすることは、その後の論述を進めていくうえでの助けとなるので、積極的に書くべきことである。

続いて、③きちんとした接続詞を用いる、ということであるが、これは司法試験の採点者の講評において、しばしば指摘しているのを見受けられる。
具体的には、「そうなってくると」など、「どうなってくるの?」というような疑問が生まれるような接続詞(もはや接続詞と言えるか疑問である)については、文章のつながりが分からなくなってしまい、全体として論理的一体性を失った文章になってしまうことがあるので、あまり用いない方がよい。
接続詞は、英語で言うところの and,or,butなど、基本的なものを主とするべきで、疑問の余地を挟みかねない接続詞は多用すべきではないだろう。


そして、⑤ナンバリングを心掛ける、ということであるが、普段何か文章を書くときには、ナンバリングということを行うことはあまりないのではなかろうか。
端的に言えば、段落分けをし、段落ごとに番号を振るというものであるが、それだけでは説明しつかない。

例えば、Aという事実があるが、そのA事実の内容として、ⅠⅡⅢがあるとする。
これに対して、Aという事実を否定するBという事実があり、そのB事実の内容として、ⅣⅤⅥがあるとする。
そして、結論において、A事実を採用する場合に、以下のようなナンバリングが可能となる。

1、本件事案において、Aという事実がある。
 ①これは、Ⅰという内容によって成り立つものである。
 ②そして、Ⅱという内容によってその事実が証明されている。
 ③また、Ⅲという内容がある故に、A事実は、正当な論拠に基づく。
2、これに対して、Bという事実がある。
 ①そのB事実の内容として、Ⅳがある。
 ②・・・・(略)
 ③・・・・(略)
3、本件においては、~という事情があり、よってA事実を採用することが妥当である。

などのように、1,2,3という数字に加え、それらの説明、詳細につき、更に①②③というようにナンバリングを行っている。
こうすることで、論述が、どのような論理のまとまりになっているのか分かりやすくなり、ただ、だらだら文章を書き連ねていくよりも見やすくなる。
それゆえ、採点者からの評価もよい。

この番号については、特に決まりなどはない。
裁判所の判決理由においては、第1部 〇〇 のようにテーマがつけられていたりする。
基本的に、大きな段落のまとまりは、アラビア数字の1,2・・・がつけられることが多く、
その下には、例とは違うが、(1)(2)…などのように分けられることが多い。
それでもナンバリングが足りない場合は、(ア)(イ)などが用いられている。

基本的に、数字的、文字列的つながりが明らかであって、それにしたがって文章が分かれていることが採点者の目から見て明らかであれば、これら例示にあげたもの以外でも使用してよいと思われる(例えば、ローマ数字ⅠⅡなど)。


以上で、法律論文の書き方についてのまとめを終えたい。
法律論文の神髄は、堅苦しい言葉を書き連ねることではなく、できるだけ平易に、なおかつ内容の正確性を損なわず、そして、論理の繋がりがはっきりしており、それが破綻せず、採点者の目から見て理解できるものを書くことであると考える。
法律は、堅苦しいものととらえられがちだが、確かに条文においては、あえて堅苦しく書かれている面も否定できない。
それは、あえて堅苦しい言葉を用いることで、できるだけ解釈の幅を狭めようとしているからとも考えられる。
もちろん、内容に抽象的、あるいは具体的といった差異があるのは確かであるが、解釈の幅を狭めるには、堅苦しい言葉、すなわち、他に解釈することが難しい言葉を用いなければならないという側面もあることを前提として考えておいてもらいたい。

皆さんは自動車の教習所で学科の講義を受けたことがあるだろうか。
学科の教習本は、持っている方なら分かるが、基本的に全編を通して道路交通法に準拠しており、その書かれている内容も、条文を丁寧語に直されているだけのことが多い。
しかし、それだけでも、道路交通法の条文をそのまま読むより、書き下された、教習本を読むほうが理解しやすいだろう。
それは、書き下されたものは、丁寧語であり、また、イラスト付きで説明されていたり、そして、ナンバリングで説明されているからであろう。

我々が目指すべき論述の体系は、教習本である、といっても、あながち間違いではなかろう(もちろん法的三段論法などは織り込まなければならないし、丁寧語を使う必要もないが)。
表題の通り、今日は法律論文、とりわけ司法試験の論述の書き方について、自分でも確認するために記事を起こす。

よく言われることは
①論理破綻、論理矛盾を起こしていない
②法的三段論法を用いている
③きちんとした接続詞を用いる
④相手に読める字で記述する
⑤ナンバリングを心掛ける
そして、民法については
⑤要件事実と法律効果をきちんと書く

等々、あげられる。
このうち④については、これは毎年、司法試験の採点後の採点者の感想で述べられることだが、どうしても問題を解く際に、時間的な制約があるため、急いで書こうとしてしまう。
そして、司法試験の論述は、実際に論述を始めるまでに、争点の洗い出しや、どのように記述を行っていくかを予め考えなければならず、それに大体30分程度かかると言われている。
そうなると、残り時間で記述を行わなければならないが、選択科目以外では2時間なので、残り1時間30分で記述を終えなければならない。
1時間30分、というと、結構長く感じられるかもしれないが、実際に書いてみると、時間ぎりぎりになってしまうことが多々ある。
それゆえ、どうしても早く書く必要がある。しかし、そうすると、文字が崩れてしまって読めなくなってしまったり、種々の弊害が顕在するようになってしまう。
早く書くこと、そして丁寧に書くこと
この2つは両立しえないことのように思えるが、実際に司法試験合格者は、それを前提として両立しているからこそ合格しているのであって、我々にも不可能なことではない。
では、どのように両立させるのか。
Ⅰまず、実際に試験問題に当たって、争点を洗い出す作業の時間を出来るだけ早くすること。
先ほど述べたように、大体この作業は30分程度かかると言われている。
そのため、10分でも15分でも、この時間を短縮して、論述に回せることが出来たら、幾分楽になる。
Ⅱそして、出来る限り簡略化した文章を目指すこと。
簡略化、というと語弊があるかもしれないが、論述にあたって、肝要な部分だけを書くことを心掛けることを言う。
何が肝要か、そうでないか、ということは問題によっても異なるが、論述の根幹となる法的三段論法を基礎として、それに肉付けしていく感じで論述すると、大体スッキリまとまるのではなかろうか。
そうすれば、論述する量が少なくなるだけ、時間的余裕が増える。法的三段論法については後述。

さて、それぞれ項目に付き検討を行いたい。
①について
論理破綻、論理矛盾は、採点において大きな減点対象となる。
例えば、民法における即時取得(192条)において、その要件の一つとして前主が無権限者であることが要求されている。
無権限者でなければ、そもそもその物に対して、処分権限を有しており、有効な取引行為となるため、即時取得が問題となるまでもないからだ。
このことを前提とせず、即時取得の要件たる「取引行為」という条文の文言のみに目が行き、取引行為があれば全て即時取得が成立する、と考えてしまった場合、結果が破綻してしまう。
例えば、CがDに対し、売買契約を結び、甲動産を売買する旨約したが、その引渡しを終える前に、もっぱらDを害する意図をもって、甲動産がDに対して引渡される前に、背信的悪意者Bと甲につき売買契約を結び引渡しを終え、背信的悪意者Bから甲動産を譲り受けたAは、その甲の所有を主張するのに、即時取得を主張した場合などだ。
<背信的悪意者について詳述していないが、要するに、その物(今回の例で言えば、甲)の所有権につき、主張する権限の無い者のことを言い、単なる先行行為(CD間の売買契約)の悪意(その契約があったことを知っていること)だけではなく、もっぱらDを害する意図を持ってその契約(BC間)を結んだことにつき、信義則違反とされる者のことである。>

このような場合において、確かに背信的悪意者Bは、動産の対抗要件である引渡しを終えているため、動産の権限を取得できるかのように思える。
しかし、先にも述べたとおり、このBは背信的悪意者で、たとえ動産について引渡しを終えていても、他の者(例えば、上の例で言えば、D)が、その動産甲につき権利主張した場合、通常であれば、引渡しが対抗要件となり、Dの主張を打ち破ることができるが、Bは背信的悪意者ゆえ、その対抗要件を主張できず、もしDが甲につき権利主張してきた場合、Dの主張を打ち破ることはできない。
よって、上記例でいえば、BはDに対し、甲について権利を主張できないという帰結に至る。
しかし、この背信的悪意者というのは、あくまで対抗要件を主張できないだけであって、所有権が無い、というわけではない。
これが何を意味するかというと、Bは、Dのような、甲の所有権を主張するにつき、正当な権限を有しているものが他にいなければ、その物を所有し続けることができる、ということである。
よって、Bは、甲に対する対抗要件を具備できないが、その物を所有している、という帰結が得られる。
それゆえ、Bは、無権限者ではないのだ。
よって、上記例において、Bが無権限者ではないから、Cは即時取得を主張できないということになる。

結局、何が言いたかったのか。
上記例で、即時取得を主張できないにもかかわらず、上記の論述のような手続きを踏まず、条文における「取引行為」という文字だけに目がくらみ、そのまま解釈して、即時取得を主張できる、というように解し、それを前提として論述を続けた場合、重大な論理破綻に当たると考えられる(解釈の違いともとらえられるかもしれないが)。

今回長々と、論理破綻についての一例を民法の事例問題を用いて述べたが、もっと簡潔に表すとこうなる。
例えば、
英雄は赤色を好む。
私は赤色を好む。
ゆえに、私は英雄である。

というような文章があったとする。この文章ははたして、論理的な整合性を保っていると言えるのであろうか。法的三段論法でも、よくこのような事例が取り上げられる。
検討していこう。
英雄は赤色を好む、というのは、すべての英雄についてあてはまることである。
つまり、赤色を好むことが英雄となる「前提」条件であるわけだ。
しかし、赤色を好むというのは、英雄の一要件であって、それを充足するだけでは英雄と成り得ない。
よって、私が赤色を好んだとしても、私は英雄とは成り得ない。
つまり、私が赤色で摘示した文章は、論理破綻を起こしていると言える。

これに対し、
赤色を好むものは英雄である。
私は赤色を好む。
ゆえに、私は英雄である。
これは成り立つであろうか。
この場合、赤色を好めば、全て英雄であるのだから、私が赤色を好む以上、私は英雄であるといえるだろう。よって、論理破綻は生じていない。

このように、論理のつながりというのは、法律論文に限らず、日常生活においても大切なものである。
常日頃から、このような論理のつながりを意識して論述、あるいは発言をすることこそ、この訓練になりうるから、積極的に行うべきである。

今回は長くなってしまったので、最上部①と、④についてのみの記事とする。
ここまで見てくださった方、途中長く、理解しにくい民法事例を取り上げてしまったものの、裁可部までお付き合いいただき、有難うございました。
今後、このような事例問題についての記事も織り交ぜていけたらと思うので、興味がある方はどうぞご覧ください。
今回は民法について、短く、簡潔にその概要をご紹介したい。

民法とは何ぞや、ということであるが、民法は基本的に私人、すなわち我々のような一般市民間の関係を規律する法であるといえる。

民法は大きく分けて、
総則、物権、債権、家族法に分けられる。
総則というのは、他の物権、債権、家族法にも当てはまるごく基本的かつ重要な事柄をリストアップしたものである。
例えば、公序良俗(民法90条)の規定は物権、債権、親族法のどの分野でも当てはまる。

このように、総則を置いて、その後個別規定を置くような形式をパンデクテン方式と言う。

また、物権とは、人と物の間をとりもつ法で、債権は人と人を取り持つ法である。
物権について、たとえば、我々が持っている物は、原則として自己の判断で、使用し、そしてそれを利用して収入を得たり(収益)、そして転売をする(処分)こともできる(民法206条)。
債権は、例えば、我々がAというものを100円で甲から購入するとき、我々は甲に100円を支払うことを負う(債務)代わりに、Aについて甲より引渡しを受ける権利(債権)を有する。この場合、我々も甲も、債権者・債務者となりうるが、もし、Aの購入について、甲が引渡しを拒んだらどうするのか、などについて、債権法の部分で取り扱っている。

この債権法の分野は、契約法についても包含しているが、この契約法に規定している方式のみでしか契約をすることはできない、ということはない。
民法において、原則として、自らのことは自らで律することを基本とするので、契約も、自らその内容に同意して、相手もそれに同意した場合、契約は成立すると考えてよい。
極端な話、時価総額100円の品を100万円で購入する契約についても、双方当事者の合意があれば基本的に成立する(第三者がいた場合などはまた別の話になる)。

このように、原則として、民法においては、個人間の意思に基づく同意があれば、それは有効とすることを、「私的自治の原則」という。
当然、これは原則論であるので、個別規定によって修正を受けることもある。
例えば、XはAという物を購入したが、実は売主甲に騙されていて、Aの贋作であった、という場合などが考えられる。
このような場合、たとえ売買当時、Aというものを購入する意思があったとしても、Aの贋作を購入する意思は決してないわけであるから、Xを保護する必要がある。そこで、民法96条において、このような取引を、詐欺として、取消うるとしている。


家族法分野においては、我々の親族関係だとか、相続であるとかについての規定をしている。
特に、相続については、親族間でもめ事となることが多い。
そこで、法律で特に画一的判断ができるようにしているのだ。
もっとも、法律に基づいた解決が、必ずしもわだかまりを生むことは無い、とは到底言いきれない。
しかし、少なくとも財産に関する解決方法について提示していることは間違いない。
この点、親族法のメリットであろう。

以上、民法のおおざっぱで、簡単なあらましをご紹介したが、近年、債権法の改正作業が国の委員会で進められている。
中間試案等ネットにもあるので、興味ある方はそちらもご覧あれ。
今後当記事でも紹介するかもしれない。