5  日本留学 ― 経験の拡大

 一九四一年三月、先生は二十二才でソウルでの中学教育課程を終え、東京へ留学の途に発たれることになった。
 中学を卒業した数日後の三月三十一日、ソウルから汽車に乗って釜山に発たれた。先生は「自分はこのように東京へ勉強をしに行くが、学業を終えて帰って来る時には、必ずこの国を立たせる。」という決意を持たれていた。それで、釜山までの七時間を汽車に揺られながら、深く神に祈祷され、この悲壮な決意を胸に、絶えず流れる涙を禁ずることができなかった。
 そして、釜山を発つ昌慶丸という夜船の中では、「韓国を守ってもらいたい。」と神に熱心に祈願される文鮮明先生であった。
 先生は東京に到着するとすぐ、早稲田大学付属高等工業学校電気工学科に入学された。そして、日本で一学生の身分で学業に精進しながら、ありとあらゆる日本の状況をひとつ残らず調査された。そしてその与えられた環境を適切に活用しながら、そこにおいて「主体的な民族性をこの地において立たせて帰らなければならない。」と決意されていたのである。
 先生の東京留学三年間は、あらゆる面において、重大な意味を持っていたことは言うまでもなく、民族的側面から見るなら、敵陣の心臓部を貫いて、そこに入っていったのである。摂理的使命分野から見れば、理念的な準備を完全に終えなければならない期間であると同時に、サタン世界に対して出陣の第一歩を踏み出すためのあらゆる能力を体得するための期間であった。であるから、そのために必要なあらゆるものを経験し、訓練を受けなければならない貴重な時期だったのである。
 韓国人学生二、三人と共に、早稲田大学に近い新宿区西早稲田一丁目にある、三橋孝藏氏の家にずっと下宿をされたのである。その頃最も親しく過ごされた学友としては、建築家、厳徳紋氏がいる。
 東京生活中に終始一貫して熱中されたことは、信仰生活に関することに対してであった。常に下宿の部屋の机の上には、韓国語版の聖書の他にも、日本語、英語版の聖書が広げられており、その行間には色鉛筆でくまなく傍線が引かれていて、見る人の眼をひいた。もちろん、教会出席も誠心を尽くし、聖徒間の交際もおろそかにされなかった。
 とは言っても、最も主要な課題は、原理研究であった。それは先生にとってはこの真理究明は他の何にも勝る急先務であり、最重要なことであった。
 それでは、この原理は如何にして得られたであろうか。神やイエス様が水を注ぐように、真理を先生に注いで下さったのであろうか。夜明けに東の空が明るくなるように、突然に全てのものが悟られてきたのであろうか。一定の原理原則のもとで、天地万物が創造され、同じ論理の中であらゆる事象が変化し運行するとすれば、原則的にいって奇跡はないのであり、ただ合理的な秩序と因果による必然があるばかりである。
 もし、欲望が通じ、無理と奇跡とが許されたとすれば、神が今日までこの悲惨きわまる堕落世界を放置しておられたはずがない。また、究極的な真理、全体的な原理を今まで公開せずに保留しておかれるような理由は何一つない神である。
 もちろん先生は、神と霊的に交流されるなかで、「み旨」を悟られることもあり、聖書を詳細に研究される中で、或いは生活哲学の摂理を通じて少なからず、真理を明らかにされた。
 しかし、原理の大部分は、血みどろの霊的な世界における闘いを通して、またある部分はサタンとの熾烈な闘いを勝利することによって明らかにされたのである。そして、それらはすべて、複雑な手続きを踏んで神に認可されたものである。
 先生が原理を見い出すために、最も重大な問題となったのは、「神」の実在性を把握することであった。神がおられて始めて、他の全ての存在の不変の価値と永久的な位置が成立するのであり、創造と進行の原理が始まることができるからである。
 それでは、創造原理はどのようにして確立されたのだろうか。まず、神は存在するのか、しないのか、先生にとってそれこそ根本的な問題であり、最高最大の問題であった。しかし、神を論議しようとすれば、何といっても身近で、もっと切実な対象である「自分」を考えるようになる。
 自分はどこから来たのだろうか。お母さんからである。では、お母さんのお母さんは?その又お母さんは?・・・・・・どこまでさかのぼるのであうか。人間のはじめはどうなっているのであろうか。本当に神が人間を造られたのであろうか。またあらゆる人種が住んでいるが、自分の位置はどういう系統に立っているのであろうか。人間と神とがどのような関係にあるのだろうか。それはみな、実際の体験を通してのみ解かれ、確証を得なければならない問題である。
 神と自分との関係を結ぶにはいかなる関係のもとに結ぶのか。それは歴史的関係か、時代的関係か、未来の関係か、一体何の関係だろうか。神様と自分との関係、その関係は何を中心とし、キイポイントにしているのか、それが問題である。神がおられるとすれば、神自体は何であろうか。神の希望は何なのか。また、我々の生活と同じように、神にも事情があるだろう。だとしたら、神の事情は何だろうか?。神が喜ぶ世界の心情は何を中心とするのであろうか。神の目的、そうなるとあらゆるものが問題となってくる。この神の希望、心情、みんな総合して結論を下してみると、結局「人間」という一点に至る。
 それでは、人間と神とは何でもってつなげるのだろうか?。それには心情基準を通じていかなければならない。更に一歩進んで「宇宙の根本、又は、宇宙の基礎は何だろうか?」「親子である!父母と子供である!」即ち、最初の基準として神と人間は、親子の関係から出発したのである。天的心情、天的血統を中心とした親子関係が宇宙の根本である。宇宙成立の根本は、親子の因縁であり、万物は子供たちのための庭園である・・・・・・
 このように根本的糸口が解かれ始めて、創造原理は自然に体系化されていったのである。
 一方、先生は、摂理の第一線に立たれるため、準備路程として、喜怒哀楽と貧富貴賤などを人生の各分野に亘り、重点的にではあるが、くまなく体験をされたのである。
 先生は、勉強するにおいても、必ずしも静かで整えられた良好な環境でなければならないということはなく、必要な場合には、いかなる所においてもなすことができなければならないと判断され、わざと巨大なモーターとかエンジンが忙しく回っているうるさい工場の中で勉強される訓練をされた。
 また、ある時には、悪党がわざと喧嘩を売って弱い人を殴るなどしていじめている場面を目撃されて、耐えがたい義侠心から一人で彼らに向かって行き、撃退された。不義を見ればとうていそのままで見過すことができないという、先生の天性の発露であった。
 そうかと思えば、場合によっては、非常に寒い時など、先生は現実には新聞紙一枚しかないにもかかわらず、それを絹の布団より以上に貴重で価値あるものとして実感されたのである。
 「あらゆる場合において、それを如何に感じ、その場所を如何に消化するかが重要であり、従って、味のある人間に、青年にならなければならないし、どこに行っても膝をまじえて付き合えば、自分の胸の底にみんなを引き入れる情感を呼び起こさなければならない、皆の秘密を私一人の胸におさめて休ませることのできる、そのような男にならなければならない」と強調される文鮮明先生である。
 又、先生は、一人の苦学生として川崎造船所のようなところにも行かれ、そこで石炭の運搬など重労働も多くなされた。そして仕事をする時にも、始めから請け負い形式でされるのである。まず、作業量において、その会社の労働者たちと対決される。「君達はこの仕事を、何時間でやるか」と尋ねて、六時間で仕上げるという答えが返ってくれば、では、同じ人員で四時間でやろうと決意され、友達を集めて死にもの狂いで仕事に没頭され、「今日一日やって死んでもいいから、決して負けてはいけない。」とハッパをかけて始めるのである。そして始めは四時間でやろうとした仕事も、三時間で完全にやってしまう。そして帰ってくると三日間ぐらい続けて寝られる、そういうこともあった。
 若い時にはこのような生活訓練も必要であると先生は強調される。それはこのようにして、社会の良い所、悪い所をくまなく通過しながら、そこにおいて、証明書を受けなければならないと言われるのである。すなわち、勝利の記録を確保しなければならないという意味である。
 また、休みの日には川崎にある航空会社にもよく行かれた。
そこには硫酸タンクがあってその中で浄化作業をするのであるが、その方面の専問的な労働者たちでさえも、普通そのタンクの中に入って一回に十五分以上は仕事をすることができない。先生はこのような苦痛の多い労働を請け負われたりした。何よりも難しい仕事を請けて、誰よりもよく忍耐してやることは、一種の苦行であり、修行であり、経験であった。
 ある夜には、作業服姿で川崎の乗船場に行かれた。夜中の二時に出発して横浜まで行き、船場の仕事をされるのである。そして、彼らの内幕を調べてみると、非常に気持ちが良くない。学生や労働者を使って中間で少なからぬ搾取をしているためである。会社側から出てくる賃金と実際の入手金とを比べてみると、相当な差額を彼らが途中で搾取していることになる。このような時、先生は彼らを呼んでこらしめたりした。
 またある時には、先生が苦学生の姿で仕事をしておられるところに、一人の日本婦人が燃料用石炭をリヤカーで運搬するように頼まれた。
 遠く険しい道のりをあまり長い時間車を引いたので、とうとう流れる汗で体が石炭の粉まみれになり、その上、空腹のために力が尽き果て、涙が出そうな心境になった末、ようやく目的地に到達した。その女性はすまないと思ったのか、苦労に対するねぎらいとして若干のお金をチップとして余分に先生に渡したのであった。先生はありがたさのあまりに衝撃を受け、涙で目頭が熱くなり、「そうだ、肉体労働者を慰める方法はこれだ!」と痛感された。その後は先生御自身が、労働者たちの手足を借りる場合には、最後に必ず、たとえわずかであってもチップを加算して賃金を払われたのであった。
 そうかと思えば、反対にそれほど苦労をしながら稼いだ金を全部はたいて、帝国ホテルなど最高級ホテルに行って、何日間か泊まられたりした。そして金が有り、権力のある人たちがどれほどの享楽的生活をしているのか、その味がいかなるものであるかを、実際に体験してみて、その実質的価値とその平安の味とを実感されたのである。
 文鮮明先生は、「自分はどういうことをするとか」とか、「どういう思想を持っている」とか全然離されなかった。それで親しく接している友達も、あの人は主に聖書を研究したり、宗教関係の書物や哲学関係の書物を多く読んでいるようであるが、それも、他の人たちが読まない書物を持っていて読んでいるから、どういう人なのか全く見当がつかないと言うのである。
 そういうい中で時々は、政経科にいる共産主義者と、熱を滞びた論争となり、「いずれにしても遠からず、思想的に対立して腕力で闘わなければならない時が来るだろうが、自信あるか!」と、激烈な口調で討論されたりした。
 先生は東京留学三年間、実際に激しい抗日運動をされ、それに応じて苦痛も多く受けられた。
 先生は、友達と秘密結社を組織し、民族感情を鼓舞する一方、中国で亡命活動をしていた韓国臨時政府の金九と、背後の連絡をとりながら地下運動を展開された。
 先生は、日本の地において日本人に対しては、それほど怨讐みたいには扱わなかったが、日本の主権や天皇に対しては、彼らを否定し、命をかける反対闘争をされた。それは、「国を愛しえない者が、天を愛する事ができない」という大義名文がその頃あったからである。その上、日本は約四十年間韓国を支配して、恐ろしい虐政を広げたために、それに対する必然的な反抗でもあった。
 その頃、先生は要視察人物となっていて、どこに行っても常に心安まる日はなかった。日本留学中には毎月一度づつ、警察に呼ばれるのみならず、常に行方と日常行動を監視されていて、その目からのがれることができなかったのである。
 特に、当時の韓国人留学生間では、力にあまる戦争遂行に追われ、段々暴虐化していく日帝の弾圧政策により、それに比例して反抗の気運も高潮していた。日本軍閥は、力にあまる第二次大戦において、敗勢が見え始めると、最後には、何の罪もない韓国青年、学徒らも「学兵」という美名のもとに徴兵し、砲弾の代用として多数を犠牲にする計画をたてて実行に移したのであった。
 韓国人留学生たちは、事前に一斉に抗議集会を開いて気勢をあげた。この抗日運動の首謀者の一人が、文鮮明先生であった。
 この留学生会集会には、常に特高警察が立会い、監視し、干渉した。そのような状態では先生は、露骨に扇動的演説をすることができずに、韓民族の若い血を湧きあがらせるような歌を、気が狂ったように大声で歌って、会場を盛り立たせることもあった。
 先生は常に特高警察の刑事たちに尾行された。休みになって韓国に帰られると、釜山の港において迎えに来てくれる人は、特高警察の私服警官であり、休みが終って行かれる時も、この情報を第一に聞くのは、日本警察組織であた。
 先生はこのような緊張の中で学業を続け、将来の膨大な使命を考えながら、高い理想を育ててゆこうとされたので、一日たりとも安楽な日を過ごすことができなかった。常に地味な学生服や、労働服姿で、苦行に近い勉強をしながら、神のみ旨を最大に重要視されたので、他の人々と同じように、富士山に登山したり、熱海や箱根、日光などの名勝地観光地のようなことは考えだに及ばなかったのであった。そうして、いつの間にの三年の月日が過ぎて行った。

(つづく)
  4  ソウル留学 ― 信仰の深化

 一九三八年四月、十九歳の青年期に入り、小学校を終えられた文鮮明先生は、郷里を離れ、ソウルに上京され、京城商工実務学校電気科に入学された。漢江の向こう側の黒石洞に住まわれ、更に深みのある信仰生活をされるようになった。
 中学校に通われながら、イエス教会所属の明水台教会に行き、幼年日曜学校の仕事をするなど、積極的な信仰生活を送りつつ、学業にも力を注いでおられた。
 ソウルでの修学期間中、三分の一は下宿をされ、三分の二は自炊生活をされたが、この頃寝食を共にした人々は、年も学年の一年下の文昇龍氏をはじめふつう三、四人であった。
 この時期には、表面的には共同で信仰の訓練をされながら、内的には一人深く祈祷する生活をされた。関心の焦点は、神の創造理想と人間の堕落、悠久なる歳月にわたった救済摂理等を、中心とした神の心情と事情を自らのものとして、体恤することであった。
 その次には、韓国民族と神の救援摂理との関連性について知ることである。すなわち、特に長い歴史を持ち続けてきた韓民族の民族性、及び彼らを中心として綴られてきた歴史の内容に対して関心を持たれた。
 この民族はその本性が平和と光明とを愛する白衣民族であり、固有な言語と燦爛たる文化と幻術を持つ、伝統ある民族であり、また歴史上、数百回に亘って外部の侵略を受けながらも、防禦とこらしめぐらいに留まり、報復をしたり、計画的な外侵をした事例がほとんどなかったというほど極めて善良な民族である。
 振り返ってみれば、韓国民族には、古今を通じて、隆盛を誇っていた時代が少くなかった。高句麗の全盛期がそうであり、新羅や三国を統一していた前後時代がそうである。李朝に入っては、また世宗大王時代の武力が、北辺と南岸を大きく威圧していた。しかし、この民族の祖先たちは常に自衛に留まり、又は制裁に留まる程度で、すじみちをはずれるような侵略に至るほどの過ぎたる野望を持たなかったのである。
 ところが、民族の一人一人は全て優秀で、善良であるにもかかわらずこの民族には、武力で隣を侵攻し、屈服させようとする意図は全くなく、早くから、天下を道徳でもって治めようとする高い次元の構想を持ち続けてきたのである。例えば檀君の開国理想である「弘益人間」がそれであり、新羅の「花郎道精神」、李朝末の「鄭鑑録預言」或いは日政下の三・一運動で標榜されていた「光明大道」もまたそれであった。
 なおかつ、この民族の手本となるべき人物は、孝道においては、沈清(伝承小説の主人公)であり、愛においては春香(伝承小説の主人公)であり、愛国においては論介(侵略してくる敵将を抱いて水中に投身し敵将を殺して自分も死んだという義女)である。彼らは消極的でありながら、朴堤上、李舜臣、安重根、柳寛順のように、自分の身を殺してでも、仁義を貫き、忠義を示した代表である。どの一人をとってみても、暴虐であったり、野心に満ちた人物ではない。
 そして、民族の情調はもっぱら、「垣根の下にひっそりと咲いているホウセンカ」のそれであり、「私を棄ててゆくあなたを常になつかしがりながら、アリラン峠を越えて行く」と歌にある如き主人公の哀傷である。そうかと思えばまた、白雪のように白い服に高い冠をかぶり、竹の杖にわらじをはいて、悠々と山河を周遊しながら、「山菜を食べ、山水を飲み、腕枕をして横たわる、男子の生活はこれくらいであれば、充分である。」と歌う余裕と風流と気概と和楽に満ちた民族でもある。
 民族の起源が太古にあるということは、長い歴史を摂理してこられた神の歩みの長さをまのあたりに思い出させ、純潔で善良な民族性は、神の本性をそのまま伝承した証拠と思われる。強い力がありながらも外侵を企だてたことがなかったことは、神の能力と平和愛護の表象であり、頻繁な民族の分裂と派閥闘争は、善良無垢なエデンの園にサタンが侵入し、破壊作用をしたところからきた結果的な有様ではなかったろうか。
 全世界を道徳で治めようとする高い志は、即ち神の理想であり、消極的なような全ての善行は、原理原則を尊重し、時を待っておられる神の根本的な立場の表現である。垣根の下に咲く哀調を滞びたホウセンカは、ひと時ではあるが、御自分のものをサタンの手に渡し、あちらこちらに追われながらも、後日を思い摂理を進められる神の悲しい姿であるし、余裕と風流と気概を失わず和楽を表現することのできる民族性は、神の根本的威厳と自信と理想の標準を見せるものである。
 そして、中学生であり、既に青年初期の年令になっておられた文鮮明先生は、このような諸要素の相似点を通して、この民族は神の実体と一致した民族であり、神を愛し、神の愛を受ける民族であることを、帰納的に実感されるようになった。
 その頃、先生は夕方の静かな時間に、漢江の柳のたち並ぶ河辺に出かけられ、神の事情を自分の事情として実感しながら、日が暮れることもお腹が空うてくることも忘れ、ほとんど祈祷される姿のままに、深い夜を迎えることも多かった。
 遠大な計画のもとに天地万物を創造され、最後にその息子、娘としてアダムとエバを造られ、一日一日育ってゆくのを見守ってあられた時、神様は将来に対する限りない夢に陶酔されたであろう。
 「さあ、遠からず一男一女を最初の夫婦として祝福しよう。彼らの間から出てくる子女たちは、空の星のように、地の砂の如くに増えるだろう。この人間家族たちを抱き、無限の幸福と感激の中で億万年と享受してゆこう。」神がそれほどふくらんだ夢を抱いて、喜楽にあふれて過ごされていたある日の朝、その愛する子女たちに、起こった堕落は「青天の霹靂」ともいうべき驚くべき事件であったのである。
 幼なくして純真で可愛しい娘「エバ」に侵入した成熟した天使長の、原理の力も押しのけ進んでゆく僕の愛の誘惑、それは如何ばかり悲劇であり、恐ろしい矛盾であろうか。
 ここにはまた、神の創造主としての原理的なやむを得ない理由が介在しているのであろう。悠久な歳月を、涙と嘆息の中で人間を導きながら摂理してこられた神の難しさは、またどれほどであっただろうか。
 一方、神の一人子として地上に来られ、将来万民の王の位に立たれるべきイエス様は、その当時のイスラエル民族と、その指導者たちの無知と不信によって、何の罪が無いにもかかわらず、十字架にかけられた。復帰摂理歴史を中断させたその公的、私的事情を考える時、青年文鮮明先生は、断腸の思いを禁ずることができなかった。
 このような神の事情を深く接すれば接するほど、加速度的に神の側に近ずくようになる先生の日々であった。従って、黒岩洞の裏山に早朝から上がられ、岩の上に顔を伏せ、時間が経つのも忘れて、神と心で抱き合って泣くのが常であった。
 その場はおおう松林や聞いていないようなそぶりで先生を眺めており、流れる風は心配そうに後をふり向き、朝の鳥たちがこの木からあの木へ、枝から枝へ渡り移る音が、間奏となるのみであった。
 悠久なる歳月にわたって善であり、慈悲であり、有能でありながら、常に侵入を受け、悲惨であった。そのような中においてひたすら耐えて、光明の日を目標にして、熱望と哀願と奮闘で暗闘をかきわけて来たという点において神と韓民族は、文鮮明先生の内においては完全に一致していた。このため、神を思い、摂理歴史を考えれば、直ちに目の前に浮かんでくるのは、善良で、可哀想で明徹なる同胞民族であった。
 この頃、夏休みなどに、帰郷された先生の姿に接した親戚のいとこたちが、「誰々の兄さんは草を抱いて相撲していた。」と話していたほどであった。それは、先生が深刻きわまる思いで血みどろになって祈祷される外観を評して言ったのである。また自炊しておられる部屋でも、事実たびたび神のことや地のこと、イエス様の淋しく悲しかった路程を考えて夜を徹してお祈りをなされたのであった。そうして朝になってみると、部屋中に涙が川のように流れていることが常にあったという。
 そうしながらも、先生は故郷から下宿費が送られてくれば、これを自炊で節約し、大部分のお金を分けて、漢江の橋の下に密集棲息していた貧民窟の人たちのために持って行っては使い、人々と苦楽を共にされた。この貧しい子供たちにとっては、度々訪ねてきては、鳥の巣のようになっている髪を刈ってくれたりするこの親切な青年学生は、非常に懐しく待ち遠しい客であり、隣人であり、有難い友人であった。
 その頃、平壌からイエス教会の中央幹部である李浩彬、朴存奉牧師たちが度々訪ねて来ては、何人かの若い信徒たちと深い信仰の境地の話をした。そうする中で、文鮮明先生は先生なりの信仰の奥義を体得し、神の摂理と究極の真理を悟り、整理していかれたのである。
 先生はその当時、年も元気旺盛な二十代初めの青年期であったし、さらに信仰面においては一層、爛熟の境地にあった。
 時間の都合のよい時には、昌慶苑、或いはソウル駅前の広場で、初めはごく自然に一人、二人相手に信仰に対する話を持ち出し、そうしているうちに、段々熱を滞びてくるようになれば、人々が集まってきて、たちまち先生を囲むようになる。そうなれば、先生はいつの間にか本格的に路傍伝道や講演をされるのであった。人々が多勢集まって盛り上ってくると、先生は、時が来たとばかりに更に熱をあげ、信仰の真髄を叫ばれるのであった。そうするうちに、とうとう、取締役の警官が来て、中断を迫まられるのであった。
 そうなるとまた先生は、何が悪いのかと真向うから反論され、是非をめぐる論争は更に拡大された。神の解怨成就のためには、一寸の恥ずかしさも知らない文鮮明先生であられた。
 先生は心身ともに健康で、義侠心が強く、実行力が旺盛である。であるから神の緊急な救援摂理を前にして、一人霊的にでもあっても、または共同生活を通してであっても、その動きに安逸ということは、夢想だにすることができなかった。それほど行き詰まるような日々を過ごされていたのである。
 また先生は、体力面においてすら、相撲のようなものにおいても、校内で自分より強い者はいないという強豪たちを負かすことによって、だんぜん、群鶏の一鶴を彷彿とさせたのであった。

(つづく)
  2  先生の幼少時代

 以上のような特徴の具体的な展開が、これから後に書く内容に中にあらわされている。以後の史実は、先生の特徴的な性格を更に認識させるものでもある。
 先生は、幼少時代には、他の人以上に、目につく全ての事物に対して深い関心を示されて、好奇心と冒険心の強い少年であった。
 その上、こうと思えば直ちに実践に移す性格であり、一度着手したら結果がみえるまでやりとげなければ気がすまないといった恐るべき気質を発揮されていた。
 先生が少年時代を過ごされたのが純朴な農村であったこともあって、幼い先生が主に関心を寄せられたのは、水の中や土の中、それに空(木の上)に生きる生物に対してであった。
 先生は、野原にいる草で巣を作って卵を生む鳥や昆虫、それに動物の生態に対して、生物学者以上の情熱を持って、それらを連日連夜追いかけ回り、調査をされた。
 たとえばある時には、ヒナを育てているカササギが、毎日巣をのぞきにくる先生におびえて、しばらくは不安そうにカァカァ鳴いていたが、やがて決して自分たちに害を及ぼそうとしているのではなく、好奇心旺盛な近所の人間が友達として訪ねてくるのであると悟ってそれから恐れなくなったという。先生はそのような体験をされたのだった。
 またある時には、冬の雪の道に高麗イタチの足跡を見つけ、追いかけて狩りに出た。昼夜をおかず歩き、翌朝になって何十キロ離れた隣りの村まで追いかけてつかまえてしまった。
 また、ある夏、村の前の池でウナギの住み家を発見して、歯で巧妙にウナギの尾っぽを捕えて、そのウナギが底をつくまで毎日捕り続けられ、そして家の中と、多くの親戚の家と、ついには隣りの家までが、その配ばれたウナギの臭いにこりて、悲鳴をあげるようになったという。
 また、ここに、先生の執念と闘志があますところなくあらわされたひとつの実例がある。
 先生が十歳の幼ない頃の話である。年が三歳も上の隣の少年と喧嘩が始まった。最初は当然、年長の少年が幼い少年に馬乗りになって押さえつけていた。ところが、何時間かの後にはこの喧嘩の形態が完全に逆転した。幼ない少年の方がかえって大きい少年の上にのしかかって、下に押しつけられている大きい少年の耳を両手でつかんで、無情にその頭を地面に打ち続け、とうとう降参させてしまったのである。もちろん、小さい方の少年は今日の文鮮明先生である。そして大きい少年が負けたのは、力で負けたというより、先生の闘志と持久力に耐えられずに降参するようになったのであろう。
 一方、七歳から十四歳まで、書堂で漢文の勉強をされたが、千字文、幼文初習、史略、明心宝鑑、小学などの本を読まれた。そしてすでに人と異なった才能をあらわしておられた。習字の場合、書堂の先生から見本をもらって習う必要がないばかりか、かえって助手をつとめられ、更には毛筆を口にくわえて書いたり、或いは足の指の間に毛筆を挟んで、立派に字を書かれたり、人が真似できないようなことをされた。このことをみてもやはり、人とは異なった考え方と、人とは異なった行動をされる先生の独特な個性の発露とみられる。
 一方、先生は、十歳前後のまだ幼ない時から、人とは異なった高い夢を胸深く育てながら成長されていた。
 田舎で成長されたにもかかわらず、将来偉大な博士になろうと決心していた。それも、単純に何かひとつの博士にでもなろうというような漠然とした理想ではなく、三つないし、五つ位の各種の博士号をひとりで収得しようという野望であった。
 そして、将来この世の誰よりも権威のある、有名な学者になろうという思いに胸ふくらませて、熱心に勉強を続けられた。
 書堂での漢文の勉強は、十三歳までされた。
 そして、一九三四年、十五歳の春、平北定州にある私立五山普通学校三学年に編入、初めて新学問を履習し始められた。
 この時の通学距離は約十キロであり、歩行通学としては非常に遠い方であった。しかし、先生はその時からすでに歩き方が速く、共に通学していた一学年下の文昇龍氏などは、歩調を合わすことができなかった。遠くひき離されては半分走って追いかけ、それを繰り返しながら通学したのであった。
 このように、遠距離からの通学であったが、一日も欠席や遅刻をされたことがなかった。
 この通学区間には多くの部落の少年たちがいたが、通学する学生たちにいたずらすることがしばしばあったが、誰も先生には挑戦しようとせず、静かに避けて通るのだった。それで、多くの通学生たちが、行き帰りに、先生と共に隣村を通過するのが常であった。
 丁度この頃、文一族には蕩減の役事としての大きな試練が始まっていた。結婚した二番目の姉と兄が恐しい精神異常となり、末の叔父の家では、大患難が相次いで押し寄せた。例えば、牛が急死したかと思えば、数日後には馬が死んだ。一夜にして豚が七匹死んだこともあった。それも、井戸に落ちて溺れて死んだのであった。ほとんどの場合、井戸には地上三、四尺づつ危険防止用の垣根があるのだが、運悪くその井戸にはそれがなかったのである。災難は続き、ちゃんとおいてあった臼が倒れ、犬の背骨が折れたり、煙突が倒れてその横においてあった醤油瓶を割った。また、母親がしばらく家を空けた間に、飼い犬が入ってきて、その家の子供の耳を食いちがるということも起こった。その主人である叔父は、賭博で多くの金を失なった。このようにわずか一年間にこの多くの災害を受けたのは、何かきっと悪い因縁のせいであると考えて、引越したが、かいなくその家はその後完全に滅んでしまった。
 その当時はそれがどういう意味を持っているのか誰も予測することができなかったが、これは天において、文鮮明先生一人を見つけて摂理の前線に立たせるために必要な、蕩減役事と深い関係があったのであろう。
 一方、先生が有名な博士として出世しようと大志を立てておられたことも今になって思えば、幼少期にありがちな純粋な希望にすぎなかった。
 成長されるにつれ、事物を見る目が深まり、価値を判別する思考の能力も急成長していかれた。それに伴ない、先生の考えは、これまでとはあまりにも次元が異った方向に急転していった。すなわち、先生は、人生の究極的な問題を追及していった結果、とうとう人間が存在する最高の価値はそのようなところにあるのではなく、最も永遠で、最も普遍的なところにあるという事実を悟られた。
 十六歳になられた一九三五年四月、先生は定州公立尋常小学校四学年(現在の中学校)に転学された。この時から先生は、自転車で遠距離の道を通学された。
 この頃既に先生は、幼年日曜学校の教師として子供たちを指導しておられ、特にそのみことばにより、多くの子供たちから、深い尊敬を受けておられた。
 新しい学問を学び始められた頃から、文鮮明先生の思考の中心テーマは変化を見せはじめ、人とは異なる秀れたものであった。
 その思考の基準は、単純な平面的な欲求を越えて、立体的な価値観に立脚していた。すなわち、深刻に考え始められたことは、「私が偉大な博士になって有名になり、願い通り不足なき富貴栄華を備えたとして、それは私にとって何になるだろうか。更にあの多くの不幸な人間たちにとって何の意味を持つというのか。私一人のそのような成功が、他の人たちに何の関係があるのか」という疑問であった。
 一旦、人生を見る眼が開かれ、ひとたび世界と人々の人生を深く考えるようになった時、並々ならぬ大きな壁にぶつかってしまった。
 人々は疫病と貧困による不幸、死に対する絶望など、文字通り、苦痛と悲劇と不幸に満ちあふれた不可思議な地獄に監禁されている、ということを先生は身にしみるほど感じておられたのである。


  3  神 の 召 命

 少年文鮮明先生は、御自身の将来について深刻に考え始められた。
 このように不幸に満ちた人間世界で、「私が成すべきことは何であろうか?」 頭脳明晰であるばかりでなく、物事を徹底的に考えつめられる先生は、人間の価値と御自身の絶対的使命を追求されるにおいても、簡単に解答を出して納得することはできなかった。
 長い間苦心探究された末、とうとう人生の目的とするべきことの輪郭に光明がさし始めた。「全人類をしてこの苦痛、この不幸、この悲劇、この罪悪から解放させること、これ以上に世の中に価値があり、やいがいのあることがどこにあるだろうか。そうだとすれば、私がこれを担当しよう。思えば我々の祖先たちも、皆このような不幸の中で生きてきたし、現世の人たちもこのような束縛の中で生きており、また、このままおいておけば、我々の後孫たちもいつまでもこのような地獄の生活を継承するだろう。」 それは考えただけでも恐しく、身震いするような、人生の悲哀だった。「過去に生きてきた先人達を解放し、現世の人を救済し、我々の後には再び不幸も苦痛も罪悪も訪ずれないように、永遠の理想郷を作って後孫たちに受け継がそう。これこそ私の使命である。」と先生の決意は固まっていった。
 そしてこのしばらく後の、先生が数え年で十六歳になられる年の四月十七日、復活節のことであった。
 この日が本当の復活節であることも、先生が霊的にイエス様に会われた中で初めて明らかにされた。今日でも、一般基督教では、復活節記念日が年ごとに異なる。イエス様が亡くなられた日を知らないで、復活日も調べようがなく、西歴三二五年、ニケア公会議において「春分後初めて迎える満月直後の日曜日を復活節として守ろう。」と規定したためであった。とにかく、この日少年文鮮明先生が祈祷しておられると、突然イエス様があらわれ、重大な事を頼まれた。それはその頃、先生が内心深く決意しておられた人類救済事業に対する召命であり、公式下命であった。初め先生は何度も遠慮された。先生御自身も願い、決心されていたことであったが、いざ公式的な召命が下されると遠慮しなければならなかった理由は何であったのだろうか。
 私的な単純な決意と、相対的契約関係ではその責任のあり方が全く違う。その上、神の厳重な召命であったし、先生の年令はあまりに若かったし、どうして簡単に受け入れることができるであろうか。
 しかし、そのように断わられる先生に、あなた以外にこの重責を担当する人がいないのだからと、イエス様は改めて頼まれるのだった。
 そしてとうとう、先生はこの大命を受け入れられた。実に天地の心が一点上において通じあう厳粛な瞬間であった。
 この後先生は、ただこの一言により、昼夜別なくただ神の摂理のために全心身を捧げられるようになった。
 それからの先生は、幼ない年令にもかかわらず、幾重もの立場を重ねることになった。例えば、学校の先生や生徒たちの前では、他の人と同じ一人の学生であり、父母や兄弟姉妹の前では平凡な家族の一員でありながら、その内面生活では、常に神の摂理を進めるために心を砕いておられたのである。
 内的には絶えず深く霊界と通じなければならなかったし、外的には、神の摂理を進める使命を持つ者としての人格を備えるために、各方面において、不断なる修行を積まなければならなかった 孤高な先生の路程であった。
 その中でも最も重要なことは、人がこれまでなし得なかったあらゆる分野における根本的な疑問を解くこと、即ち、神と人間と自然と歴史に対する根本的な問題を解明することであった。
 この真理、即ち原理を悟るために全身全霊を注がれたのである。普通の人であれば、学業に熱中しながら、一方ではとんだり跳ねたりする遊ぶ年頃に、先生はそれほどまでに高次元な考えをしなければならない立体的な生活の中で、力にあまる課題をかけて、血みどろの闘いをしなければならなかったのである。
 このような生活を三年間過ごされて、小学校の卒業を迎えられた。それは一九三四年三月、早春の候、年は十九歳であった。
 その頃韓国は、日本統治下にあり、先生は日本の植民地教育を受けておられた。おりしも、前年度既に日中戦争が始まっており、戦争勝利という国家的な大目標を口実に、韓半島に対する日本の強圧政策は日増しに激化している頃であった。
 文鮮明先生が卒業を迎えられたのはそのような時期であった。そこで卒業式と関連して有名な逸話がひとつ伝えられている。
 そのころの文鮮明先生はまだ、今日のように人々の前に現われておられた訳ではなく、当時は一卒業生にすぎなかったわけだが、そういう立場でありながら、厳粛な卒業式の会場で、特別所見を発表されたのである。卒業式にはいつも、町長、村長、警察署長等あらゆる地方有志たちが皆参席するばかりでなく、卒業生の父兄たちも全員参席して、非常に厳粛な雰囲気がかもし出されるわけだが、全ての卒業式次第が終了した直後に、意外にも一卒業にすぎない文鮮明先生が、自ら進んで堂々と壇上にあがって、一ときの間、演説をされたのである。
 即ち、今日の教育は問題であり、教師たちのうち誰それは、かくなる長所と短所があり、これからの指導者はこのように改革していくべきだといった教育に対する全面的な批評と是正方案を披瀝し、一卒業生としてとんでもない事であった。故にこの唐突な演説が、どれ程妥当性を持っていたものであったとしても、植民地教育を強行していた戦時下の日帝当局には心良く思われるはずがなかった。
 そしてこの事件が、先生を有名にしたことは言うまでもない。問題は、中学時代及び日本留学時代を通して継続した要視察人となったことである。そのため先生は、いつ、どこにおいても安心して住むことができない程、日本警察の監視と取締まりを受けるようになったのである。
 一方この頃の、自我が芽ばえた少年時代の先生は、神を深く敬いつつ常に自然に親しみ、子供同志で遊びにたわむれるよりは、天に対して至誠を尽している人たちを訪ねて行って、彼らの周囲に坐っていたり、見ていたりすることを好まれたのである。
 このような敬虔な信仰生活をしておられたので、自然に、坐ったり立ったりする場所や行こうとする方向が、良い所であるか悪い所であるかを判別できるようになり、明日は晴れるであろうか雨が降るであろうかということも分るようになった。人に対する時も、直ちに相手が善なる立場の人であるか悪なる立場の人であるかを分別するようになったといわれる。
 そして先生は、このように心にしみひとつなく白紙の状態である時には家族が病気になるような徴候も充分に感知するようになったという。またいつでも信仰心から心身を修養し、清浄な生活をするようになれば、自然に頭がガラスのように澄んでくるようになるのだった。

(つづく)