例えば、子が親に一つの願いをして叶えられた時、とてもうれしい。それは自分自身から来たうれしさではなく、親から(?)たので、親の苦労に(?)(?)(?)れた(?)(?)を子供は喜ぶ。大先生はどの様にして祝福を得られたのか。それは私たち人間のために祝福を与えんが故、大先生は苦労されて来られた。だから、うれしい事があってもその背後の御苦労を思い人類の救いは神から始まった。しかし人類は信じない死の立場から救うため、大先生を十字架に架けなければならない神の立場である。だから私達の信仰の道においても大先生を信じなければ、大先生の十字架がある事を考え、良い事を考える為の大先生の背後を考える者とならなければならない。ある時夕食を済ませ休もうかとおっしゃられたが、すぐ休まず進もうといわれて進んで行った。三時間位進んだところで休んだ。ところが翌朝、橋を渡り切った時、共産軍が橋を閉めてしまった。又12月で火がな時、元弼先生は木を求めて墓からタンカの木を持って来て炊いたら、大先生は何も知らないはずなのでそれはどういう木かとお尋ねになられたのである。こうして40日かかって 1951年1月17日釜山に到着された。そこは避難民であふれ、大先生のお(?)は乞食同様で髪もボウボウであった。
韓さんは多くの愛を受けながら結局は自分の事のみを考えて離れてしまった。(現在は戻っている)
2月6日、一流の新聞記者が来て3名に会見した。翌日はCIAが来た。ある時、大先生は早大時代のお友達の厳徳絞さんにお会いになった。その時、厳さんは、夢の啓示を大先生に告げた。「24年前に来たイエス様に妹があって、その妹が自分の兄であるイエス様の事で、母マリヤに恨みがある。鍵をとって、又門をあけると、その中に又小さな門があって、その門をあけなければならない。その門をあけなければ、恨みを解く事ができない。」と教えてくれた。ところが、その小さな門を開けるには鍵が必要である。その鍵をもっている人は、文鮮明先生である」と教えてくれた。その人は仏教の人であるから、キリスト教のことも聖書の内容も全く知らない。朝になって目をさまして大先生に告げるときは、昨日の夕方までは「君」「お前」といっていた人が、ひざまずいて話すのである。その人が、その鍵は何かとしきりに聞くので、大先生は、ずっと歴史をお話しになり、その時から15年経るがその人は大先生を知って熱心について来る。その事があってから、その友人と一緒に本の表紙を造る仕事をしながら原理の原論を書き始められたのである。その原文は保管されており、今出版されている原理は劉協会長様(死去)が体系づけて説明されたものである。
最初の頃、大先生は、第4ふ頭で沖仲士をされておられた。元弼先生は、とても見るに忍びないので「私が働きますから止めて下さい。」と言って街まで出て米屋(誤読の可能性あり)の所で絵を画いたり、又、木工部で働かれた。それが意外によく売れたので、大先生は夜中2~3時まで一緒に手伝っておられた。大先生はささやかな食物を得て、み言を伝えておられた。その頃、部屋も、何もなかった。初め牢獄で迎えてくれた金さんに会われた。牢獄にいる時は、迫害がはなはだしく人々は全部、大先生のおられた刑務所から迫害の少ない所に移っていった。その時、金さんが、「先生、私はあそこへ行ってもいいですか。」と聞かれたので、大先生は「行っても良い。しかしお前はそういう所に行っても危ない時は逃げなさい。」とおっしゃられた。ところが、ある牧師さんが、大先生の事を本当に知ってついてきた人であった。大先生はその人に対し「貴方は、あそこへ行ってはいけません。」とおっしゃられた。しかし、牧師さんは、大先生のみ言を聞かずに行ってしまったのである。しかし金さんは大先生の言われたように逃げて助かったのである。ある時、金さんは、霊的に不思議な事があって結婚したのである。大先生は厳さんと働いておられる時、部屋がなかったので、結婚して何日も経たない金さんの四畳の小さな部屋に行って一緒に暮され、その場で原理の原文を書かせたのである。
ある時、「ここでは、どうしても原理を書く事が出来ないから、お前が下宿している所に、私はいかなければならない。」と元弼先生におっしゃられ、元下宿先に住まわれるようになる。その部屋は三畳間なので、大先生の頭と足が壁にぶつかるそういう狭い所で原理を書かれ開拓伝道をされたのである。そこへ食口達が集って来た。
例えば、ソウルに居られる時、信仰で交わってた人がいた。その婦人(韓国の一流新聞の編集局長の奥さん)は、聖霊を受けて約40年の信仰生活をして霊通する人であった。その人を訪ねてくるようにと約束されていた。そこで、その婦人が大先生を訪ねてきた。その時、その人は霊通しているので色々とお話しされるのに簡単であった。大先生は、その人の信仰をよく御存知でいらした。結論的に・・・何をおっしゃられたかというと「世界の全部の人間と文鮮明とどちらが高いか祈ってみなさい。」と。その人は大先生の事を普通の青年ではないとよく知っていたが、さすがに”世界の人類と比べよ”とおっしゃるのは、納得いかなかった。又「イエス様と大先生とどちらが高いか祈ってみなさい。」とおっしゃられた。それでその婦人はとても信じられなくなり、家に帰ってしまった。帰ってからも大先生に会いたいという気持ちがない。しかし大先生のお話を否定しようとすると心が暗くなり、納得しようとすると心が平和になるのである。「これではいけない!!生命がけでも祈って解決しなければならない。」という決意をして再び大先生を訪れて来た。大先生が住まわれておられる家の前の山に登って、お祈りをしたのである。「神様、この問題に対して教えてもらわなければなりません。」と心から祈っていると「大先生のお話の通りだ。文先生が高い」と教えてくれる。しかし実感が来ない。そこで又祈っていると、イエス様より無形の神が現われて、いつも無形の神が現われていろいろその人に教えてくれたのである。それは大先生が座っていらっしゃると無形の神がだんだん大先生の御身体に入ってしまって全くみえなくなってしまった。大先生と無形の神がいらっしゃるが、その無形の神が大先生の実体の中に入られて残っているのは、大先生お一人であったというのである。これは何を示すかというと無形の神が大先生の実体の中に臨在され一体であるということの証なのである。そういうふうな事があって、その下宿で大先生に礼拝されたのであるが、その部屋があまりにも狭くてどうにもこうにも出来ない貧しい生活であった。そういう中でも、いつも歌を失わないで、お友達の厳さんは歌が上手で何回も歌わせられた。下宿の所から、少し上った所に共同墓地があり、そおに(?)地が少しあったので、いつもそこに登られてお歌いになりながらめい想にふけっておられた。山の上に草を敷かれ(?)をしのぐ場所をお造りになったり石垣の上に家とはいえない粗末な土の家を建てられ、ダンボールを敷いて休まれた。雨が降ると水が流れ込んで来るようなものであった。その住所は釜山市(?)区風(?)洞1573で今でも残っている。これは最初のメシヤの家であった。そこの近くに畳一(?)の岩があった。そこで大先生は毎日毎日、父母の日を求めて祈られた涙の石がある。
大先生がひらめいて語られる時、元弼先生がダンボール書きつづり、時には、寝ている時も起して書いてくれと頼まれる。こうして書きとどめられたのが再臨論であった。
ある時、篤信の婦人((?)(?)実さん)が山の方に光を見て、そこへ導かれるように行ってみると、大先生が座っておられた。その時、夫人が後1953年に劉孝元協会長を伝道された。劉先生は京城大学医学部出身で足がカリエスで悪くしておられ、5年間聖書を学ばれたが解らず、婦人から伝道されて、タンカで運ばれながら病床でみ言を聞かれた。
1951年5月10日に入教され、最初の婦人弟子となられたのである。
大先生が下書きされたり、ノートをもらって、それを土台として原理講議され、多くの人が(?)ている。大先生は「人類を失っても劉協会長を失いたくない」とおっしゃられておられた。劉協会長より少々早く 1952年12月1日李耀翰先生が入教されている。大先生は1946年北に向われた時、別れたきりの奥様に7年ぶりにお会いになられた。しかし、その時も大先生は、奥様を冷くあしらわれた。それからというもの奥様は、大先生を迫害し始めたのである。1946年~1952年までの第1次七年路程は2人の牧師と腹中教の不信仰の故に、(?)(?)主義、キリスト教の三主権からうたれ、又、第一のエバの不信仰の故に摂理が失敗したのである。1953年第二次七年路程の出発として大邱に向かわれる。大邱では大先生のもとに多くの若い上流クラスの婦人達が集まって来た。(?)(?)の(?)りの(?)(?)ら(?)に魅せられて夫のことを忘れて大先生に仕えた。聖い大先生を知った婦人達は自分の夫が汚れて見えた。部屋を(?)(?)したない当時は話しながらその場に、そのまま寝ることが多かった。そして婦人達は朝早く家に帰る。それだから夫達から迫害を受け、大先生のもとに逃げてくる状態で夫達が連絡しあって大先生を迫害するようになった。教会を変えても婦人達は霊界から示されて大先生の後を慕ってくる。だからなお迫害が続き、上層部からも迫害をうけられた。大先生はその地に恨みを残して去られた。そしてソウルに移られたのである。
(つづく)
韓さんは多くの愛を受けながら結局は自分の事のみを考えて離れてしまった。(現在は戻っている)
2月6日、一流の新聞記者が来て3名に会見した。翌日はCIAが来た。ある時、大先生は早大時代のお友達の厳徳絞さんにお会いになった。その時、厳さんは、夢の啓示を大先生に告げた。「24年前に来たイエス様に妹があって、その妹が自分の兄であるイエス様の事で、母マリヤに恨みがある。鍵をとって、又門をあけると、その中に又小さな門があって、その門をあけなければならない。その門をあけなければ、恨みを解く事ができない。」と教えてくれた。ところが、その小さな門を開けるには鍵が必要である。その鍵をもっている人は、文鮮明先生である」と教えてくれた。その人は仏教の人であるから、キリスト教のことも聖書の内容も全く知らない。朝になって目をさまして大先生に告げるときは、昨日の夕方までは「君」「お前」といっていた人が、ひざまずいて話すのである。その人が、その鍵は何かとしきりに聞くので、大先生は、ずっと歴史をお話しになり、その時から15年経るがその人は大先生を知って熱心について来る。その事があってから、その友人と一緒に本の表紙を造る仕事をしながら原理の原論を書き始められたのである。その原文は保管されており、今出版されている原理は劉協会長様(死去)が体系づけて説明されたものである。
最初の頃、大先生は、第4ふ頭で沖仲士をされておられた。元弼先生は、とても見るに忍びないので「私が働きますから止めて下さい。」と言って街まで出て米屋(誤読の可能性あり)の所で絵を画いたり、又、木工部で働かれた。それが意外によく売れたので、大先生は夜中2~3時まで一緒に手伝っておられた。大先生はささやかな食物を得て、み言を伝えておられた。その頃、部屋も、何もなかった。初め牢獄で迎えてくれた金さんに会われた。牢獄にいる時は、迫害がはなはだしく人々は全部、大先生のおられた刑務所から迫害の少ない所に移っていった。その時、金さんが、「先生、私はあそこへ行ってもいいですか。」と聞かれたので、大先生は「行っても良い。しかしお前はそういう所に行っても危ない時は逃げなさい。」とおっしゃられた。ところが、ある牧師さんが、大先生の事を本当に知ってついてきた人であった。大先生はその人に対し「貴方は、あそこへ行ってはいけません。」とおっしゃられた。しかし、牧師さんは、大先生のみ言を聞かずに行ってしまったのである。しかし金さんは大先生の言われたように逃げて助かったのである。ある時、金さんは、霊的に不思議な事があって結婚したのである。大先生は厳さんと働いておられる時、部屋がなかったので、結婚して何日も経たない金さんの四畳の小さな部屋に行って一緒に暮され、その場で原理の原文を書かせたのである。
ある時、「ここでは、どうしても原理を書く事が出来ないから、お前が下宿している所に、私はいかなければならない。」と元弼先生におっしゃられ、元下宿先に住まわれるようになる。その部屋は三畳間なので、大先生の頭と足が壁にぶつかるそういう狭い所で原理を書かれ開拓伝道をされたのである。そこへ食口達が集って来た。
例えば、ソウルに居られる時、信仰で交わってた人がいた。その婦人(韓国の一流新聞の編集局長の奥さん)は、聖霊を受けて約40年の信仰生活をして霊通する人であった。その人を訪ねてくるようにと約束されていた。そこで、その婦人が大先生を訪ねてきた。その時、その人は霊通しているので色々とお話しされるのに簡単であった。大先生は、その人の信仰をよく御存知でいらした。結論的に・・・何をおっしゃられたかというと「世界の全部の人間と文鮮明とどちらが高いか祈ってみなさい。」と。その人は大先生の事を普通の青年ではないとよく知っていたが、さすがに”世界の人類と比べよ”とおっしゃるのは、納得いかなかった。又「イエス様と大先生とどちらが高いか祈ってみなさい。」とおっしゃられた。それでその婦人はとても信じられなくなり、家に帰ってしまった。帰ってからも大先生に会いたいという気持ちがない。しかし大先生のお話を否定しようとすると心が暗くなり、納得しようとすると心が平和になるのである。「これではいけない!!生命がけでも祈って解決しなければならない。」という決意をして再び大先生を訪れて来た。大先生が住まわれておられる家の前の山に登って、お祈りをしたのである。「神様、この問題に対して教えてもらわなければなりません。」と心から祈っていると「大先生のお話の通りだ。文先生が高い」と教えてくれる。しかし実感が来ない。そこで又祈っていると、イエス様より無形の神が現われて、いつも無形の神が現われていろいろその人に教えてくれたのである。それは大先生が座っていらっしゃると無形の神がだんだん大先生の御身体に入ってしまって全くみえなくなってしまった。大先生と無形の神がいらっしゃるが、その無形の神が大先生の実体の中に入られて残っているのは、大先生お一人であったというのである。これは何を示すかというと無形の神が大先生の実体の中に臨在され一体であるということの証なのである。そういうふうな事があって、その下宿で大先生に礼拝されたのであるが、その部屋があまりにも狭くてどうにもこうにも出来ない貧しい生活であった。そういう中でも、いつも歌を失わないで、お友達の厳さんは歌が上手で何回も歌わせられた。下宿の所から、少し上った所に共同墓地があり、そおに(?)地が少しあったので、いつもそこに登られてお歌いになりながらめい想にふけっておられた。山の上に草を敷かれ(?)をしのぐ場所をお造りになったり石垣の上に家とはいえない粗末な土の家を建てられ、ダンボールを敷いて休まれた。雨が降ると水が流れ込んで来るようなものであった。その住所は釜山市(?)区風(?)洞1573で今でも残っている。これは最初のメシヤの家であった。そこの近くに畳一(?)の岩があった。そこで大先生は毎日毎日、父母の日を求めて祈られた涙の石がある。
大先生がひらめいて語られる時、元弼先生がダンボール書きつづり、時には、寝ている時も起して書いてくれと頼まれる。こうして書きとどめられたのが再臨論であった。
ある時、篤信の婦人((?)(?)実さん)が山の方に光を見て、そこへ導かれるように行ってみると、大先生が座っておられた。その時、夫人が後1953年に劉孝元協会長を伝道された。劉先生は京城大学医学部出身で足がカリエスで悪くしておられ、5年間聖書を学ばれたが解らず、婦人から伝道されて、タンカで運ばれながら病床でみ言を聞かれた。
1951年5月10日に入教され、最初の婦人弟子となられたのである。
大先生が下書きされたり、ノートをもらって、それを土台として原理講議され、多くの人が(?)ている。大先生は「人類を失っても劉協会長を失いたくない」とおっしゃられておられた。劉協会長より少々早く 1952年12月1日李耀翰先生が入教されている。大先生は1946年北に向われた時、別れたきりの奥様に7年ぶりにお会いになられた。しかし、その時も大先生は、奥様を冷くあしらわれた。それからというもの奥様は、大先生を迫害し始めたのである。1946年~1952年までの第1次七年路程は2人の牧師と腹中教の不信仰の故に、(?)(?)主義、キリスト教の三主権からうたれ、又、第一のエバの不信仰の故に摂理が失敗したのである。1953年第二次七年路程の出発として大邱に向かわれる。大邱では大先生のもとに多くの若い上流クラスの婦人達が集まって来た。(?)(?)の(?)りの(?)(?)ら(?)に魅せられて夫のことを忘れて大先生に仕えた。聖い大先生を知った婦人達は自分の夫が汚れて見えた。部屋を(?)(?)したない当時は話しながらその場に、そのまま寝ることが多かった。そして婦人達は朝早く家に帰る。それだから夫達から迫害を受け、大先生のもとに逃げてくる状態で夫達が連絡しあって大先生を迫害するようになった。教会を変えても婦人達は霊界から示されて大先生の後を慕ってくる。だからなお迫害が続き、上層部からも迫害をうけられた。大先生はその地に恨みを残して去られた。そしてソウルに移られたのである。
(つづく)