9 共産治下最初の受難
当時平壌には、日帝の時から存続していた腹中教と呼ばれるイエス再臨準備集団があった。
きわめて不自然な環境の中で生まれて、一生を苦難と迫害の中で過しながら、神のみ旨を広めることもできず、とうとう十字架の受難に会い、恨み多き一生を終えられたイエス様の悔恨を晴らし、再び来られる主が、イエス様の前轍を踏むことがないように、事前に万全の準備を整えようとする特殊信仰集団であった。
許氏という女教主を中心として集まった約三百名の信徒が、持てる限りの財産をはたいて、イエス様が生まれる時から成長する時まで、年々着用される韓国服と洋服を各一着づつと、生活必需品一切、そして成長した再臨主に着せてさしあげる衣冠一揃を、普通の人には想像することもできないほどの誠意をこめて整えたのであった。
あらゆる服地は、いくら短いものであっても、必ずまだ手がつけられていないものを、裁って買わなければならないし、それらを買ってくる途中や服を作る間に、少しでも汚れたものに触れれば、捨てて新しく買わなければならない。そして、再臨主の冠をソウルの地で仕立てて平壌まで運ぶ途中、車中において、頭上にずっと冠を捧げて持って来たという話がある。それは、あくまでも置く場所が無かったためであり、というのも、棚や膝の上に置いて思いがけなく汚れたものに触れる危険性があったためである。
そのような独特の信仰生活を続けていたので、信徒たちが最後まで、残るはずがなかったし、残った信徒たちの財産はみななくなってしまったのであった。
このような情況は、当然社会的な批評も良いはずはなく、その上伝統的な基督教会が腹中教を完全に、異端、あるいは邪教とみなすようになった。
一九四六年に入って、基督教など宗教に対して共産当局が全面的に、弾圧することはまだなかった。しかし、ある明らかな条件さえ整えば、徹底的に一掃するやり方で、無理のない範囲内で宗教勢力を縮小させていた。まずは蛇が互いの尾を噛み合って回るように同じ宗教勢力同志を闘わせて自滅するようにし向ける離間政策に特に力を注いでいた。
丁度、このような方法による去勢作業の第一目標として登場したのが、腹中教幹部拘禁事件であった。教団の信徒以外の人には誰にも理解されなかった腹中教は、基督教等一切の周囲の環境から、排撃されていたので、共産警察は、たやすく弾圧の手を広げることができた。そして、主要幹部たちは皆逮捕されてしまった。その頃、既成基督教と共産警察当局によって平素から蔑視されてきた文鮮明先生も、腹中教と類似した集団の指導者であるとして、とうとう大同保安署に拘束された。
また先生は、解放後に南韓から上ってこられたゆえに、公民証もなく自ら進んで越北した宗教人であったので、李承晩博士の秘密スパイに違いないという嫌疑をかけられていた。先生が平壌に到着されてわずか二ヶ月しか経てない一九四六年八月十一日のことであった。
教会の雰囲気は、天が急に崩れたかのような暗澹たるものとなった。
皆は指標を失なった旅人のようにぼんやりとし、船頭を失なった船の如く不安におびえた。そして先生は共産警察から、言い現わしえないほどの悪虐な拷問を受けられた。その頃の共産警察の実務執行者たちは、日本警察に、思想犯として捕えられ、過酷な拷問を身をもって受け、解放後、釈放されてきた人達が大部分であったので、肉体の事情など顧みることなくメッタ打ちにして、それによる肉体の打撲も絶えがたい苦痛だったが、彼らには更に幾つかの特殊な拷問方法があった。それは食事をさせない方法と眠らせない方法である。普通、一週間食事をさせないで、食べ物で誘惑をしながら拷問をするのである。
それが如何なるものであるか、経験のない人は想像もできないだろうが、実際には、一週間は言うに及ばず、〝三日飢えて泥棒しない人はない〟という諺があるように、三日間飢えさせておいて、御飯を見せながら誘惑すると、気が狂った人のように、口が自然に開いて、あらゆることをみな吐き出してしまうようになる。
しかし、統一教会の信徒であればほとんどの人が一週間の断食を軽くやってしまう経験を持っている。であるから断食による拷問はさほどではないにしても、それより何倍もひどいのが眠らせない拷問である。この〝眠り〟も、何日間も眠れなければほとんど半狂人となり、完全に自制心を失い、眠らせてもらうためならばあることないことみな自白してしまうのである。
一週間少しも眠らせないように守る監視警官は、夜昼三時間交替で、少しでも目をつむる気配があったら大声で怒鳴るのである。
この事がどれほど困難なことであるかは、我々がまる二十四時間眠らないで過ごしてみただけでも直ちに知ることができる。
しかし、特記すべきことは、監視する警官たちが見守る中で、何日間も少しも目をつむることなく平然と過ごされる先生に、警官たちはかえって内心恐れさえ感じ、トイレに行くにも何名かがついて歩いて見守るほどであったことである。
先生は、時々数分間づつ、目を真直ぐに開き、瞳孔を停止させたまま睡眠をとられたという。すなわち、外形的には目を開けたまま、視神経の作用を休ませられたというのである。そのようにされたとしても、先生は身体にあまりにもひどい拷問を受けられたのである。その時の拷問により、腹中教の幹部たちが、死亡した事例から考えてみても、その拷問のほどをいくらか推測することができる。
先生も、あまりひどい拷問のため生命が危うくなり、丁度百日を過ごした十一月二十一日に釈放され帰って来られた。釈放されたことは不幸中の幸いであったが、事態は深刻になるばかりであった。
人事不省で横になっておられる先生の顔は、やせこけて白紙のように蒼白で、大きな桶一杯血を吐かれたのであった。
そして回復の可能性が既にないと見て、最悪の場合まで予想する一部の食口たちの間には、対策を論議する人すらいるほどであった。
しかし、漢方医師(万水台の下の白重漢医院)の投薬を現実的な契機として、神の加護と心を合わせて全力を尽くした全食口たちの看護によって、先生はやがて回復されたのである。
受難後、十二月に、鄭達玉、玉世賢など多くの食口たちが入教し、翌年一九四七年初には、池承道おばあさんが神の導きによって入教した。
その後、教会はしばらくの間は、順調に発展していき、食口数は約四十名になったが、信徒たちの家庭からの迫害は、日に日に増していった。また既成教会の反発は激しくなり、とうとう、共産警察に対して連続して投稿し告発するほどになっていった。共産当局も漸次体制が固まり、宗教抹殺のあらゆる方法を研究し、口実さえみつかればすぐ教会の去勢作業を進行させていた。この頃先生は、まだ年若く、言葉少なく、その心が深く信心の篤い金元弼にその信仰の根本を慎重に託しておられた。先生の衣食住のほとんど全般を世話し、その上集会所を貸しておられたのは、景昌里に二つの教会の主人夫婦であった。一方、多く迫害を受けた信徒たちは、金仁珠、鄭達玉、玉世賢氏等であった。
イエス様当時のマルタのように、恩師に侍る時間もなく、長時間、市場に出かけ、リヤカーを引き、夜昼区別なく日雇い労働をして教会の生計を支えてきたのは、車相淳氏であった。
10 獄中の獄 ― 興南監獄生活
元来、救いを待ち望んでいる地上人類が神の呼びかけに積極的に応えれば、イエス様は栄光の中で神の国を建設できたはずであった。
しかし、かえって民の不信により追われ、十字架にかかって地獄の苦痛を受けてこられた。故に、イエス様の後を行く復帰路程は獄中の基準から出発しなければならない。すなわち、栄光の立場で主発しようとしたイエス様の道であったにもかかわらず、それが十字架路程として展開されたために、統一教会の歴史も獄中の生活から出発するという摂理的意味があったのである。
既成教団からの異端視と、共産当局の宗教抹殺政策とが重なる中で、文鮮明先生は再び苦難を受けるようになり、一九四八年二月二十二日午前十時、ついに共産警察により拘束された。
歴史上、神のみ旨を受けて、責任を持って生きる人で、平坦な道を歩んだ人がそこにあっただろうか。例外がなかったのである。
出発の時から覚悟して出た道であるから躊躇することはなかったが、救援摂理が延長されていく事実が何よりもうらめしかった。
他の一部の食口たちも連行され、拷問を受けたり、家宅捜索を受けたりした。そして共産警察の蛮行は文字通り、人情も事情もなかった。従ってあたかも喪家のごとき雰囲気の中で、先生に対する公判が開かれた。
先生は法廷に入るや否や大きく背伸びをさえ、心の余裕を表わされた。裁判官は、「電気は誰が作ったのか」などについて本件とは何の関係もない詰問をした。彼らは裁判の形式的な手続きを経て、単審五年刑を言い渡し、最後に言いたいことはないかと先生に尋ねられた。
裁判長の言葉が終わるや否や、先生は直ちにその判決文の中にある、「虚構」という二つの文字を削除して欲しいと要請された。
すなわち、先生のあらゆる教えと行為は、虚構ではなく、真実であることを間接的に主張されたのであった。
「先生の要請を受け入れる」と、裁判長は答えた。
実刑の加減に関することではなく、単に判決文の一部を修正させるに留まったことは、先生にどれほど余裕があり、どれほど深い思慮で、摂理路程を歩んでおられるかということを見せられた例であるといえる。
それほどまでにいわれのない刑を受けながら、法廷を出られる時、先生は平然と手を振り、意味深長な笑いを見せながら、食口たちに別れの挨拶をされた。
その後大分たって証された話であるが、その瞬間の先生の胸には別の新しい希望が、涌き起っていて、ある面においては軽い足どりであったという。それは、獄中で将来神が予定しておられる人々に会うようになるであろうが、果してどのような人々なのかという、好奇心にも似た気持ちであったと言われたのである。
先生が問われていた罪状は「社会秩序紊乱」であった。
そのような嫌疑を受け、断罪を受けるようになった経路はこうである。先生が始めに平壌で集会を開かれたとき、真理のみことばを聞いて、食口たちは人生の目的と神のみ旨を知った。そしてこれこそ自分たちが、昼夜捜し求め続けてきた生命の道であると思うと、一時は他の全てのものが全く無意味なものに感じられた。
そうなると、彼らは家のことも仕事もなおざりにして、出来るだけ教会に留まろうとしたが、そこから副作用が起き始めたのである。それまでは彼らはそれぞれ家庭にあって忠実な婦人であった。ところがその生活態度を急に変えて、時間さえあれば出て行こうとするので、夫や息子など家に残された家族たちは理解することができなかった。
こうして夫婦は争うようになり、家庭に不和が起こってきた。その上既成教会の牧師、長老など中心幹部たちが集まって、中堅信者が一人、二人もれていく事実を重視し、文鮮明先生を教会を破壊する異端者とみなし始めた。
教会の近所でも、朝から泣き、夜遅くまで祈祷し、讃美歌を歌い、時には喜びにあふれて笑ったり、騒ぎたてるので、教会に関係のないほとんどの人はこれをよく思わなかった。
そうすると、毎日のように家庭に反対され、隣り近所からは告発され、既成教会からは投書された。そうでなくても共産当局では、どうにかして宗教勢力を減少させたいとして、その方策を求めているところであった。ところが、自己分裂の様相を教会側からあらわし、処罪を要請するのであるから、もっけの幸いと罪に定めたのであった。これは、草創期の熱意がもたらした被害の一例である。
先生は平壌刑務所に一ヶ月半ほど収監されたが、五月二十日、咸鏡南道にある興南刑務所に移された。公称は「徳里特別労務者収容所」である。
この収容所という名前の監獄は、咸興から東南十二キロの距離に位置した興南にあった。この興南は、一九三十年代に世界屈指の窒素肥料工場が日本の財閥によって建てられることにより、急速に膨張した工業都市であり、その窒素肥料工場が解放後、「徳里特別労務者収容所」という監獄となったのである。
つまり、解放前に作って積んでおいた肥料の山を移しかえる仕事が、この収容所の囚人たちに課せられた重労働であった。
(つづく)
当時平壌には、日帝の時から存続していた腹中教と呼ばれるイエス再臨準備集団があった。
きわめて不自然な環境の中で生まれて、一生を苦難と迫害の中で過しながら、神のみ旨を広めることもできず、とうとう十字架の受難に会い、恨み多き一生を終えられたイエス様の悔恨を晴らし、再び来られる主が、イエス様の前轍を踏むことがないように、事前に万全の準備を整えようとする特殊信仰集団であった。
許氏という女教主を中心として集まった約三百名の信徒が、持てる限りの財産をはたいて、イエス様が生まれる時から成長する時まで、年々着用される韓国服と洋服を各一着づつと、生活必需品一切、そして成長した再臨主に着せてさしあげる衣冠一揃を、普通の人には想像することもできないほどの誠意をこめて整えたのであった。
あらゆる服地は、いくら短いものであっても、必ずまだ手がつけられていないものを、裁って買わなければならないし、それらを買ってくる途中や服を作る間に、少しでも汚れたものに触れれば、捨てて新しく買わなければならない。そして、再臨主の冠をソウルの地で仕立てて平壌まで運ぶ途中、車中において、頭上にずっと冠を捧げて持って来たという話がある。それは、あくまでも置く場所が無かったためであり、というのも、棚や膝の上に置いて思いがけなく汚れたものに触れる危険性があったためである。
そのような独特の信仰生活を続けていたので、信徒たちが最後まで、残るはずがなかったし、残った信徒たちの財産はみななくなってしまったのであった。
このような情況は、当然社会的な批評も良いはずはなく、その上伝統的な基督教会が腹中教を完全に、異端、あるいは邪教とみなすようになった。
一九四六年に入って、基督教など宗教に対して共産当局が全面的に、弾圧することはまだなかった。しかし、ある明らかな条件さえ整えば、徹底的に一掃するやり方で、無理のない範囲内で宗教勢力を縮小させていた。まずは蛇が互いの尾を噛み合って回るように同じ宗教勢力同志を闘わせて自滅するようにし向ける離間政策に特に力を注いでいた。
丁度、このような方法による去勢作業の第一目標として登場したのが、腹中教幹部拘禁事件であった。教団の信徒以外の人には誰にも理解されなかった腹中教は、基督教等一切の周囲の環境から、排撃されていたので、共産警察は、たやすく弾圧の手を広げることができた。そして、主要幹部たちは皆逮捕されてしまった。その頃、既成基督教と共産警察当局によって平素から蔑視されてきた文鮮明先生も、腹中教と類似した集団の指導者であるとして、とうとう大同保安署に拘束された。
また先生は、解放後に南韓から上ってこられたゆえに、公民証もなく自ら進んで越北した宗教人であったので、李承晩博士の秘密スパイに違いないという嫌疑をかけられていた。先生が平壌に到着されてわずか二ヶ月しか経てない一九四六年八月十一日のことであった。
教会の雰囲気は、天が急に崩れたかのような暗澹たるものとなった。
皆は指標を失なった旅人のようにぼんやりとし、船頭を失なった船の如く不安におびえた。そして先生は共産警察から、言い現わしえないほどの悪虐な拷問を受けられた。その頃の共産警察の実務執行者たちは、日本警察に、思想犯として捕えられ、過酷な拷問を身をもって受け、解放後、釈放されてきた人達が大部分であったので、肉体の事情など顧みることなくメッタ打ちにして、それによる肉体の打撲も絶えがたい苦痛だったが、彼らには更に幾つかの特殊な拷問方法があった。それは食事をさせない方法と眠らせない方法である。普通、一週間食事をさせないで、食べ物で誘惑をしながら拷問をするのである。
それが如何なるものであるか、経験のない人は想像もできないだろうが、実際には、一週間は言うに及ばず、〝三日飢えて泥棒しない人はない〟という諺があるように、三日間飢えさせておいて、御飯を見せながら誘惑すると、気が狂った人のように、口が自然に開いて、あらゆることをみな吐き出してしまうようになる。
しかし、統一教会の信徒であればほとんどの人が一週間の断食を軽くやってしまう経験を持っている。であるから断食による拷問はさほどではないにしても、それより何倍もひどいのが眠らせない拷問である。この〝眠り〟も、何日間も眠れなければほとんど半狂人となり、完全に自制心を失い、眠らせてもらうためならばあることないことみな自白してしまうのである。
一週間少しも眠らせないように守る監視警官は、夜昼三時間交替で、少しでも目をつむる気配があったら大声で怒鳴るのである。
この事がどれほど困難なことであるかは、我々がまる二十四時間眠らないで過ごしてみただけでも直ちに知ることができる。
しかし、特記すべきことは、監視する警官たちが見守る中で、何日間も少しも目をつむることなく平然と過ごされる先生に、警官たちはかえって内心恐れさえ感じ、トイレに行くにも何名かがついて歩いて見守るほどであったことである。
先生は、時々数分間づつ、目を真直ぐに開き、瞳孔を停止させたまま睡眠をとられたという。すなわち、外形的には目を開けたまま、視神経の作用を休ませられたというのである。そのようにされたとしても、先生は身体にあまりにもひどい拷問を受けられたのである。その時の拷問により、腹中教の幹部たちが、死亡した事例から考えてみても、その拷問のほどをいくらか推測することができる。
先生も、あまりひどい拷問のため生命が危うくなり、丁度百日を過ごした十一月二十一日に釈放され帰って来られた。釈放されたことは不幸中の幸いであったが、事態は深刻になるばかりであった。
人事不省で横になっておられる先生の顔は、やせこけて白紙のように蒼白で、大きな桶一杯血を吐かれたのであった。
そして回復の可能性が既にないと見て、最悪の場合まで予想する一部の食口たちの間には、対策を論議する人すらいるほどであった。
しかし、漢方医師(万水台の下の白重漢医院)の投薬を現実的な契機として、神の加護と心を合わせて全力を尽くした全食口たちの看護によって、先生はやがて回復されたのである。
受難後、十二月に、鄭達玉、玉世賢など多くの食口たちが入教し、翌年一九四七年初には、池承道おばあさんが神の導きによって入教した。
その後、教会はしばらくの間は、順調に発展していき、食口数は約四十名になったが、信徒たちの家庭からの迫害は、日に日に増していった。また既成教会の反発は激しくなり、とうとう、共産警察に対して連続して投稿し告発するほどになっていった。共産当局も漸次体制が固まり、宗教抹殺のあらゆる方法を研究し、口実さえみつかればすぐ教会の去勢作業を進行させていた。この頃先生は、まだ年若く、言葉少なく、その心が深く信心の篤い金元弼にその信仰の根本を慎重に託しておられた。先生の衣食住のほとんど全般を世話し、その上集会所を貸しておられたのは、景昌里に二つの教会の主人夫婦であった。一方、多く迫害を受けた信徒たちは、金仁珠、鄭達玉、玉世賢氏等であった。
イエス様当時のマルタのように、恩師に侍る時間もなく、長時間、市場に出かけ、リヤカーを引き、夜昼区別なく日雇い労働をして教会の生計を支えてきたのは、車相淳氏であった。
10 獄中の獄 ― 興南監獄生活
元来、救いを待ち望んでいる地上人類が神の呼びかけに積極的に応えれば、イエス様は栄光の中で神の国を建設できたはずであった。
しかし、かえって民の不信により追われ、十字架にかかって地獄の苦痛を受けてこられた。故に、イエス様の後を行く復帰路程は獄中の基準から出発しなければならない。すなわち、栄光の立場で主発しようとしたイエス様の道であったにもかかわらず、それが十字架路程として展開されたために、統一教会の歴史も獄中の生活から出発するという摂理的意味があったのである。
既成教団からの異端視と、共産当局の宗教抹殺政策とが重なる中で、文鮮明先生は再び苦難を受けるようになり、一九四八年二月二十二日午前十時、ついに共産警察により拘束された。
歴史上、神のみ旨を受けて、責任を持って生きる人で、平坦な道を歩んだ人がそこにあっただろうか。例外がなかったのである。
出発の時から覚悟して出た道であるから躊躇することはなかったが、救援摂理が延長されていく事実が何よりもうらめしかった。
他の一部の食口たちも連行され、拷問を受けたり、家宅捜索を受けたりした。そして共産警察の蛮行は文字通り、人情も事情もなかった。従ってあたかも喪家のごとき雰囲気の中で、先生に対する公判が開かれた。
先生は法廷に入るや否や大きく背伸びをさえ、心の余裕を表わされた。裁判官は、「電気は誰が作ったのか」などについて本件とは何の関係もない詰問をした。彼らは裁判の形式的な手続きを経て、単審五年刑を言い渡し、最後に言いたいことはないかと先生に尋ねられた。
裁判長の言葉が終わるや否や、先生は直ちにその判決文の中にある、「虚構」という二つの文字を削除して欲しいと要請された。
すなわち、先生のあらゆる教えと行為は、虚構ではなく、真実であることを間接的に主張されたのであった。
「先生の要請を受け入れる」と、裁判長は答えた。
実刑の加減に関することではなく、単に判決文の一部を修正させるに留まったことは、先生にどれほど余裕があり、どれほど深い思慮で、摂理路程を歩んでおられるかということを見せられた例であるといえる。
それほどまでにいわれのない刑を受けながら、法廷を出られる時、先生は平然と手を振り、意味深長な笑いを見せながら、食口たちに別れの挨拶をされた。
その後大分たって証された話であるが、その瞬間の先生の胸には別の新しい希望が、涌き起っていて、ある面においては軽い足どりであったという。それは、獄中で将来神が予定しておられる人々に会うようになるであろうが、果してどのような人々なのかという、好奇心にも似た気持ちであったと言われたのである。
先生が問われていた罪状は「社会秩序紊乱」であった。
そのような嫌疑を受け、断罪を受けるようになった経路はこうである。先生が始めに平壌で集会を開かれたとき、真理のみことばを聞いて、食口たちは人生の目的と神のみ旨を知った。そしてこれこそ自分たちが、昼夜捜し求め続けてきた生命の道であると思うと、一時は他の全てのものが全く無意味なものに感じられた。
そうなると、彼らは家のことも仕事もなおざりにして、出来るだけ教会に留まろうとしたが、そこから副作用が起き始めたのである。それまでは彼らはそれぞれ家庭にあって忠実な婦人であった。ところがその生活態度を急に変えて、時間さえあれば出て行こうとするので、夫や息子など家に残された家族たちは理解することができなかった。
こうして夫婦は争うようになり、家庭に不和が起こってきた。その上既成教会の牧師、長老など中心幹部たちが集まって、中堅信者が一人、二人もれていく事実を重視し、文鮮明先生を教会を破壊する異端者とみなし始めた。
教会の近所でも、朝から泣き、夜遅くまで祈祷し、讃美歌を歌い、時には喜びにあふれて笑ったり、騒ぎたてるので、教会に関係のないほとんどの人はこれをよく思わなかった。
そうすると、毎日のように家庭に反対され、隣り近所からは告発され、既成教会からは投書された。そうでなくても共産当局では、どうにかして宗教勢力を減少させたいとして、その方策を求めているところであった。ところが、自己分裂の様相を教会側からあらわし、処罪を要請するのであるから、もっけの幸いと罪に定めたのであった。これは、草創期の熱意がもたらした被害の一例である。
先生は平壌刑務所に一ヶ月半ほど収監されたが、五月二十日、咸鏡南道にある興南刑務所に移された。公称は「徳里特別労務者収容所」である。
この収容所という名前の監獄は、咸興から東南十二キロの距離に位置した興南にあった。この興南は、一九三十年代に世界屈指の窒素肥料工場が日本の財閥によって建てられることにより、急速に膨張した工業都市であり、その窒素肥料工場が解放後、「徳里特別労務者収容所」という監獄となったのである。
つまり、解放前に作って積んでおいた肥料の山を移しかえる仕事が、この収容所の囚人たちに課せられた重労働であった。
(つづく)