統一教会史
上巻

世界基督教統一神霊協会 編

目次

序文
前編 史前史
1  文鮮明先生の誕生
2  先生の幼少時代
3  天の召命
4  ソウルに留学 - 信仰の深化
5  日本留学 - 経験の拡大
6  帰郷 - 日警の拷問
7  韓国解放 - 伝道開始
8  平壌におけるみ言伝播
9  共産治下における最初の受難
10 獄中の獄 - 興南監獄生活
11 釈放された後、自由南下
12 避難の首都釜山での再出発
13 ボンネッコル小屋時代
14 新しい歴史の胎動


統一教会史<上巻>

序文

 この本は今はまだその一部分であるが、教会史としてこの世に出す最初のものであるという点において、深い意味を持っていると言える。
 また本教会と、創始者であられる文鮮明先生とが、世界的な関心と期待と研究の対象として、大きく注目されるようになっている今日、本書の持つ意味はより深いものとなった。
 この種の本の著述はふつう困難であるが、必要とする者の声との、相反した立場の故に、やむをえず三部にわけて出版することにした。
 この第一巻は、文字通りその最初のものであり、一九四五年五月一日本教会が創立される直前までの史実のみが収録されている。一般の国体とか機関には、この部分はないが、本書は小さいけれども一冊の本としての体裁を整えているということは、それほど、創立の前段階の過程が重要であったとみてさしつかえないであろう。
 一人の赤子がこの世に生まれるということは、ごく平凡な事実であるが、その子が世に姿を現わすまでに、どのような摂理と、神秘的な生命の胎動と、困難では注意深い準備の時代があるだろうか。誰人もそれを否定できないだろう。そのような見地からもわかるように、統一教会史の中でわずかに史前史に該当するにすぎないこの第一冊ではあるが、事実は非常に重要な意味と価値を持っているのである。それは、統一教会の歴史とは即ち、文鮮明先生の歩まれた道であるが、この史前史こそ、今日の統一教会をあらしめた根拠であり、基盤であり、準備過程であるためである。すなわち、文鮮明先生が如何に誕生され、如何なる動機で、どのような喜怒哀楽の準備的体験を経て、今日我々が見る統一教会が生まれたかということが、この書の内容である。
 しかし、資料不足と考証の難しさから表現し尽くせなかったところがあるかもしれないが、誤った動作や誇張は含まれていない。少なくとも、知っておきながら誤ちをおこしたり、故意に事実を捏造したことはないことを明言する。
 これから出版される第二巻には、協会創立以後一九六〇年代末まで、即ち、「韓国本部を中心とした宣教時代」を入れる予定であり、第三巻には一九七〇年以後の「世界の統一教会」を記述し、収録する計画である。この本が、まだ完全なものではなく、たとえ臨時に文鮮明先生の幼少、青年時代を記録したものであるとしても、その一つ一つを直接先生に問い確証を得ることができなかった関係上、記述上不正確な部分、不足な部分が多いことを思うと、まず先生の前に申し訳なさを禁じざるを得ない。
 一九七八年十月四日
  
  世界基督教統一神霊協会 教会長 金 栄 輝



  前編  史 前 史

   1 文鮮明先生の誕生

 世界基督教統一神霊協会の創始者であられる文鮮明先生は、一九二〇年陰暦一月六日に平安北道定州郡徳面彦面上思里2221番地で、父文慶裕氏の次男として誕生された。
 先生のお生まれになった上思里は、海から約20里(約7キロ)離れた農村で、一般に生活基準も高く、村民同士の間柄も親密だった。その部落は20戸未満の小村で大部分は文氏姓だったので通称「文村」と呼ばれていた。
 文家は祖父の代までは相当裕福であったが、祖父の三兄弟のうち、末の弟が基督教の牧師となり、その一生抗日運動のため捧げたあげく、財産のほとんどをその運動資金として使ってしまった。そのため、先生が成長される頃には、どうにか家計を維持できる程度のものとなっていた。しかし、父祖代々文家は常に人情が深いと噂になっていて、いつも見知らぬ客が身を寄せていた。
 一方、先生が十五歳の時、二番目の姉と兄(龍壽)の重い病気が治ったのをきっかけに、家族全員が長老教系基督教の信者になった。
 先生の家系と家族状況を調べてみると、曾祖父に善玉という方がおられたが、この方が三人の息子を持ち、その長男が先生の祖父の致国氏であった。この祖父にはやはり三人の息子がいて、その長男が先生の父の慶裕氏であった。
 祖父の致国氏は特に、人の背後を見る洞察力を持っておられ、二番目の孫であられる少年時代の先生を指して「彼は将来大きな人物になるだろうから、何でも彼が願う通りに積極的に助けてあげるようにしなさい。」と家族に言われたのであった。
 先生の両親は、ただひとえに人のよい方で、人情の深いことで有名になる程であり、その温情を受けた人は数多い。それは望む人には与え、奪う者には奪わせておく、といった人たちであった。
 上に姉が二人、その下にたった一人の兄龍壽氏がおられた。この兄がやはり弟を貴重に思い、弟の願うことは何でも躊躇せず助けて聞いてあげた。この兄と先生との間に、もう一人の姉がおり、先生の下に妹が三人続いていた。
 このように、貴い方として生まれた先生には、その誕生の尊厳性を裏付けするように神秘的な話が伝えられている。
 すなわち、先生が誕生される3年前から続けて3年間に亘り、先生の家の周囲にあるネズの木に、金鳥が飛んできては啼くという奇跡があった。この金鳥の出現は、喜ばしいことがある兆候であるが、先生が生まれた後は、このめでたい鳥は再び現われなかったという。
 この先生の家族や同志は、今は皆北韓に残され、自由世界には先生一人が出てきておられるだけである。

  <文鮮明先生の姿>
 先生は、生まれつき全てに通じ何でもご存知であったというわけではなく、歴史上の全ての人々とそう変わりはなかった。ただ幾分その天賦の資質が人と異なっていただけである。
 ここで、先生の性格と容貌をおおまかに描いてみよう。
まず、体格ががっしりしていて、体力があり、小さい時から老境に至るまで、どこに行っても常に他にぬきんでていた。
 その顔は、比較的大きい方でありながら、形に少しも無駄なところがなく、明るく広がった額と小さな目、その上に高く筋が通った鼻が特徴的である。顔全体の様子を一言で表現するなら、確実な人格を表わしており、又完全な調和をなしているといえる。
 腕に較べると手は小さくきれいな方であるが、驚くほど敏捷で強い力を持っており、又脚の長さに較べて足が小さく、調和がとれているが、やはりまれにみるほど敏捷で力が強いのである。
 先生の歩き方は悠然としていて、非常にゆったりと歩いているようさえ見えるが、実はその速度は非常に速く、普通の人では追随を許さなかったほどである。
 表情は常に温和でまるで春風のようでありながら、その上に驚くべき剛気が入ってあり、威厳が漂っている。
 動作は自然で、自由な様でありながら、明朗、闊達、その上言うまでもなく豪放であり、その中には常に真実味や真摯性、鋭い洞察力、それにあふれる自信と権威があり、周囲を圧倒させる偉大な力を漂わせていることを感じさせる。
 しかしながら、以上のような先生の様相のいかなるものよりも更に代表的な特徴は、やはり持って生まれた天性とそれによるところの能力であろう。それらをいくつか要約してみる。
 第一に、極めて、否絶対的に天を敬う心情を持っておられ、
 第二に、むしろ霊能力と表現する方が正しいほどの超人的な精神力を持っておられ、
 第三に、人間としてそれ以上望めないほどあらゆる能力を備え持った方であり、
 第四に、人と異なる創造力と、人と異なる意欲により偉大な理想を持たれ
 第五に、一度手をつけた以上は、その結果がわかるまでは、疲れを知らず、嫌気を知らず、休息を知らず、恐怖を知らず、妥協を知らず、決して途中で歩みを止めない超人的な貫徹力を持っておられるのである。

(つづく)
1967年6月。  第二次世界路程出発される。
この時も、日本に立寄られる。この時、真の御父母様、孝進様、仁進様、興進様、崔先生、劉協会長、金元弼先生、金栄輝先生、柳光烈先生、黄元鎮先生、李起錫先生、李耀翰先生、誉昌林先生、文成均先生、他の方々が御同行されておられた。この時、劉協会長がみ言の修練をなさられ大先生御自身からも沢山のみ言を日本の食口は賜わった。そして、その夏の開拓の時も、ほとんどの先生方が地方で教育して下さった。

1967年12月31日(旧)  第3次七年路程終る(21年目)された。

1968年1月1日  「神の日」が決定された。
この年の標語は「全面的進撃の年」とされ、この時から神直接主管される時代に入り、メシヤの使命を完了されたのである。(主権交替)

1968年から第二次世界路程に出発された。
この年430双の聖婚式があり、父母が子女を求めた年とされている。

1969年2月  第二次世界路程に出発され世界に430双の祝福を与えられた。この年、子女が父母を求めた年とされている。日本からも、この基台に22双入っている。
この基台は人類の象徴とされている。

1970年10月21日
 世界的合同結婚式777双の基台が決定された。
 日本からも235双入る。
 この年の標語(?)「全面的進撃の年の二年目」
 勝利的統一戦線

1971年1月1日
 真の父母様の御家庭が神の家庭として入籍された。
 年頭標語 「統一基盤確保」であった。

最後に
私達の信仰の道において血を流し、汗し、涙して、尽したというけれど、本当の意味(?)は大先生しかそれを話す資格はない。大先生の裸体をみると、御身体には傷跡が絶えないと云われる。この21年間の三次にわたる七年路程は初めの七年路程の内容に該当する。神は愛の神、神の痛みは、全人類の苦労を合わせても計り知れない。如何に私達が大先生を真正面からみる事ができるか。大先生の道は、死を越えたところがある。私達が死の境地に行かなければ大先生を明らかに見ることができない。安らかな道より苦しい道を行って大先生にお会いできる。
死を越えた道、それは聖なる道を云うのである。
この様にして、初めて黙示録が完成し聖書の使命は成就し、イエス様の目的は再臨の主によって成就される。   以上。   1974.1.26 AM12:15 於高山伝道所

(おわり)
1954年5月1日。創立記念日。この日「世界基督教統一神霊協会」の看板が立てられた。そこの住所は「什(口に一に己)特別市坂東北鶴洞391」である。ここで多くの食口が復帰された。その方々が現在教会の幹部になっている。当時、梨花女子大生が多く集まっていた。
1954年7月4日。梨花女子大事件が起った。
 その事の成り行きは、劉孝敏先生の従姉妹の染久永先生(当時 梨花女子大教授)(音楽)裏表もない素直な方が原理を聞かれた。霊的に聞かれて、大先生が主である事を悟り「貴方はお父様でありながら何故私を呼んで下さらなかった」と言って胸にしがみついて泣いた。その時に天から与えられた聖歌がある。染先生が大学に帰ってから多くの生徒が来教するようになる。教会のニックネームが「三日洗脳」と名付けられた。大学当局では、困り果てて別の教授を送って講義を聞かせ批判させようと企んだ。しかし、その送られた教授は、非常に理性的な女性で、最初鬼のような顔をして聞いていたが、その先生にも弱点があった。彼女はスエーデンボルグを研究していたので霊界の話になった時、ついにニッコリしてしまったというのである。その時の先生が現在米国開拓者である(関学の神学科出身)金永雲先生である。大学側では、大学か教会かの二者択一を迫り、この時12人の女子学生が退学させられた。(14名が大学に残る)その方々が現在ほとんどが12弟子の奥様方である。マスコミは学校当局の宗教の自由の否定を批判した。それに応戦する為に、大学の理事をしている副大統領夫人 朴マリヤがマスコミを買収してある事ない事とりたて統一教会を批判した。当時大統領李承晩は、韓国の事情に疎い、副大統領は病弱、その妻マリヤが実権を握っていた。
 迫害の内容をいうと統一協会は偽キリストである淫乱の教会(女子学生が多かったため)として、中傷をうけた。この迫害は全国的(国家的)に拡大され人々から石を投げられ親が気違いのようになって連れ戻しに来た。想像を絶するような迫害であったのである。
1954年7月4日 大先生、劉協会長を含み、5名が逮捕された。10番の「苦難と生命」その時の劉協会長の詩である。判決は無罪であった。
 大先生御一行が出獄される時、迫害した家では息子が狂って兄弟を母を殺して自殺し、自滅して行った。当時は、世界人類は24億であった。この年10月19日延橲大学からも3名の学生が入る。その中に黄元鎮先生が入教されていた。11月には安昌成先生が入教。12月には柳光列先生が入教されている。1955年ソウル大学工学部電気科出身の金栄輝先生(現協会長)が入教されている。1958年1現在、サンフランシスコ教会)西川勝先生が日本に開拓に出発されている。当時、韓国では最も苦しい(?)にあり、人材も乏しくとても必要な時であった。
1954年~1960年までの第二次七年路程は第二のエバが倒れた為失敗された。残された喜進様は第二の位置としてイエス様を象徴されている。
1960年~1967年 第三次七年路程に出発される
1960年3月1日(日)父母の日(天紀元年)決定された。
これは大先生の御聖婚が成立される為には、復帰された子女を立ててから父母が聖婚されるのが原則なので、金元弼先生、劉協会長、金栄輝先生の三人に約婚式をなさられた大先生は、その約婚基台(?)の2女(誤読の可能性あり)に真の父母として立たれたのである。その約婚基台はそれぞれ内容があり、金元弼先生は愛情の心情の証人(ヨハネ的使命)、金栄輝先生は倫理的証人(ヤコブ的使命)意的なのである。
1960年3月10日(旧) 御父母様の御聖婚式
1960年10月1日(旧) 子女の日
 この年の年頭標語は「生涯成功の実績を残す者となろう」 個性完成

1961年  36双の聖婚式があった。
     この基台は霊界の解放を意味する。
標語  「天の代身者となろう」 理想相対完成

1962年  四位基台完成で民族的摂理基台となる72双の聖婚式が行なわれた。
 標語  「見せて誇る事の出来る者となろう」

1963年  世界的勝利基台として120双の聖婚式が行なわれた。
 標語  「勝利的主管者となろう」  四方を主管できる者。

1963年 5月7日(旧) 「万物の日」決定

1965年1月28日(旧) 第一次世界路程に出発された。
 出発帰国途中に日本に立ち寄られた。この時、世界40ヶ国に聖地が決定される。
 日本には9ヶ国定められた。

(つづく)