5 日本留学 ― 経験の拡大
一九四一年三月、先生は二十二才でソウルでの中学教育課程を終え、東京へ留学の途に発たれることになった。
中学を卒業した数日後の三月三十一日、ソウルから汽車に乗って釜山に発たれた。先生は「自分はこのように東京へ勉強をしに行くが、学業を終えて帰って来る時には、必ずこの国を立たせる。」という決意を持たれていた。それで、釜山までの七時間を汽車に揺られながら、深く神に祈祷され、この悲壮な決意を胸に、絶えず流れる涙を禁ずることができなかった。
そして、釜山を発つ昌慶丸という夜船の中では、「韓国を守ってもらいたい。」と神に熱心に祈願される文鮮明先生であった。
先生は東京に到着するとすぐ、早稲田大学付属高等工業学校電気工学科に入学された。そして、日本で一学生の身分で学業に精進しながら、ありとあらゆる日本の状況をひとつ残らず調査された。そしてその与えられた環境を適切に活用しながら、そこにおいて「主体的な民族性をこの地において立たせて帰らなければならない。」と決意されていたのである。
先生の東京留学三年間は、あらゆる面において、重大な意味を持っていたことは言うまでもなく、民族的側面から見るなら、敵陣の心臓部を貫いて、そこに入っていったのである。摂理的使命分野から見れば、理念的な準備を完全に終えなければならない期間であると同時に、サタン世界に対して出陣の第一歩を踏み出すためのあらゆる能力を体得するための期間であった。であるから、そのために必要なあらゆるものを経験し、訓練を受けなければならない貴重な時期だったのである。
韓国人学生二、三人と共に、早稲田大学に近い新宿区西早稲田一丁目にある、三橋孝藏氏の家にずっと下宿をされたのである。その頃最も親しく過ごされた学友としては、建築家、厳徳紋氏がいる。
東京生活中に終始一貫して熱中されたことは、信仰生活に関することに対してであった。常に下宿の部屋の机の上には、韓国語版の聖書の他にも、日本語、英語版の聖書が広げられており、その行間には色鉛筆でくまなく傍線が引かれていて、見る人の眼をひいた。もちろん、教会出席も誠心を尽くし、聖徒間の交際もおろそかにされなかった。
とは言っても、最も主要な課題は、原理研究であった。それは先生にとってはこの真理究明は他の何にも勝る急先務であり、最重要なことであった。
それでは、この原理は如何にして得られたであろうか。神やイエス様が水を注ぐように、真理を先生に注いで下さったのであろうか。夜明けに東の空が明るくなるように、突然に全てのものが悟られてきたのであろうか。一定の原理原則のもとで、天地万物が創造され、同じ論理の中であらゆる事象が変化し運行するとすれば、原則的にいって奇跡はないのであり、ただ合理的な秩序と因果による必然があるばかりである。
もし、欲望が通じ、無理と奇跡とが許されたとすれば、神が今日までこの悲惨きわまる堕落世界を放置しておられたはずがない。また、究極的な真理、全体的な原理を今まで公開せずに保留しておかれるような理由は何一つない神である。
もちろん先生は、神と霊的に交流されるなかで、「み旨」を悟られることもあり、聖書を詳細に研究される中で、或いは生活哲学の摂理を通じて少なからず、真理を明らかにされた。
しかし、原理の大部分は、血みどろの霊的な世界における闘いを通して、またある部分はサタンとの熾烈な闘いを勝利することによって明らかにされたのである。そして、それらはすべて、複雑な手続きを踏んで神に認可されたものである。
先生が原理を見い出すために、最も重大な問題となったのは、「神」の実在性を把握することであった。神がおられて始めて、他の全ての存在の不変の価値と永久的な位置が成立するのであり、創造と進行の原理が始まることができるからである。
それでは、創造原理はどのようにして確立されたのだろうか。まず、神は存在するのか、しないのか、先生にとってそれこそ根本的な問題であり、最高最大の問題であった。しかし、神を論議しようとすれば、何といっても身近で、もっと切実な対象である「自分」を考えるようになる。
自分はどこから来たのだろうか。お母さんからである。では、お母さんのお母さんは?その又お母さんは?・・・・・・どこまでさかのぼるのであうか。人間のはじめはどうなっているのであろうか。本当に神が人間を造られたのであろうか。またあらゆる人種が住んでいるが、自分の位置はどういう系統に立っているのであろうか。人間と神とがどのような関係にあるのだろうか。それはみな、実際の体験を通してのみ解かれ、確証を得なければならない問題である。
神と自分との関係を結ぶにはいかなる関係のもとに結ぶのか。それは歴史的関係か、時代的関係か、未来の関係か、一体何の関係だろうか。神様と自分との関係、その関係は何を中心とし、キイポイントにしているのか、それが問題である。神がおられるとすれば、神自体は何であろうか。神の希望は何なのか。また、我々の生活と同じように、神にも事情があるだろう。だとしたら、神の事情は何だろうか?。神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするのであろうか。神の目的、そうなるとあらゆるものが問題となってくる。この神の希望、心情、みんな総合して結論を下してみると、結局「人間」という一点に至る。
それでは、人間と神とは何でもってつなげるのだろうか?。それには心情基準を通じていかなければならない。更に一歩進んで「宇宙の根本、又は、宇宙の基礎は何だろうか?」「親子である!父母と子供である!」即ち、最初の基準として神と人間は、親子の関係から出発したのである。天的心情、天的血統を中心とした親子関係が宇宙の根本である。宇宙成立の根本は、親子の因縁であり、万物は子供たちのための庭園である・・・・・・
このように根本的糸口が解かれ始めて、創造原理は自然に体系化されていったのである。
一方、先生は、摂理の第一線に立たれるため、準備路程として、喜怒哀楽と貧富貴賤などを人生の各分野に亘り、重点的にではあるが、くまなく体験をされたのである。
先生は、勉強するにおいても、必ずしも静かで整えられた良好な環境でなければならないということはなく、必要な場合には、いかなる所においてもなすことができなければならないと判断され、わざと巨大なモーターとかエンジンが忙しく回っているうるさい工場の中で勉強される訓練をされた。
また、ある時には、悪党がわざと喧嘩を売って弱い人を殴るなどしていじめている場面を目撃されて、耐えがたい義侠心から一人で彼らに向かって行き、撃退された。不義を見ればとうていそのままで見過すことができないという、先生の天性の発露であった。
そうかと思えば、場合によっては、非常に寒い時など、先生は現実には新聞紙一枚しかないにもかかわらず、それを絹の布団より以上に貴重で価値あるものとして実感されたのである。
「あらゆる場合において、それを如何に感じ、その場所を如何に消化するかが重要であり、従って、味のある人間に、青年にならなければならないし、どこに行っても膝をまじえて付き合えば、自分の胸の底にみんなを引き入れる情感を呼び起こさなければならない、皆の秘密を私一人の胸におさめて休ませることのできる、そのような男にならなければならない」と強調される文鮮明先生である。
又、先生は、一人の苦学生として川崎造船所のようなところにも行かれ、そこで石炭の運搬など重労働も多くなされた。そして仕事をする時にも、始めから請け負い形式でされるのである。まず、作業量において、その会社の労働者たちと対決される。「君達はこの仕事を、何時間でやるか」と尋ねて、六時間で仕上げるという答えが返ってくれば、では、同じ人員で四時間でやろうと決意され、友達を集めて死にもの狂いで仕事に没頭され、「今日一日やって死んでもいいから、決して負けてはいけない。」とハッパをかけて始めるのである。そして始めは四時間でやろうとした仕事も、三時間で完全にやってしまう。そして帰ってくると三日間ぐらい続けて寝られる、そういうこともあった。
若い時にはこのような生活訓練も必要であると先生は強調される。それはこのようにして、社会の良い所、悪い所をくまなく通過しながら、そこにおいて、証明書を受けなければならないと言われるのである。すなわち、勝利の記録を確保しなければならないという意味である。
また、休みの日には川崎にある航空会社にもよく行かれた。
そこには硫酸タンクがあってその中で浄化作業をするのであるが、その方面の専問的な労働者たちでさえも、普通そのタンクの中に入って一回に十五分以上は仕事をすることができない。先生はこのような苦痛の多い労働を請け負われたりした。何よりも難しい仕事を請けて、誰よりもよく忍耐してやることは、一種の苦行であり、修行であり、経験であった。
ある夜には、作業服姿で川崎の乗船場に行かれた。夜中の二時に出発して横浜まで行き、船場の仕事をされるのである。そして、彼らの内幕を調べてみると、非常に気持ちが良くない。学生や労働者を使って中間で少なからぬ搾取をしているためである。会社側から出てくる賃金と実際の入手金とを比べてみると、相当な差額を彼らが途中で搾取していることになる。このような時、先生は彼らを呼んでこらしめたりした。
またある時には、先生が苦学生の姿で仕事をしておられるところに、一人の日本婦人が燃料用石炭をリヤカーで運搬するように頼まれた。
遠く険しい道のりをあまり長い時間車を引いたので、とうとう流れる汗で体が石炭の粉まみれになり、その上、空腹のために力が尽き果て、涙が出そうな心境になった末、ようやく目的地に到達した。その女性はすまないと思ったのか、苦労に対するねぎらいとして若干のお金をチップとして余分に先生に渡したのであった。先生はありがたさのあまりに衝撃を受け、涙で目頭が熱くなり、「そうだ、肉体労働者を慰める方法はこれだ!」と痛感された。その後は先生御自身が、労働者たちの手足を借りる場合には、最後に必ず、たとえわずかであってもチップを加算して賃金を払われたのであった。
そうかと思えば、反対にそれほど苦労をしながら稼いだ金を全部はたいて、帝国ホテルなど最高級ホテルに行って、何日間か泊まられたりした。そして金が有り、権力のある人たちがどれほどの享楽的生活をしているのか、その味がいかなるものであるかを、実際に体験してみて、その実質的価値とその平安の味とを実感されたのである。
文鮮明先生は、「自分はどういうことをするとか」とか、「どういう思想を持っている」とか全然離されなかった。それで親しく接している友達も、あの人は主に聖書を研究したり、宗教関係の書物や哲学関係の書物を多く読んでいるようであるが、それも、他の人たちが読まない書物を持っていて読んでいるから、どういう人なのか全く見当がつかないと言うのである。
そういうい中で時々は、政経科にいる共産主義者と、熱を滞びた論争となり、「いずれにしても遠からず、思想的に対立して腕力で闘わなければならない時が来るだろうが、自信あるか!」と、激烈な口調で討論されたりした。
先生は東京留学三年間、実際に激しい抗日運動をされ、それに応じて苦痛も多く受けられた。
先生は、友達と秘密結社を組織し、民族感情を鼓舞する一方、中国で亡命活動をしていた韓国臨時政府の金九と、背後の連絡をとりながら地下運動を展開された。
先生は、日本の地において日本人に対しては、それほど怨讐みたいには扱わなかったが、日本の主権や天皇に対しては、彼らを否定し、命をかける反対闘争をされた。それは、「国を愛しえない者が、天を愛する事ができない」という大義名文がその頃あったからである。その上、日本は約四十年間韓国を支配して、恐ろしい虐政を広げたために、それに対する必然的な反抗でもあった。
その頃、先生は要視察人物となっていて、どこに行っても常に心安まる日はなかった。日本留学中には毎月一度づつ、警察に呼ばれるのみならず、常に行方と日常行動を監視されていて、その目からのがれることができなかったのである。
特に、当時の韓国人留学生間では、力にあまる戦争遂行に追われ、段々暴虐化していく日帝の弾圧政策により、それに比例して反抗の気運も高潮していた。日本軍閥は、力にあまる第二次大戦において、敗勢が見え始めると、最後には、何の罪もない韓国青年、学徒らも「学兵」という美名のもとに徴兵し、砲弾の代用として多数を犠牲にする計画をたてて実行に移したのであった。
韓国人留学生たちは、事前に一斉に抗議集会を開いて気勢をあげた。この抗日運動の首謀者の一人が、文鮮明先生であった。
この留学生会集会には、常に特高警察が立会い、監視し、干渉した。そのような状態では先生は、露骨に扇動的演説をすることができずに、韓民族の若い血を湧きあがらせるような歌を、気が狂ったように大声で歌って、会場を盛り立たせることもあった。
先生は常に特高警察の刑事たちに尾行された。休みになって韓国に帰られると、釜山の港において迎えに来てくれる人は、特高警察の私服警官であり、休みが終って行かれる時も、この情報を第一に聞くのは、日本警察組織であた。
先生はこのような緊張の中で学業を続け、将来の膨大な使命を考えながら、高い理想を育ててゆこうとされたので、一日たりとも安楽な日を過ごすことができなかった。常に地味な学生服や、労働服姿で、苦行に近い勉強をしながら、神のみ旨を最大に重要視されたので、他の人々と同じように、富士山に登山したり、熱海や箱根、日光などの名勝地観光地のようなことは考えだに及ばなかったのであった。そうして、いつの間にの三年の月日が過ぎて行った。
(つづく)
一九四一年三月、先生は二十二才でソウルでの中学教育課程を終え、東京へ留学の途に発たれることになった。
中学を卒業した数日後の三月三十一日、ソウルから汽車に乗って釜山に発たれた。先生は「自分はこのように東京へ勉強をしに行くが、学業を終えて帰って来る時には、必ずこの国を立たせる。」という決意を持たれていた。それで、釜山までの七時間を汽車に揺られながら、深く神に祈祷され、この悲壮な決意を胸に、絶えず流れる涙を禁ずることができなかった。
そして、釜山を発つ昌慶丸という夜船の中では、「韓国を守ってもらいたい。」と神に熱心に祈願される文鮮明先生であった。
先生は東京に到着するとすぐ、早稲田大学付属高等工業学校電気工学科に入学された。そして、日本で一学生の身分で学業に精進しながら、ありとあらゆる日本の状況をひとつ残らず調査された。そしてその与えられた環境を適切に活用しながら、そこにおいて「主体的な民族性をこの地において立たせて帰らなければならない。」と決意されていたのである。
先生の東京留学三年間は、あらゆる面において、重大な意味を持っていたことは言うまでもなく、民族的側面から見るなら、敵陣の心臓部を貫いて、そこに入っていったのである。摂理的使命分野から見れば、理念的な準備を完全に終えなければならない期間であると同時に、サタン世界に対して出陣の第一歩を踏み出すためのあらゆる能力を体得するための期間であった。であるから、そのために必要なあらゆるものを経験し、訓練を受けなければならない貴重な時期だったのである。
韓国人学生二、三人と共に、早稲田大学に近い新宿区西早稲田一丁目にある、三橋孝藏氏の家にずっと下宿をされたのである。その頃最も親しく過ごされた学友としては、建築家、厳徳紋氏がいる。
東京生活中に終始一貫して熱中されたことは、信仰生活に関することに対してであった。常に下宿の部屋の机の上には、韓国語版の聖書の他にも、日本語、英語版の聖書が広げられており、その行間には色鉛筆でくまなく傍線が引かれていて、見る人の眼をひいた。もちろん、教会出席も誠心を尽くし、聖徒間の交際もおろそかにされなかった。
とは言っても、最も主要な課題は、原理研究であった。それは先生にとってはこの真理究明は他の何にも勝る急先務であり、最重要なことであった。
それでは、この原理は如何にして得られたであろうか。神やイエス様が水を注ぐように、真理を先生に注いで下さったのであろうか。夜明けに東の空が明るくなるように、突然に全てのものが悟られてきたのであろうか。一定の原理原則のもとで、天地万物が創造され、同じ論理の中であらゆる事象が変化し運行するとすれば、原則的にいって奇跡はないのであり、ただ合理的な秩序と因果による必然があるばかりである。
もし、欲望が通じ、無理と奇跡とが許されたとすれば、神が今日までこの悲惨きわまる堕落世界を放置しておられたはずがない。また、究極的な真理、全体的な原理を今まで公開せずに保留しておかれるような理由は何一つない神である。
もちろん先生は、神と霊的に交流されるなかで、「み旨」を悟られることもあり、聖書を詳細に研究される中で、或いは生活哲学の摂理を通じて少なからず、真理を明らかにされた。
しかし、原理の大部分は、血みどろの霊的な世界における闘いを通して、またある部分はサタンとの熾烈な闘いを勝利することによって明らかにされたのである。そして、それらはすべて、複雑な手続きを踏んで神に認可されたものである。
先生が原理を見い出すために、最も重大な問題となったのは、「神」の実在性を把握することであった。神がおられて始めて、他の全ての存在の不変の価値と永久的な位置が成立するのであり、創造と進行の原理が始まることができるからである。
それでは、創造原理はどのようにして確立されたのだろうか。まず、神は存在するのか、しないのか、先生にとってそれこそ根本的な問題であり、最高最大の問題であった。しかし、神を論議しようとすれば、何といっても身近で、もっと切実な対象である「自分」を考えるようになる。
自分はどこから来たのだろうか。お母さんからである。では、お母さんのお母さんは?その又お母さんは?・・・・・・どこまでさかのぼるのであうか。人間のはじめはどうなっているのであろうか。本当に神が人間を造られたのであろうか。またあらゆる人種が住んでいるが、自分の位置はどういう系統に立っているのであろうか。人間と神とがどのような関係にあるのだろうか。それはみな、実際の体験を通してのみ解かれ、確証を得なければならない問題である。
神と自分との関係を結ぶにはいかなる関係のもとに結ぶのか。それは歴史的関係か、時代的関係か、未来の関係か、一体何の関係だろうか。神様と自分との関係、その関係は何を中心とし、キイポイントにしているのか、それが問題である。神がおられるとすれば、神自体は何であろうか。神の希望は何なのか。また、我々の生活と同じように、神にも事情があるだろう。だとしたら、神の事情は何だろうか?。神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするのであろうか。神の目的、そうなるとあらゆるものが問題となってくる。この神の希望、心情、みんな総合して結論を下してみると、結局「人間」という一点に至る。
それでは、人間と神とは何でもってつなげるのだろうか?。それには心情基準を通じていかなければならない。更に一歩進んで「宇宙の根本、又は、宇宙の基礎は何だろうか?」「親子である!父母と子供である!」即ち、最初の基準として神と人間は、親子の関係から出発したのである。天的心情、天的血統を中心とした親子関係が宇宙の根本である。宇宙成立の根本は、親子の因縁であり、万物は子供たちのための庭園である・・・・・・
このように根本的糸口が解かれ始めて、創造原理は自然に体系化されていったのである。
一方、先生は、摂理の第一線に立たれるため、準備路程として、喜怒哀楽と貧富貴賤などを人生の各分野に亘り、重点的にではあるが、くまなく体験をされたのである。
先生は、勉強するにおいても、必ずしも静かで整えられた良好な環境でなければならないということはなく、必要な場合には、いかなる所においてもなすことができなければならないと判断され、わざと巨大なモーターとかエンジンが忙しく回っているうるさい工場の中で勉強される訓練をされた。
また、ある時には、悪党がわざと喧嘩を売って弱い人を殴るなどしていじめている場面を目撃されて、耐えがたい義侠心から一人で彼らに向かって行き、撃退された。不義を見ればとうていそのままで見過すことができないという、先生の天性の発露であった。
そうかと思えば、場合によっては、非常に寒い時など、先生は現実には新聞紙一枚しかないにもかかわらず、それを絹の布団より以上に貴重で価値あるものとして実感されたのである。
「あらゆる場合において、それを如何に感じ、その場所を如何に消化するかが重要であり、従って、味のある人間に、青年にならなければならないし、どこに行っても膝をまじえて付き合えば、自分の胸の底にみんなを引き入れる情感を呼び起こさなければならない、皆の秘密を私一人の胸におさめて休ませることのできる、そのような男にならなければならない」と強調される文鮮明先生である。
又、先生は、一人の苦学生として川崎造船所のようなところにも行かれ、そこで石炭の運搬など重労働も多くなされた。そして仕事をする時にも、始めから請け負い形式でされるのである。まず、作業量において、その会社の労働者たちと対決される。「君達はこの仕事を、何時間でやるか」と尋ねて、六時間で仕上げるという答えが返ってくれば、では、同じ人員で四時間でやろうと決意され、友達を集めて死にもの狂いで仕事に没頭され、「今日一日やって死んでもいいから、決して負けてはいけない。」とハッパをかけて始めるのである。そして始めは四時間でやろうとした仕事も、三時間で完全にやってしまう。そして帰ってくると三日間ぐらい続けて寝られる、そういうこともあった。
若い時にはこのような生活訓練も必要であると先生は強調される。それはこのようにして、社会の良い所、悪い所をくまなく通過しながら、そこにおいて、証明書を受けなければならないと言われるのである。すなわち、勝利の記録を確保しなければならないという意味である。
また、休みの日には川崎にある航空会社にもよく行かれた。
そこには硫酸タンクがあってその中で浄化作業をするのであるが、その方面の専問的な労働者たちでさえも、普通そのタンクの中に入って一回に十五分以上は仕事をすることができない。先生はこのような苦痛の多い労働を請け負われたりした。何よりも難しい仕事を請けて、誰よりもよく忍耐してやることは、一種の苦行であり、修行であり、経験であった。
ある夜には、作業服姿で川崎の乗船場に行かれた。夜中の二時に出発して横浜まで行き、船場の仕事をされるのである。そして、彼らの内幕を調べてみると、非常に気持ちが良くない。学生や労働者を使って中間で少なからぬ搾取をしているためである。会社側から出てくる賃金と実際の入手金とを比べてみると、相当な差額を彼らが途中で搾取していることになる。このような時、先生は彼らを呼んでこらしめたりした。
またある時には、先生が苦学生の姿で仕事をしておられるところに、一人の日本婦人が燃料用石炭をリヤカーで運搬するように頼まれた。
遠く険しい道のりをあまり長い時間車を引いたので、とうとう流れる汗で体が石炭の粉まみれになり、その上、空腹のために力が尽き果て、涙が出そうな心境になった末、ようやく目的地に到達した。その女性はすまないと思ったのか、苦労に対するねぎらいとして若干のお金をチップとして余分に先生に渡したのであった。先生はありがたさのあまりに衝撃を受け、涙で目頭が熱くなり、「そうだ、肉体労働者を慰める方法はこれだ!」と痛感された。その後は先生御自身が、労働者たちの手足を借りる場合には、最後に必ず、たとえわずかであってもチップを加算して賃金を払われたのであった。
そうかと思えば、反対にそれほど苦労をしながら稼いだ金を全部はたいて、帝国ホテルなど最高級ホテルに行って、何日間か泊まられたりした。そして金が有り、権力のある人たちがどれほどの享楽的生活をしているのか、その味がいかなるものであるかを、実際に体験してみて、その実質的価値とその平安の味とを実感されたのである。
文鮮明先生は、「自分はどういうことをするとか」とか、「どういう思想を持っている」とか全然離されなかった。それで親しく接している友達も、あの人は主に聖書を研究したり、宗教関係の書物や哲学関係の書物を多く読んでいるようであるが、それも、他の人たちが読まない書物を持っていて読んでいるから、どういう人なのか全く見当がつかないと言うのである。
そういうい中で時々は、政経科にいる共産主義者と、熱を滞びた論争となり、「いずれにしても遠からず、思想的に対立して腕力で闘わなければならない時が来るだろうが、自信あるか!」と、激烈な口調で討論されたりした。
先生は東京留学三年間、実際に激しい抗日運動をされ、それに応じて苦痛も多く受けられた。
先生は、友達と秘密結社を組織し、民族感情を鼓舞する一方、中国で亡命活動をしていた韓国臨時政府の金九と、背後の連絡をとりながら地下運動を展開された。
先生は、日本の地において日本人に対しては、それほど怨讐みたいには扱わなかったが、日本の主権や天皇に対しては、彼らを否定し、命をかける反対闘争をされた。それは、「国を愛しえない者が、天を愛する事ができない」という大義名文がその頃あったからである。その上、日本は約四十年間韓国を支配して、恐ろしい虐政を広げたために、それに対する必然的な反抗でもあった。
その頃、先生は要視察人物となっていて、どこに行っても常に心安まる日はなかった。日本留学中には毎月一度づつ、警察に呼ばれるのみならず、常に行方と日常行動を監視されていて、その目からのがれることができなかったのである。
特に、当時の韓国人留学生間では、力にあまる戦争遂行に追われ、段々暴虐化していく日帝の弾圧政策により、それに比例して反抗の気運も高潮していた。日本軍閥は、力にあまる第二次大戦において、敗勢が見え始めると、最後には、何の罪もない韓国青年、学徒らも「学兵」という美名のもとに徴兵し、砲弾の代用として多数を犠牲にする計画をたてて実行に移したのであった。
韓国人留学生たちは、事前に一斉に抗議集会を開いて気勢をあげた。この抗日運動の首謀者の一人が、文鮮明先生であった。
この留学生会集会には、常に特高警察が立会い、監視し、干渉した。そのような状態では先生は、露骨に扇動的演説をすることができずに、韓民族の若い血を湧きあがらせるような歌を、気が狂ったように大声で歌って、会場を盛り立たせることもあった。
先生は常に特高警察の刑事たちに尾行された。休みになって韓国に帰られると、釜山の港において迎えに来てくれる人は、特高警察の私服警官であり、休みが終って行かれる時も、この情報を第一に聞くのは、日本警察組織であた。
先生はこのような緊張の中で学業を続け、将来の膨大な使命を考えながら、高い理想を育ててゆこうとされたので、一日たりとも安楽な日を過ごすことができなかった。常に地味な学生服や、労働服姿で、苦行に近い勉強をしながら、神のみ旨を最大に重要視されたので、他の人々と同じように、富士山に登山したり、熱海や箱根、日光などの名勝地観光地のようなことは考えだに及ばなかったのであった。そうして、いつの間にの三年の月日が過ぎて行った。
(つづく)