例えば、子が親に一つの願いをして叶えられた時、とてもうれしい。それは自分自身から来たうれしさではなく、親から(?)たので、親の苦労に(?)(?)(?)れた(?)(?)を子供は喜ぶ。大先生はどの様にして祝福を得られたのか。それは私たち人間のために祝福を与えんが故、大先生は苦労されて来られた。だから、うれしい事があってもその背後の御苦労を思い人類の救いは神から始まった。しかし人類は信じない死の立場から救うため、大先生を十字架に架けなければならない神の立場である。だから私達の信仰の道においても大先生を信じなければ、大先生の十字架がある事を考え、良い事を考える為の大先生の背後を考える者とならなければならない。ある時夕食を済ませ休もうかとおっしゃられたが、すぐ休まず進もうといわれて進んで行った。三時間位進んだところで休んだ。ところが翌朝、橋を渡り切った時、共産軍が橋を閉めてしまった。又12月で火がな時、元弼先生は木を求めて墓からタンカの木を持って来て炊いたら、大先生は何も知らないはずなのでそれはどういう木かとお尋ねになられたのである。こうして40日かかって 1951年1月17日釜山に到着された。そこは避難民であふれ、大先生のお(?)は乞食同様で髪もボウボウであった。
 韓さんは多くの愛を受けながら結局は自分の事のみを考えて離れてしまった。(現在は戻っている)
 2月6日、一流の新聞記者が来て3名に会見した。翌日はCIAが来た。ある時、大先生は早大時代のお友達の厳徳絞さんにお会いになった。その時、厳さんは、夢の啓示を大先生に告げた。「24年前に来たイエス様に妹があって、その妹が自分の兄であるイエス様の事で、母マリヤに恨みがある。鍵をとって、又門をあけると、その中に又小さな門があって、その門をあけなければならない。その門をあけなければ、恨みを解く事ができない。」と教えてくれた。ところが、その小さな門を開けるには鍵が必要である。その鍵をもっている人は、文鮮明先生である」と教えてくれた。その人は仏教の人であるから、キリスト教のことも聖書の内容も全く知らない。朝になって目をさまして大先生に告げるときは、昨日の夕方までは「君」「お前」といっていた人が、ひざまずいて話すのである。その人が、その鍵は何かとしきりに聞くので、大先生は、ずっと歴史をお話しになり、その時から15年経るがその人は大先生を知って熱心について来る。その事があってから、その友人と一緒に本の表紙を造る仕事をしながら原理の原論を書き始められたのである。その原文は保管されており、今出版されている原理は劉協会長様(死去)が体系づけて説明されたものである。
 最初の頃、大先生は、第4ふ頭で沖仲士をされておられた。元弼先生は、とても見るに忍びないので「私が働きますから止めて下さい。」と言って街まで出て米屋(誤読の可能性あり)の所で絵を画いたり、又、木工部で働かれた。それが意外によく売れたので、大先生は夜中2~3時まで一緒に手伝っておられた。大先生はささやかな食物を得て、み言を伝えておられた。その頃、部屋も、何もなかった。初め牢獄で迎えてくれた金さんに会われた。牢獄にいる時は、迫害がはなはだしく人々は全部、大先生のおられた刑務所から迫害の少ない所に移っていった。その時、金さんが、「先生、私はあそこへ行ってもいいですか。」と聞かれたので、大先生は「行っても良い。しかしお前はそういう所に行っても危ない時は逃げなさい。」とおっしゃられた。ところが、ある牧師さんが、大先生の事を本当に知ってついてきた人であった。大先生はその人に対し「貴方は、あそこへ行ってはいけません。」とおっしゃられた。しかし、牧師さんは、大先生のみ言を聞かずに行ってしまったのである。しかし金さんは大先生の言われたように逃げて助かったのである。ある時、金さんは、霊的に不思議な事があって結婚したのである。大先生は厳さんと働いておられる時、部屋がなかったので、結婚して何日も経たない金さんの四畳の小さな部屋に行って一緒に暮され、その場で原理の原文を書かせたのである。
 ある時、「ここでは、どうしても原理を書く事が出来ないから、お前が下宿している所に、私はいかなければならない。」と元弼先生におっしゃられ、元下宿先に住まわれるようになる。その部屋は三畳間なので、大先生の頭と足が壁にぶつかるそういう狭い所で原理を書かれ開拓伝道をされたのである。そこへ食口達が集って来た。
 例えば、ソウルに居られる時、信仰で交わってた人がいた。その婦人(韓国の一流新聞の編集局長の奥さん)は、聖霊を受けて約40年の信仰生活をして霊通する人であった。その人を訪ねてくるようにと約束されていた。そこで、その婦人が大先生を訪ねてきた。その時、その人は霊通しているので色々とお話しされるのに簡単であった。大先生は、その人の信仰をよく御存知でいらした。結論的に・・・何をおっしゃられたかというと「世界の全部の人間と文鮮明とどちらが高いか祈ってみなさい。」と。その人は大先生の事を普通の青年ではないとよく知っていたが、さすがに”世界の人類と比べよ”とおっしゃるのは、納得いかなかった。又「イエス様と大先生とどちらが高いか祈ってみなさい。」とおっしゃられた。それでその婦人はとても信じられなくなり、家に帰ってしまった。帰ってからも大先生に会いたいという気持ちがない。しかし大先生のお話を否定しようとすると心が暗くなり、納得しようとすると心が平和になるのである。「これではいけない!!生命がけでも祈って解決しなければならない。」という決意をして再び大先生を訪れて来た。大先生が住まわれておられる家の前の山に登って、お祈りをしたのである。「神様、この問題に対して教えてもらわなければなりません。」と心から祈っていると「大先生のお話の通りだ。文先生が高い」と教えてくれる。しかし実感が来ない。そこで又祈っていると、イエス様より無形の神が現われて、いつも無形の神が現われていろいろその人に教えてくれたのである。それは大先生が座っていらっしゃると無形の神がだんだん大先生の御身体に入ってしまって全くみえなくなってしまった。大先生と無形の神がいらっしゃるが、その無形の神が大先生の実体の中に入られて残っているのは、大先生お一人であったというのである。これは何を示すかというと無形の神が大先生の実体の中に臨在され一体であるということの証なのである。そういうふうな事があって、その下宿で大先生に礼拝されたのであるが、その部屋があまりにも狭くてどうにもこうにも出来ない貧しい生活であった。そういう中でも、いつも歌を失わないで、お友達の厳さんは歌が上手で何回も歌わせられた。下宿の所から、少し上った所に共同墓地があり、そおに(?)地が少しあったので、いつもそこに登られてお歌いになりながらめい想にふけっておられた。山の上に草を敷かれ(?)をしのぐ場所をお造りになったり石垣の上に家とはいえない粗末な土の家を建てられ、ダンボールを敷いて休まれた。雨が降ると水が流れ込んで来るようなものであった。その住所は釜山市(?)区風(?)洞1573で今でも残っている。これは最初のメシヤの家であった。そこの近くに畳一(?)の岩があった。そこで大先生は毎日毎日、父母の日を求めて祈られた涙の石がある。
 大先生がひらめいて語られる時、元弼先生がダンボール書きつづり、時には、寝ている時も起して書いてくれと頼まれる。こうして書きとどめられたのが再臨論であった。
 ある時、篤信の婦人((?)(?)実さん)が山の方に光を見て、そこへ導かれるように行ってみると、大先生が座っておられた。その時、夫人が後1953年に劉孝元協会長を伝道された。劉先生は京城大学医学部出身で足がカリエスで悪くしておられ、5年間聖書を学ばれたが解らず、婦人から伝道されて、タンカで運ばれながら病床でみ言を聞かれた。
1951年5月10日に入教され、最初の婦人弟子となられたのである。
 大先生が下書きされたり、ノートをもらって、それを土台として原理講議され、多くの人が(?)ている。大先生は「人類を失っても劉協会長を失いたくない」とおっしゃられておられた。劉協会長より少々早く 1952年12月1日李耀翰先生が入教されている。大先生は1946年北に向われた時、別れたきりの奥様に7年ぶりにお会いになられた。しかし、その時も大先生は、奥様を冷くあしらわれた。それからというもの奥様は、大先生を迫害し始めたのである。1946年~1952年までの第1次七年路程は2人の牧師と腹中教の不信仰の故に、(?)(?)主義、キリスト教の三主権からうたれ、又、第一のエバの不信仰の故に摂理が失敗したのである。1953年第二次七年路程の出発として大邱に向かわれる。大邱では大先生のもとに多くの若い上流クラスの婦人達が集まって来た。(?)(?)の(?)りの(?)(?)ら(?)に魅せられて夫のことを忘れて大先生に仕えた。聖い大先生を知った婦人達は自分の夫が汚れて見えた。部屋を(?)(?)したない当時は話しながらその場に、そのまま寝ることが多かった。そして婦人達は朝早く家に帰る。それだから夫達から迫害を受け、大先生のもとに逃げてくる状態で夫達が連絡しあって大先生を迫害するようになった。教会を変えても婦人達は霊界から示されて大先生の後を慕ってくる。だからなお迫害が続き、上層部からも迫害をうけられた。大先生はその地に恨みを残して去られた。そしてソウルに移られたのである。

(つづく)
 大先生は一緒にそういうふうに生活されても天から見ればその人々は大先生と一緒に座する事を神は許されない。(霊能者の体験から)大先生には、その御足に土をつけさせてはいけない、つけさせてはいけないと・・・。しかし大先生は、そういう立場そういう状況に置かれては、(?)(?)人々と一緒に何の区別もなく生活される事がある。大先生は、小さな穴を壁にあけて、そこに御口をつけて新鮮な空気を吸われておられた。しかし、それが見つかって別の監房に移されてしまった。その監房の室内に一つのトイレがついている。とてもそこは臭い。大先生は、その監房の中でも一番窓に近い所に居る事ができたけれども、そういう所は選ばれず自らトイレの所を選ばれたのである。何故なら大先生は御自身を唯一個の個人としてお考えにならない。御自身は天宙復帰の責任を果さなければならない。そういう責任を持っておられる御自身であられるので、いわゆる天の代身者としての自覚をお忘れにならなかった。だからその身は一個人の関係であるけれども、その関係は神のみ旨を成就しなければならない神の代身者であることをお忘れにならなかった。それ故に私の身体は、神殿、聖殿であるという訳である。だから大先生は、御自身が神の代身者であることを悟られた時、今一緒に生活しているその人達とは全く区別しなければいけない御身であることを悟られた。それで実際眠る位置を定めてしまうと数多くの人が出入りして、大先生の御身体を越えて通る訳である。神のみ旨に添わない不届きなる人々にそういう大先生の御身体を越えさせる訳にはいかない。故に位置は臭いところであっても人々は大先生の御身体を越えられないから、その場を眠るに良き場所として定められたという事である。夏などは、マラリヤが流行し、大先生も例外なくマラリヤにかかられた事があった。人々はそういう病気にかかっても仕事場に出て行くのである。大先生の立場は、それだけとは違って今日まで多くの人々が天のみ旨を成就せんがため数多くの十字架路程を歩き、しかも途中で果せずして死んだ人の恨みから解放してやらなければならないとすると、その為には、その人々は歩んだそういう恨みを解かなければならないという事を考えられ、大先生はマラリヤにかかっておられたけれども仕事をされたのである。マラリヤで高熱が出て悪寒が来、そして身ぶるい又高熱が出るという状態がずっと続く中それでも毎朝5時に起床しなければならず刑務所から肥料工場まで4㎞の距離を歩いて行かなければならなかった。マラリヤにかかると充分に食することも出来ず、身体はやせて、マラリヤの発作が起ってくる。そういう状態で歩いて行くと足が地につかず倒れることが幾度もあった。しかし大先生は歯をくいしばり一日に1300袋の仕事の責任を全部成し遂げられたというのである。そうして大先生は2年8ヶ月その刑務所で暮して出所なされた。そこは韓国のように民主主義人民共和国というものを設立して、その記念の許しとして5年の刑期を半分に減刑してくれ、3年4ヶ月で良くなった。しかし6・25動乱が起り大先生は更に短い2年8ヶ月で出所された。その間2~3000人の中で三度も模範賞を受けられたのである。大先生はそういうふうに苦労されても、今度は苦労してきた人々の恨みを私が解放してやらなければならない。その為には、十字架路程を勝利でもって貫かなければならない。そういう決心を一日、いつもお忘れにならなかった。そういう中で一番辛い事は、服役中に人々に共産主義の思想を教えさせ、これから絶対に共産主義の為に忠誠をつくす、という訓練をさせる。そしていつも反省文を作成するようになるので、大先生にとっては心にも共産主義をたたえる文章は、神を否定する事になるので、とうてい出来なかった。だから、大先生は、他の人に代って書いてもらい出所なさるまで、一度も書かれなかった。大先生は5年というその期間を過さなければならないとお考えになっておられたので、いつも運動なさり、一日少しか(?)られない水を飲みたくても少し飲まれて、残りの水を小さな手拭いにひたしておいて、5時起床なので、一時間早く4時に起床され、御身体を湿布摩擦される。それが終えられてから深呼吸されて運動されておられた。起床1時間前に起きるという事は、とても容易なことでなく、監房であるのでそこはいつも監視役人が見廻ってくる。刑務所という所は、反動分子や脱獄者とか、放火を(?)(?)る。だから大先が早く起きるという事は本当に難しい立場であった。4時起床し摩擦によって御身を清められ健康を保った為運動なさり神の神殿として護られておられた。それはヨガに似た運動で、いつもそうして健康を保たれた。そんな難しい中で出獄される時の体重は70㎏という健康体であられた。この様にして大先生は刑務所の中にいつも御身を汚されず、勝利されたが、大先生が刑務所に入れらる前は沢山の食口がいた。その中には若い青年が5~6人と(?)(?)(?)ほとんどが婦人壮年であった。その人達は天からの御言を直接聞いて信仰を続けている霊的な人達であった。それらの人々は天から証を受けて仕えていた人々であったが、大先生が牢屋に入れられてから、その人達は全部疑い始め心が動揺しはじめたのである。どういう心を持つようになったかというと、「天から教示された方が本当に主であるならどうして刑務所に入らねばならないのか?」という刑務所につかまる前にあらかじめ知って、その場を逃げる事が出来なかったかと疑い始め「今まで、神が私に対して教えて下さったその事が本当に神が教えてくれるものであろうか」と。しかし、大先生は食口達が疑って大先生を裏切る事をよく知っておられたので1日も変わりなく1日3度いつも祈っておられた。大先生は「説教をきくため集まる人々にお祈りをする」そこで今日は何をお話するか。説教5~10分前に題目が決定する。ある人達は説教する為本を見たり参考書を開いたりして、何を説教するか決めて書きとってから説教に出る人が多い。しかし私はそういう風にはしない。私が今日一時間説教する為には、その三倍にわたる三時間の祈りはしておかねばならない。祈って話す事を決定する。」とおっしゃられている。だから食口達の為にいつも一人一人を心に描いてその人の為にお祈りをされる。普通対人関係では本当に「お前と私は死んでも一緒に行こう」といって、ある時裏切った場合「お前が私を裏切ったんだから私も裏切る」というふうになる。しかし大先生は誓いながら裏切って行った人達に対して裏切ることはされない。だから2年8ヶ月間継続して、その人達のためにいつも三度の祈りをされたのである。
 1950年6月25日 動乱勃発 2日間でソウルをのみこみ一週間で釜山まで攻めよせて来た。しかし再び国連軍の上陸により皆逃げだした。この裏側では、金日成、毛沢東、スターリンが密約をしていたのである。硫安工場も連合軍から逃げるため、5年以上の刑期のある人から順番に囚人の銃殺を開始した。
 1950年10月14日 596番から銃殺開始という時、国連軍によって解放された。大先生は牢獄生活の中でも天的計画を立てられ、12人の弟子を立たせる御計画で歩まれておられた。又、動乱の時、爆撃中でも未来の世界の御計画をえがかれ、そして又大先生を中心とする12m圏内は爆弾が落ちなかったという事である。
 出獄された1950年10月14日から1971年10月14日までの21年間にして共産主義が崩壊する時とされている。大先生は共産圏からの勝利を土台として再び平壌におかえりになられた。興南から平壌まで10日間の距離であった。そこで40日間滞在し休む間もなく食口達を訪ねて行かれた。いわば失った羊を捜す如く、時には元弼先生も代って使われた時もあった。
 12月4日 中共軍が参戦して北(平壌)から南(釜山)に避難しなければならない状態に入った。この時大先生は北から復帰した人は多くいた。中でも釜山まで一緒に同行されたのは元弼先生と牢獄で伝道した韓さんであった。他の人々もそれぞれ釜山に(?)(?)た。現在、三役事の方々も、平壌で伝道された方々である。
 南へ向う途中、韓さんは足の骨を折ってしまって歩けなくなってしまった。「私を捨てて行って下さい。」と懇願したが、大先生は「お前が行けないなら私も残る。」とおっしゃられ、結局は古自転車のハンドルを握られ背には韓さんを背負われ、元弼先生は荷物を持って出発された。大先生はとてもやせておられるが韓さんは体重が重く、山の上り下りがとても大変であった。一日30~32㎞の距離を歩まれる。4㎞もある海を渡られる時、その人を背負ってとても疲れ切っておられたが、舟にも乗れず引き返した。その時大先生は「今日は私達を兄弟のようによく迎えてくれる人に会うよ」とおっしゃられた。少し行くと共産軍がいて荷物を調べられ、中に聖書があるのを見つけられ打たれた。そして北に帰れと言われた。しかし反対の道を行くと一軒の家が見つかった。朝、”今日は親切に迎えてくれる人がいる”とおっしゃったようにとても歓迎してくれた。そのみ言の為に大先生は闘われておられた。大先生はひと言も辛いといえず一行を導かなければならない。元気の良い者に励ましはいらない。弱気を出したらサタンがざん訴する。

(つづく)
大先生は5年の刑期をどうしても、この少い食事で過さなければならないので、初めはこの食事を更に半分に減らして三ヶ月間半分で暮す訓練をして、その(?)は半分で淋しい。しかし自分の(?)(?)(?)に食べる分(?)(?)(?)れ(?)(?)であるが、更に追加して食べる事が出来るという考えを持たねば、5年という刑期をとうてい保てなかったのである。だから大先生は三ヶ月間食事は半分だけ食べて、後の半分は他人に分けてやっておられた。都会の人より、農村の人の方が食事の量がとても多いので、そういう人が刑務所に入って食事をすると、とても耐えられない。そういう食事がどの位、腹が減るかというと、その食事は豆が少し混じったニギリ飯であるが、それを与えられる時は、ちょっとした拍子から豆が落ちると、その豆粒、落ちた為に、その日は1日中気分が良くないといわれる程であった。あまりにも腹が減ったまま無理をしていると御飯を食べながら死ぬ人がある。すると一緒に食べていた人は、今死んだ人をあわれんだり同情したりするよりも、その人の口の中の御飯が問題なのである。だからその人が倒れるといち早く誰かが、その人の口の中の御飯を持って行くという本当に耐えがたい状態であった。約2~3000名を収容するその刑務所の総監督をしている人は青年の時キリスト教信者であった。その人が人民軍の警備隊に入り将校として働いていたが、その人は容ぼうからも思想的にも人望の厚い人であった。一方大先生は刑務所に入られてもあまり口を開かれなかった。何故なら共産主義国家では、そういう所には秘密に党員を送っているし大先生は時に人々から注目される立場にあった。ほとんど口を開かれなかったが、刑務所の人々から慕われていた。ある時、大先生は作業場で、昼食時間を利用して(?)(?)(?)(?)に近寄って「洗礼ヨハネが失敗した」事について話された。既成教会では洗礼ヨハネは非常に偉大なる聖者として尊敬されているから「そんな事はない。」と言って憤って叱った。その方の一言は大先生の生命を左右する立場にあった。その監督が、あの人は思想的に不安である反動分子であると刑務所の幹部に話されたらとても生命が危ない立場であった。しかし大先生がどういう内容を話されたかという事は、その人が天からみて、ある意義のある人たという事である。その人が「そんな事あり得ない」と言った時、大先生は「あなたがそんなふうに言ってはいけないですね。」とおっしゃられた。その晩、総監督の所に幻の中におじいさんが、現われて「今日、お前に話して下さったあの青年はどういうお方か、知っているか。そのお方の言う事は全部正しい。絶対にそのお方の話について行かねばならない。」と警告された。翌日の昼食時間に、大先生は再びその人に近づいて行って話をしたのである。その人は昨晩おじいさんから警告を受けているので、本当に申し訳なく黙っている。そういう時に、大先生は「昨晩、何か夢を見ませんでしたか。」とお聞きになられた。「この人はどうしてどういう事を知っているのかな」と不思議に思いながらその監督は昨晩起った事を全部お話ししてくれた。すると大先生は、又「イエス様のお母さん(マリヤ)は本当に責任を全うしなかった。」というようなとても信じられないような内容を話された。するとその人はヨハネの事までは良かったが今度こそ本当に怒ってしまった。その時、大先生は「そういう風に考えてはいけないんだが」といわれ、その晩、そのおじいさんが又現われて「お前はあの方がどういうお方かどういう人かわからないのか。」と言いながら、今度は本当に耐え難い苦痛を体に与えた。その監督のおじいさんに「あのお方の話を絶対に信ずるから許してほしい」と頼んだのである。翌日の昼時間大先生は、又、同じようにそういう事が起こらなかったかときかれた。その人は悔い改めながら、今度こそ信じ服従する事を誓った。そこで大先生は、もう一つの試験をするといって全く信じ難い イエス様の使命未完成の事について語られたのである。その人は愚かながら再び反対した。そると(?)(?)(?)の(?)(?)与えられた。本当に耐え難い苦痛を受けたのである。それが三日間続いて三日目に永遠に大先生の前に屈服して刑務所の中で大先生を先生として仕え奉ったのである。その人は大先生が本当に天から愛される天に(?)われた方である事を知り、今は弟子の(?)であるので大先生が苦痛を受けられる事が自分の苦しみのように感じた訳である。そこで大先生に「そういう苦しい事をしてはいけません。私が話せば非常にたやすい仕事がありますから是非ともそちらを選ぶように・・・。」と勧めた。しかし、大先生はその監督に「この刑務所の中で一番辛い仕事」を喜んで自らお選びになられた。興南には窒素工場があり肥料が山のように積んであった。終戦の当時人手不足で、その肥料が全部固ってしまったので、それを運ぶ為にはダイナマイトか何かで破壊してそれをつぶさなければならない。崩した肥料は40㎏入りのカマスに計りで計って入れ、それを縄でしばってから貨車のところ(52t)まで運んで行って積め込むのである。一日の責任の量は1300カマスを10人1組となって8時間労働でする仕事である。その責任量を全部出来ないと食事の量が減るというので皆命がけでやらねばならなかった。その中で一番辛い仕事は破壊した肥料をカマスに入れて、それを計りの上まで運んで置く仕事である。大先生はそれを選ばれて成し遂げられた。普通健康な人でも三ヶ月その仕事をして働いたら5ヶ月休んでそれでもその報酬で生活できるという重労働であったそうである。どんな健康な人でも7ヶ月その仕事をしたら体を痛めて肺病になる。それでも大先生はその仕事を選ばれた。冬パンツ一つで働いても汗だらけになる重労働であった。それでもその監督の勧めを聞き入れられなかった。大先生が牢屋に何か(?)(?)時、あらかじめ準備をしていた青年(金さん)から元弼先生が直接きかれた話によると、その方と大先生は一緒の部屋にいたが、日曜など全部仕事を休むので人々は眠るが大先生は日曜日でも眠るのをみたことがなかったといわれる。大先生は刑務所の中で働いている多くの人々の誰よりも一番難しい苦難を勝利しなければならないという心構えでおられたので日曜日も休まず、いつもめい想にふけっておられた。又、大先生は平壌に来られてから刑務所に入れられるまでは本当に常に涙されておられた。いつも礼拝には初めから終りまでずっと説教しながらも、本当に涙されない日はなかった。しかし刑務所に入られた瞬間から絶対に涙されなかったそうである。
 愛する子が刑務所にいて苦労するのを見る神の心情を思ってみる時、その苦労する私より苦労をさせねばならなぬ神の心情はもっと痛いことを知ってあられた故、神に対して絶対そういう弱い心を見せたくなかったのである。そして神に対して絶対、私の為に心配なら(?)(?)かえって神を慰められ、神に対して涙を流すとか、祈るとか絶対なさらなかったのである。
 又、大先生はお話は全くなされないが、おじいさんとか祖先の人々が現われて、その人に教えてくれるのである。「あの何監房の596番にお前の食物を送ってやれ。」と示されて何も知らないまま差し入れて行く。だから大先生は全く知らない人々から沢山の食物やいろいろ贈り物を与えられた。そういう方々があったので寂しくなかったそうである。
 そんなわけで、大先生から(?)外にいる食口達に、米、粉、着物を送ってくれるようにとの手紙があった。要求された品を送ってあげるが、いつ見ても新しく造って持って行った着物を着られず入獄される時の着物を出所なさるまでずっと着ておられた。実(?)牢の中での食事というと、米の粉と水でモチをつくりパンは御自分で作られて食られた。又、着物は全て御自分でつくられておられた。食口達から差し入れたそれが、大先生の御手に届いていないのではないかと疑ったが調べてみると、その差し入れた物は刑務所の内で、話を受けて大先生の監房に20名の人々が一緒に収容されていた。その人々は自分の家庭から米の粉とか差し入れがくると人に分けてやらない。その中には泥棒とかいう人もいるので差し入れるものを隅に置いて監房を出ると出ている間に全部盗んでしまうそうである。ある時、仕事から帰って来ると大先生の米の粉が全部なくなっていた。そうすると横の人は「先生の粉がなくなった」という。しかし大先生は黙っておられる。すると、その人達が自分のものが失なわれたように探しまわって見つかった時、その収容されている監房の人全部、御自身の囲りに座らせ、その盗まれた米の粉を持ってきなさいと言われ、持ってくると大先生はシッキという器を盗人に上げて「お前が、どれ程欲しいのか必要なだけ全部持って行きなさいと。」任せておやりになると、囲りの人々は持主である先生が(?)ういうので、口をはさむ事ができず心の中でその人が憎らしくてたまらない。しかし大先生が、御自分のものを御自分で処理なさるのであるから何も言えずに黙っている。そうすると、盗人はちっともそれを持っていかず顔をうつむいて黙っている。すると大先生は、その器でもって、その粉を盛り上げてそれをその人にお授けになられた。又周囲にいる人々にも全部分けておやりになったというエピソードがあった。

(つづく)