6  帰郷 ― 日警の拷問

 先生が日本に留学されたその年、すなわち一九四一年、日本軍閥はハワイの真珠湾を攻撃して、米、英両国に宣戦布告をした。
 即戦即決を図っていた日本は、一時破竹の勢いで勝ち進み、その後、一九四二年前半までに、フィリピン、インドネシア、ビルマなど東南アジア全域をおおいつくしたのであった。しかし、日本に置かれている立場からすれば、戦力は限定されており、戦争が長期化し、戦線が拡大するようになれば、戦力は衰退してゆかざるを得なかった。
 日本はその年の六月、ミッドウェー海戦で初めて惨敗し、そうするうちに力に余った戦いを始めたのだということを感知しながら、大学校の学期短縮を始めた。
 一九四三年、日本軍は太平洋にあるガダルカナル島を撤退し始め、続いて、連合艦隊司令官・山本五十六元帥が戦死した。また、アッツ島守備隊が全滅するなど、敗勢を強めていった。そのような情況下で、学徒戦時動員体制が強化されることになり、理工系以外の学生は皆、徴兵されるよう法定化された。そのため、各分野にわたって、後方要員の不足が深刻な現象となっていった。やがては日本全体で、前後方を問わず活動要員が不足し、全てが戦時非常体制に改変されざるを得ない火急の事態となっていったのである。
 このような一連の社会状況から、先生が通っておられた学校でも、半年早く学生を卒業させることになった。一九四三年九月末の事である。卒業してしばらく後に、先生は関釜連絡船で帰郷されるつもりで、いつ頃着くと家に電報をしておいた。しかし、急に事情ができて、切符を返して、予定していた船に乗らなかった。そうしたところ、不思議にも丁度その船が、敵の魚雷を受けて沈没したのである。計画が変更されたという電報を受けなかった先生の生家では、この事故の消息を聞くと、家全体が大騒動になった。乗船名簿を調べてみても、名前がないので、きっと死んだのだろうと皆は推測し、狭い部落中がひっくり返るほど驚いたのだった。先生の母親は、半分放心状態となり、靴もはかずに、上着もつけないまま、町まで一目散に走って行った。その途中、足の裏にトゲがささったのが全く痛みを忘れていて、一週間後に帰って来られた先生に直接会って始めて、足の裏が痛いと感じたという。
 このように、誰にも負けないほど、先生を愛し、大切にする父母であり家族であったが、先生は今日に至るまで、み旨を歩まれながら、先生御自身の肉親や親戚を、第三者より以上に大切にしたり、愛を示されたことはないのである。
 このようにして、東京留学を終えて、帰郷された先生は、再びソウルの黒石洞に帰って来られた。先生は、東京に発たれる以前、中学時代に下宿しておられた、李奇鳳おばあさんの家の部屋を借りて住まわれた。
 その頃、工科系出身者たちは、人文系出身者たちと違って、軍隊に行かずに後方勤務することができたのであった。当初、先生は、満州の地でありながら、ソ連と蒙古の接境地帯である、ハイラルへ行って就職するようにと斡旋を受けられた。
 そこに決めたのは、ソ連国境ゆえそこに行けば、満州語、中国語は言うまでもなく、ロシア語や、蒙古語までも習得できるという算段もあったのである。もちろん、全ての事が見慣れていない他国の事であり、また寒帯地方であるので、そこに行けば故郷に比べて多くの苦労がある事はたやすく予測できた。しかし、それ以上に、今後のアジア伝道をなしまたみ言を広めなければならない神の摂理を思う時、そこに行って働きながら、色々な言葉を学ぶ必要があると考えられたためである。
 しかし、韓国に帰ってみて、四十日間位滞在して情勢を調べてみると、そちらの事情が既に不安だということを予感されて、行ってはならないと判断され、ハイラルの満州電業行きを取り消して、そのままソウルに留まり、当時有名であった土木建設会社であった、鹿島組に電気技師として就職されたのであった。
 一九四四年十月、職場に通っておられる時に先生は、日警の手により逮捕されたのであった。それは、日本留学時節の抗日運動の事実が発覚されたためである。そして、当時悪名を響かせていた京畿道警察部(京畿道一円とソウル市内の四個警察署を管轄)に連行され、過酷な拷問を受けられた。拷問の焦点は、日本での地下運動に対する具体的な内幕とその関連者を暴露せよということであった。
 その時に先生が受けられた拷問の代表的なものをあげてみると次のようなものがある。
 まず始めに、「水責め」の拷問である。冬の寒いコンクリートの上に横たわらせ、バケツで冷水を無限にかぶらせたり、飲ませたりして、失神すれば、死体のように投げ出しておく。再び蘇生すれば、またこれを繰り返す。何度も何度も繰り返して自白を促すのである。
 次に、「飛行機乗り」がある。これは両腕を後ろに回して両手をひとつに縛り、空中に吊るして殴りながら自白を促すものである。最後には両肩の関節がはずれ、前からまっすぐ上に両腕をあげた状態と同じように、手足がほとんど垂直になてしまう。人間の体のことなど少しも考えない過酷な方法である。
 三番目は、両足の膝の内側にバットのような木の棒をはさんで正座させた後、膝の上を踏んだり蹴ったりして、膝の関節がはずれるようにし、痛みを与えて事実の告白を促す拷問である。
 四番目は、十指の元に電極をはめ込み、電圧を加減して苦痛を与えるもので、全身が感電して、四肢五体がねじ曲がるのである。
 このような過酷な拷問のため、ある愛国の志士たちは、自分の歯で自らの舌をかみ切って話せなくしたというから、その惨状がどれほどのものであったかということが充分に想像できる。
 このような事情のもとにありながら、先生は瀕死の境に至りながらもなお最後まで黙秘権を行使され、日警は驚嘆を禁じざるを得なかったのである。そして先生以後は一人の同志も捕えることができず、事件はうやむやに終わったのであった。
 先生はそれほど困難を極める立場にあっても、一身の苦痛を免れさせてくださいという祈祷はされなかった。それは、祈祷をしなくても神様は既に先生を見ておられ、共に苦痛を受けておられ、全ての事を知っておられて当然なすべきことをしておられるということを知っておられたためである。なすべき最善のことを成しておられる神に対して、一層神を苦しませる祈祷をするよりは、自分が受けるばきことは、自分の責任において、自分の力で遂行していかなければならないという、先生の主体的精神の発露であった。
 この受難は、翌年の一九四五年二月まで続いたが、この時、先生に部屋を貸していた李奇鳳おばあさんは、寒い冬に一人であらゆる方策を練り、道を尋ねて行き、拘置所を往来しながら、先生に食事の差入れを続けたのであった。
 その後、日警の拘束がら釈放されて、ただちに前の職場に復職された先生は、一九四五年八月十五日の韓国の解放の時までそのまま、李奇鳳おばあちゃんの家で過ごされた。
 先生の従弟である文龍基氏などの証言によれば、先生がその時、すでに第二次世界大戦の末期が近づいているという、時運を知っておられたのは明らかである。
 一九四五年早春にしばらく故郷を訪ねられた先生は、「これから数ヶ月だけよく耐え忍びなさい。遠からず戦争は終る。五月になればドイツが滅び、八月になれば日本が降伏するであろう。だからあなたが今軍隊に行くにしても、実際に戦場まで行かずに帰って来るようになるであろう。」と語られたが、なるほどみなその通りになり、文龍基氏は事実その年の五月に軍隊に出たが、大田後方部隊に配置されたまま、戦場まで行かず、日本の降伏によって、家に帰ってきたというのである。
 先生は、八月十五日に解放されるまでを内的な準備期間とされ、後日公的な活動をする為の全ての能力を備えるため、隠密に神と交流しながら、現実に生活をする者としてのあらゆる経験を積み、特に人格交流に力を尽くされた。
 その中でも、先生は、解放になるまでに真理書中の圧巻である原理の大部分を究明するために力を傾注し、その体系を立てられた。
 この原理の明確な論理と整然とした体系は、少くとも二千年以上の歳月に亘って世界的な大学者たちが継承しながら、考究した真理体系の集積と比しても、それが足元にも及ばないほどの広範囲な内容を網羅している完璧な<真理の原本>なのである。

(つづく)