9  共産治下最初の受難

 当時平壌には、日帝の時から存続していた腹中教と呼ばれるイエス再臨準備集団があった。
 きわめて不自然な環境の中で生まれて、一生を苦難と迫害の中で過しながら、神のみ旨を広めることもできず、とうとう十字架の受難に会い、恨み多き一生を終えられたイエス様の悔恨を晴らし、再び来られる主が、イエス様の前轍を踏むことがないように、事前に万全の準備を整えようとする特殊信仰集団であった。
 許氏という女教主を中心として集まった約三百名の信徒が、持てる限りの財産をはたいて、イエス様が生まれる時から成長する時まで、年々着用される韓国服と洋服を各一着づつと、生活必需品一切、そして成長した再臨主に着せてさしあげる衣冠一揃を、普通の人には想像することもできないほどの誠意をこめて整えたのであった。
 あらゆる服地は、いくら短いものであっても、必ずまだ手がつけられていないものを、裁って買わなければならないし、それらを買ってくる途中や服を作る間に、少しでも汚れたものに触れれば、捨てて新しく買わなければならない。そして、再臨主の冠をソウルの地で仕立てて平壌まで運ぶ途中、車中において、頭上にずっと冠を捧げて持って来たという話がある。それは、あくまでも置く場所が無かったためであり、というのも、棚や膝の上に置いて思いがけなく汚れたものに触れる危険性があったためである。
 そのような独特の信仰生活を続けていたので、信徒たちが最後まで、残るはずがなかったし、残った信徒たちの財産はみななくなってしまったのであった。
 このような情況は、当然社会的な批評も良いはずはなく、その上伝統的な基督教会が腹中教を完全に、異端、あるいは邪教とみなすようになった。
 一九四六年に入って、基督教など宗教に対して共産当局が全面的に、弾圧することはまだなかった。しかし、ある明らかな条件さえ整えば、徹底的に一掃するやり方で、無理のない範囲内で宗教勢力を縮小させていた。まずは蛇が互いの尾を噛み合って回るように同じ宗教勢力同志を闘わせて自滅するようにし向ける離間政策に特に力を注いでいた。
 丁度、このような方法による去勢作業の第一目標として登場したのが、腹中教幹部拘禁事件であった。教団の信徒以外の人には誰にも理解されなかった腹中教は、基督教等一切の周囲の環境から、排撃されていたので、共産警察は、たやすく弾圧の手を広げることができた。そして、主要幹部たちは皆逮捕されてしまった。その頃、既成基督教と共産警察当局によって平素から蔑視されてきた文鮮明先生も、腹中教と類似した集団の指導者であるとして、とうとう大同保安署に拘束された。
 また先生は、解放後に南韓から上ってこられたゆえに、公民証もなく自ら進んで越北した宗教人であったので、李承晩博士の秘密スパイに違いないという嫌疑をかけられていた。先生が平壌に到着されてわずか二ヶ月しか経てない一九四六年八月十一日のことであった。
 教会の雰囲気は、天が急に崩れたかのような暗澹たるものとなった。
 皆は指標を失なった旅人のようにぼんやりとし、船頭を失なった船の如く不安におびえた。そして先生は共産警察から、言い現わしえないほどの悪虐な拷問を受けられた。その頃の共産警察の実務執行者たちは、日本警察に、思想犯として捕えられ、過酷な拷問を身をもって受け、解放後、釈放されてきた人達が大部分であったので、肉体の事情など顧みることなくメッタ打ちにして、それによる肉体の打撲も絶えがたい苦痛だったが、彼らには更に幾つかの特殊な拷問方法があった。それは食事をさせない方法と眠らせない方法である。普通、一週間食事をさせないで、食べ物で誘惑をしながら拷問をするのである。
 それが如何なるものであるか、経験のない人は想像もできないだろうが、実際には、一週間は言うに及ばず、〝三日飢えて泥棒しない人はない〟という諺があるように、三日間飢えさせておいて、御飯を見せながら誘惑すると、気が狂った人のように、口が自然に開いて、あらゆることをみな吐き出してしまうようになる。
 しかし、統一教会の信徒であればほとんどの人が一週間の断食を軽くやってしまう経験を持っている。であるから断食による拷問はさほどではないにしても、それより何倍もひどいのが眠らせない拷問である。この〝眠り〟も、何日間も眠れなければほとんど半狂人となり、完全に自制心を失い、眠らせてもらうためならばあることないことみな自白してしまうのである。
 一週間少しも眠らせないように守る監視警官は、夜昼三時間交替で、少しでも目をつむる気配があったら大声で怒鳴るのである。
 この事がどれほど困難なことであるかは、我々がまる二十四時間眠らないで過ごしてみただけでも直ちに知ることができる。
 しかし、特記すべきことは、監視する警官たちが見守る中で、何日間も少しも目をつむることなく平然と過ごされる先生に、警官たちはかえって内心恐れさえ感じ、トイレに行くにも何名かがついて歩いて見守るほどであったことである。
 先生は、時々数分間づつ、目を真直ぐに開き、瞳孔を停止させたまま睡眠をとられたという。すなわち、外形的には目を開けたまま、視神経の作用を休ませられたというのである。そのようにされたとしても、先生は身体にあまりにもひどい拷問を受けられたのである。その時の拷問により、腹中教の幹部たちが、死亡した事例から考えてみても、その拷問のほどをいくらか推測することができる。
 先生も、あまりひどい拷問のため生命が危うくなり、丁度百日を過ごした十一月二十一日に釈放され帰って来られた。釈放されたことは不幸中の幸いであったが、事態は深刻になるばかりであった。
 人事不省で横になっておられる先生の顔は、やせこけて白紙のように蒼白で、大きな桶一杯血を吐かれたのであった。
 そして回復の可能性が既にないと見て、最悪の場合まで予想する一部の食口たちの間には、対策を論議する人すらいるほどであった。
 しかし、漢方医師(万水台の下の白重漢医院)の投薬を現実的な契機として、神の加護と心を合わせて全力を尽くした全食口たちの看護によって、先生はやがて回復されたのである。
 受難後、十二月に、鄭達玉、玉世賢など多くの食口たちが入教し、翌年一九四七年初には、池承道おばあさんが神の導きによって入教した。
 その後、教会はしばらくの間は、順調に発展していき、食口数は約四十名になったが、信徒たちの家庭からの迫害は、日に日に増していった。また既成教会の反発は激しくなり、とうとう、共産警察に対して連続して投稿し告発するほどになっていった。共産当局も漸次体制が固まり、宗教抹殺のあらゆる方法を研究し、口実さえみつかればすぐ教会の去勢作業を進行させていた。この頃先生は、まだ年若く、言葉少なく、その心が深く信心の篤い金元弼にその信仰の根本を慎重に託しておられた。先生の衣食住のほとんど全般を世話し、その上集会所を貸しておられたのは、景昌里に二つの教会の主人夫婦であった。一方、多く迫害を受けた信徒たちは、金仁珠、鄭達玉、玉世賢氏等であった。
 イエス様当時のマルタのように、恩師に侍る時間もなく、長時間、市場に出かけ、リヤカーを引き、夜昼区別なく日雇い労働をして教会の生計を支えてきたのは、車相淳氏であった。


  10  獄中の獄 ― 興南監獄生活

 元来、救いを待ち望んでいる地上人類が神の呼びかけに積極的に応えれば、イエス様は栄光の中で神の国を建設できたはずであった。
 しかし、かえって民の不信により追われ、十字架にかかって地獄の苦痛を受けてこられた。故に、イエス様の後を行く復帰路程は獄中の基準から出発しなければならない。すなわち、栄光の立場で主発しようとしたイエス様の道であったにもかかわらず、それが十字架路程として展開されたために、統一教会の歴史も獄中の生活から出発するという摂理的意味があったのである。
 既成教団からの異端視と、共産当局の宗教抹殺政策とが重なる中で、文鮮明先生は再び苦難を受けるようになり、一九四八年二月二十二日午前十時、ついに共産警察により拘束された。
 歴史上、神のみ旨を受けて、責任を持って生きる人で、平坦な道を歩んだ人がそこにあっただろうか。例外がなかったのである。
 出発の時から覚悟して出た道であるから躊躇することはなかったが、救援摂理が延長されていく事実が何よりもうらめしかった。
 他の一部の食口たちも連行され、拷問を受けたり、家宅捜索を受けたりした。そして共産警察の蛮行は文字通り、人情も事情もなかった。従ってあたかも喪家のごとき雰囲気の中で、先生に対する公判が開かれた。
 先生は法廷に入るや否や大きく背伸びをさえ、心の余裕を表わされた。裁判官は、「電気は誰が作ったのか」などについて本件とは何の関係もない詰問をした。彼らは裁判の形式的な手続きを経て、単審五年刑を言い渡し、最後に言いたいことはないかと先生に尋ねられた。
 裁判長の言葉が終わるや否や、先生は直ちにその判決文の中にある、「虚構」という二つの文字を削除して欲しいと要請された。
 すなわち、先生のあらゆる教えと行為は、虚構ではなく、真実であることを間接的に主張されたのであった。
 「先生の要請を受け入れる」と、裁判長は答えた。
 実刑の加減に関することではなく、単に判決文の一部を修正させるに留まったことは、先生にどれほど余裕があり、どれほど深い思慮で、摂理路程を歩んでおられるかということを見せられた例であるといえる。
 それほどまでにいわれのない刑を受けながら、法廷を出られる時、先生は平然と手を振り、意味深長な笑いを見せながら、食口たちに別れの挨拶をされた。
 その後大分たって証された話であるが、その瞬間の先生の胸には別の新しい希望が、涌き起っていて、ある面においては軽い足どりであったという。それは、獄中で将来神が予定しておられる人々に会うようになるであろうが、果してどのような人々なのかという、好奇心にも似た気持ちであったと言われたのである。
 先生が問われていた罪状は「社会秩序紊乱」であった。
 そのような嫌疑を受け、断罪を受けるようになった経路はこうである。先生が始めに平壌で集会を開かれたとき、真理のみことばを聞いて、食口たちは人生の目的と神のみ旨を知った。そしてこれこそ自分たちが、昼夜捜し求め続けてきた生命の道であると思うと、一時は他の全てのものが全く無意味なものに感じられた。
 そうなると、彼らは家のことも仕事もなおざりにして、出来るだけ教会に留まろうとしたが、そこから副作用が起き始めたのである。それまでは彼らはそれぞれ家庭にあって忠実な婦人であった。ところがその生活態度を急に変えて、時間さえあれば出て行こうとするので、夫や息子など家に残された家族たちは理解することができなかった。
 こうして夫婦は争うようになり、家庭に不和が起こってきた。その上既成教会の牧師、長老など中心幹部たちが集まって、中堅信者が一人、二人もれていく事実を重視し、文鮮明先生を教会を破壊する異端者とみなし始めた。
 教会の近所でも、朝から泣き、夜遅くまで祈祷し、讃美歌を歌い、時には喜びにあふれて笑ったり、騒ぎたてるので、教会に関係のないほとんどの人はこれをよく思わなかった。
 そうすると、毎日のように家庭に反対され、隣り近所からは告発され、既成教会からは投書された。そうでなくても共産当局では、どうにかして宗教勢力を減少させたいとして、その方策を求めているところであった。ところが、自己分裂の様相を教会側からあらわし、処罪を要請するのであるから、もっけの幸いと罪に定めたのであった。これは、草創期の熱意がもたらした被害の一例である。
 先生は平壌刑務所に一ヶ月半ほど収監されたが、五月二十日、咸鏡南道にある興南刑務所に移された。公称は「徳里特別労務者収容所」である。
 この収容所という名前の監獄は、咸興から東南十二キロの距離に位置した興南にあった。この興南は、一九三十年代に世界屈指の窒素肥料工場が日本の財閥によって建てられることにより、急速に膨張した工業都市であり、その窒素肥料工場が解放後、「徳里特別労務者収容所」という監獄となったのである。
 つまり、解放前に作って積んでおいた肥料の山を移しかえる仕事が、この収容所の囚人たちに課せられた重労働であった。

(つづく)
 
  7  韓国解放 ― 伝道開始

 一九四五年八月十五日、韓国は日本の圧政から解放された。韓国人は日本人の拘束と監視から解放され、真の自由な生活を享受するようになり、世界の他の全ての自由民たちと同様に、良心と人道と法律に許容される全ての事を、心ゆくまで行えるようになった。
 また、これにより、耐え忍びつつ待っていた、真理伝播、或いは救世運動を現実の社会において本格的に展開することのできる、大いなる出発の時期と場所とが整ったのである。
 解放になると、先生はソウル永登浦区上道洞に新しく家を備え移された。その時、日帝の宗教弾圧で一時は死んだように静かに信仰の命脈をつないできた信仰界、中でも基督教が、韓国の解放による信仰の自由獲得と共に、炎のような復興の動きを見せた。それとともに、基督教信仰の骨髄であるともいえる多くの熱烈な信者たちの間に、解放と同時に再臨主が降臨されるという啓示を受けたという話が広まり、再臨主待望の気運が高まった。
 このような状況であったその年十月に先生は、霊級が高く、摂理的に重要な使命を帯びているようにみえた金百文氏に会って、彼が導くイスラエル修道院に身を置かれた。その目的はあくまでも新しい信仰運動の活動基盤を整えるためであった。
 先生は朝から夜まで誰よりも熱心に模範的に活動し、奉仕された。そして、その年の十二月二十五日のことであった。金氏は、「文鮮明先生はソロモンの王のような使命を持たれた方である」という、金氏自らが受けた啓示を間接的に先生に伝えたのであった。
 啓示を受けた金氏自身も、この意外な啓示の内容に驚いた。又、当時その他にも啓示を受けた数名の中堅信徒たちがいたが、「これからは文先生に従うように」等の啓示を受けたが、不思議なことだと互いに話しあっていた。しかし、先生は現実的に分派運動を広げることはできない立場だったので、「それは自分たちが知って決めることである」と答えられた。結果的には、そのような啓示を受けた指導者、金百文氏も中堅信徒たちも、相反する現実の信仰体系と新しい啓示の間で、衝突と苦痛を受けるのみで、信仰的行為の決定的な変革はもたらされなかった。


  8  平壌でのみ言伝播

 文鮮明先生は、一九四六年四月までのまる六ヶ月間、「イスラエル修道院」に入っておられたが、その大部分の時間を修道院の系列の上道洞集会所(教会)として過ごされた。
 しかし、伝統的な基督教指導者たちを前面にたてて、神の摂理を広げようとした第一次計画はなされず、イスラエル修道院を摂理進展のための土台にしようとした第二次計画も成就されなかったのである。
 そこで、文鮮明先生はカイン的立場(対象的立場)で韓国と同じ様な版図を形成しているところの北韓に行けという神の命令を受け、一九四六年六月六日、ソ連進駐軍によって新しく共産主義体制を作っていた平壌に到着された。
 平壌は昔から「東洋のエルサレム」と呼ばれるほど、基督教信仰の深いことで名高い都市である。都市の真中から見れば、何間か離れたところごとに一つの教会の尖塔が建てられ、聖日の朝になれば礼拝堂の鐘で市街が一杯になるような感じがした。
 日曜日など全然商売が出来ないといわれるのも、市民の大部分が礼拝に行くためである。聖日になれば教会に行って、讃美し、神に祈るのが当然であるというのが、平壌の人々の一般的な姿であった。
 神がここの地を選ばれたのも、先生が平壌に摂理的なみ旨を持ってこられたのも、平壌がこのように他では見い出すことのできない特殊な、基督教都市であったからである。
 この時はまだ平壌の市民意識の主流が、基督教信仰であったため、教会や信徒に対して露骨に弾圧が加えられるということはなかった。
 先生が始めて集会の場を持たれたところは、篤実な信仰家庭である、金氏宅であった。
 平壌ではほとんどの人が信仰を持っており、全ての信仰者たちは互いに連絡しあっていて、一人びとりが、どこかにもっと立派な何かがあるかもしれないと四方八方に目を向けていたのである。そして、歴史的な大転換期を迎えていた解放直後の平壌市民たちは一層何かを期待していたのであった。
 文鮮明先生は、目立つほど本格的な活動は展開されず、身近にいる人たちから徐々に、静かにみ言を伝えられた。しかし、内容あるものは、結局それに応じて人に知られるようになるものである。人の口と耳を通して、噂は徐々に広まっていった。そして、人々が段々と集まって来るようになった。
 集会を始めて一ヶ月足らずで、十余名の食口が誕生した。皆ひとしく多年に亘り、基督教の信仰を持ち続けてきた篤実な信仰者たちであった。人々はその生命の躍動が目に見えるようであり、信仰の真髄を体得したようであった。
 先生は当初、集会をされるつもりはなく、それぞれ自分のいる場所で祈祷し、都合のよい時に互いに心を集めて礼拝しなさいと言われたのであった。
 しかし、食口たちは「来るな」と言われても、一日に一度は必ず、先生がおられる所に尋ねて来た。そればかりでなく、朝早く誰よりも先に来たいと思い、夜明けになるや否や、門の前につめかける者が、四、五名、時には十余名いて、待っていて、門が開いたら、入ってくるのであった。
 先生は一人でいる時は、主に聖書を読んでおられたが、当時使用されていた先生の聖書はボロボロになり、その上赤色で傍線が引かれていて読むのが難しいほどであった。
 また、祈祷の時間を持たれていて、食口たちも集まれば常に祈祷された。先生と食口たちは、神と歴史的な心情と、摂理的な事情を深く体恤して、多く泣いたのである。そのように祈祷はすなわち涙であったし、真昼であろうが、夜中であろうが、早朝であろうが、かまわず祈祷しながら、声を出して泣いたのである。それで近所の人々が噂し始め、「泣く教会」とあだ名をつけたほどであった。
 他の人たちの目にどのように映ろうとも、食口たちは一つに結束し、しばらくでも別れていることはできないという心情で一杯で、一旦帰ってもまたすぐに教会を訪ねてきて先生を囲み、先生からみ言を受け、先生に質問し、また、見えないところで起っている家庭や既成教会などからの信仰的迫害を報告したのであった。すると、先生は、御自身が受ける迫害の上に更に食口たちの困窮を聞き、苦しまれたのである。
 しかし、「これからは我々の手で、み旨を成そう」と決意され、万難を排して活動された。そして迫害の鞭で打たれるような現実の状況ではあったが、心は常に天国であった。
 礼拝時間には皆が声高らかに讃美歌を歌い、それも数十回繰り返して歌ったのであった。従って、聖霊が働いて、礼拝の雰囲気はいつも霊的な炎のるつぼのようであった。
 食口たちの大部分が、神の声を聞き、幻を見、夢で啓示を受け、異言を語り、預言をなし、隣りの人の心霊を見通した。名実ともに神霊と真理で礼拝する教会であった。
 そして、礼拝に臨む時はもちろん、平素も神に対して誠の限りを尽くされた。
 当時、先生は礼拝時間には白い服を着て来られ、礼拝を導かれた。それで、食口たちも白い服を着て、礼拝に参席するようになった。
 そして、礼拝の始まる一時間前から、膝まづいて準備祈祷をされた。従って、誠意が足りなかったり
、よくない目的で礼拝に臨んだりして、心が礼拝にない場合には、霊通した食口たちによって、指摘され、叱られたり、激しい場合には追い出された。
 文鮮明先生派、全天下を相手に語られるように大声で熱弁をふるい、血と汗を流しながら、神のみ旨を叫ばれた。そうすると、食口たちは、そのみ言を人の声としては聞かず、神のみ言として受け入れ、深く感銘を受け、泣いたのである。
 都下の教会から各々信仰深い中堅信徒たちが一人、二人集まるようになると、教会は日がたつにつれて、盛況を呈した。しかしその反面、信徒を失う既成教会や、信仰上衝突するようになってしまった食口の残りの家族たちや、朝夕わかたず泣き声を聞かなければならない近所の人たち、そして、宗教の抹殺を図る共産当局、それらがみな悪辣な世論を流布して、反対の声を高め、次第に本格的に妨害し始めた。
 当時、原理のみ言は、今日のように体系的な講義としては示されておらず、主に聖書講義の中に含まれていた。
 すなわち、「神様の創造理想」「天使長の横的愛によってゆがんでしまったアダム・エバの堕落経路」「聖母マリア、洗礼ヨハネなど使命担当者たちの責任未遂によって招来されたイエスの十字架の悲劇」などと題する説教の中で内容が紹介され、聖書解釈ということで、聖書の文字の裏にある内容を説得力をもって解明してくれる程度であった。
 そして、食口たちの数は二十名前後であったが、金仁珠、車相淳、金元弼などは、その頃すなわち先生の伝道初期に入ってきた食口たちであった。

(つづく)
  6  帰郷 ― 日警の拷問

 先生が日本に留学されたその年、すなわち一九四一年、日本軍閥はハワイの真珠湾を攻撃して、米、英両国に宣戦布告をした。
 即戦即決を図っていた日本は、一時破竹の勢いで勝ち進み、その後、一九四二年前半までに、フィリピン、インドネシア、ビルマなど東南アジア全域をおおいつくしたのであった。しかし、日本に置かれている立場からすれば、戦力は限定されており、戦争が長期化し、戦線が拡大するようになれば、戦力は衰退してゆかざるを得なかった。
 日本はその年の六月、ミッドウェー海戦で初めて惨敗し、そうするうちに力に余った戦いを始めたのだということを感知しながら、大学校の学期短縮を始めた。
 一九四三年、日本軍は太平洋にあるガダルカナル島を撤退し始め、続いて、連合艦隊司令官・山本五十六元帥が戦死した。また、アッツ島守備隊が全滅するなど、敗勢を強めていった。そのような情況下で、学徒戦時動員体制が強化されることになり、理工系以外の学生は皆、徴兵されるよう法定化された。そのため、各分野にわたって、後方要員の不足が深刻な現象となっていった。やがては日本全体で、前後方を問わず活動要員が不足し、全てが戦時非常体制に改変されざるを得ない火急の事態となっていったのである。
 このような一連の社会状況から、先生が通っておられた学校でも、半年早く学生を卒業させることになった。一九四三年九月末の事である。卒業してしばらく後に、先生は関釜連絡船で帰郷されるつもりで、いつ頃着くと家に電報をしておいた。しかし、急に事情ができて、切符を返して、予定していた船に乗らなかった。そうしたところ、不思議にも丁度その船が、敵の魚雷を受けて沈没したのである。計画が変更されたという電報を受けなかった先生の生家では、この事故の消息を聞くと、家全体が大騒動になった。乗船名簿を調べてみても、名前がないので、きっと死んだのだろうと皆は推測し、狭い部落中がひっくり返るほど驚いたのだった。先生の母親は、半分放心状態となり、靴もはかずに、上着もつけないまま、町まで一目散に走って行った。その途中、足の裏にトゲがささったのが全く痛みを忘れていて、一週間後に帰って来られた先生に直接会って始めて、足の裏が痛いと感じたという。
 このように、誰にも負けないほど、先生を愛し、大切にする父母であり家族であったが、先生は今日に至るまで、み旨を歩まれながら、先生御自身の肉親や親戚を、第三者より以上に大切にしたり、愛を示されたことはないのである。
 このようにして、東京留学を終えて、帰郷された先生は、再びソウルの黒石洞に帰って来られた。先生は、東京に発たれる以前、中学時代に下宿しておられた、李奇鳳おばあさんの家の部屋を借りて住まわれた。
 その頃、工科系出身者たちは、人文系出身者たちと違って、軍隊に行かずに後方勤務することができたのであった。当初、先生は、満州の地でありながら、ソ連と蒙古の接境地帯である、ハイラルへ行って就職するようにと斡旋を受けられた。
 そこに決めたのは、ソ連国境ゆえそこに行けば、満州語、中国語は言うまでもなく、ロシア語や、蒙古語までも習得できるという算段もあったのである。もちろん、全ての事が見慣れていない他国の事であり、また寒帯地方であるので、そこに行けば故郷に比べて多くの苦労がある事はたやすく予測できた。しかし、それ以上に、今後のアジア伝道をなしまたみ言を広めなければならない神の摂理を思う時、そこに行って働きながら、色々な言葉を学ぶ必要があると考えられたためである。
 しかし、韓国に帰ってみて、四十日間位滞在して情勢を調べてみると、そちらの事情が既に不安だということを予感されて、行ってはならないと判断され、ハイラルの満州電業行きを取り消して、そのままソウルに留まり、当時有名であった土木建設会社であった、鹿島組に電気技師として就職されたのであった。
 一九四四年十月、職場に通っておられる時に先生は、日警の手により逮捕されたのであった。それは、日本留学時節の抗日運動の事実が発覚されたためである。そして、当時悪名を響かせていた京畿道警察部(京畿道一円とソウル市内の四個警察署を管轄)に連行され、過酷な拷問を受けられた。拷問の焦点は、日本での地下運動に対する具体的な内幕とその関連者を暴露せよということであった。
 その時に先生が受けられた拷問の代表的なものをあげてみると次のようなものがある。
 まず始めに、「水責め」の拷問である。冬の寒いコンクリートの上に横たわらせ、バケツで冷水を無限にかぶらせたり、飲ませたりして、失神すれば、死体のように投げ出しておく。再び蘇生すれば、またこれを繰り返す。何度も何度も繰り返して自白を促すのである。
 次に、「飛行機乗り」がある。これは両腕を後ろに回して両手をひとつに縛り、空中に吊るして殴りながら自白を促すものである。最後には両肩の関節がはずれ、前からまっすぐ上に両腕をあげた状態と同じように、手足がほとんど垂直になてしまう。人間の体のことなど少しも考えない過酷な方法である。
 三番目は、両足の膝の内側にバットのような木の棒をはさんで正座させた後、膝の上を踏んだり蹴ったりして、膝の関節がはずれるようにし、痛みを与えて事実の告白を促す拷問である。
 四番目は、十指の元に電極をはめ込み、電圧を加減して苦痛を与えるもので、全身が感電して、四肢五体がねじ曲がるのである。
 このような過酷な拷問のため、ある愛国の志士たちは、自分の歯で自らの舌をかみ切って話せなくしたというから、その惨状がどれほどのものであったかということが充分に想像できる。
 このような事情のもとにありながら、先生は瀕死の境に至りながらもなお最後まで黙秘権を行使され、日警は驚嘆を禁じざるを得なかったのである。そして先生以後は一人の同志も捕えることができず、事件はうやむやに終わったのであった。
 先生はそれほど困難を極める立場にあっても、一身の苦痛を免れさせてくださいという祈祷はされなかった。それは、祈祷をしなくても神様は既に先生を見ておられ、共に苦痛を受けておられ、全ての事を知っておられて当然なすべきことをしておられるということを知っておられたためである。なすべき最善のことを成しておられる神に対して、一層神を苦しませる祈祷をするよりは、自分が受けるばきことは、自分の責任において、自分の力で遂行していかなければならないという、先生の主体的精神の発露であった。
 この受難は、翌年の一九四五年二月まで続いたが、この時、先生に部屋を貸していた李奇鳳おばあさんは、寒い冬に一人であらゆる方策を練り、道を尋ねて行き、拘置所を往来しながら、先生に食事の差入れを続けたのであった。
 その後、日警の拘束がら釈放されて、ただちに前の職場に復職された先生は、一九四五年八月十五日の韓国の解放の時までそのまま、李奇鳳おばあちゃんの家で過ごされた。
 先生の従弟である文龍基氏などの証言によれば、先生がその時、すでに第二次世界大戦の末期が近づいているという、時運を知っておられたのは明らかである。
 一九四五年早春にしばらく故郷を訪ねられた先生は、「これから数ヶ月だけよく耐え忍びなさい。遠からず戦争は終る。五月になればドイツが滅び、八月になれば日本が降伏するであろう。だからあなたが今軍隊に行くにしても、実際に戦場まで行かずに帰って来るようになるであろう。」と語られたが、なるほどみなその通りになり、文龍基氏は事実その年の五月に軍隊に出たが、大田後方部隊に配置されたまま、戦場まで行かず、日本の降伏によって、家に帰ってきたというのである。
 先生は、八月十五日に解放されるまでを内的な準備期間とされ、後日公的な活動をする為の全ての能力を備えるため、隠密に神と交流しながら、現実に生活をする者としてのあらゆる経験を積み、特に人格交流に力を尽くされた。
 その中でも、先生は、解放になるまでに真理書中の圧巻である原理の大部分を究明するために力を傾注し、その体系を立てられた。
 この原理の明確な論理と整然とした体系は、少くとも二千年以上の歳月に亘って世界的な大学者たちが継承しながら、考究した真理体系の集積と比しても、それが足元にも及ばないほどの広範囲な内容を網羅している完璧な<真理の原本>なのである。

(つづく)