#2826 腹黒・2 | プロパンガス

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つかこうへい追悼シリーズ第14弾
『つかへい腹黒日記 PART 2』

ちょっとレトロだけど、三谷幸喜の『古畑任三郎』を初めて観た時は正直、「やられた」と想った。

僕は日頃から、「映画でも何でもおおよそ芸術というものは、『何を描くか』ではなく『どう描くか』がだいじ。ストーリーを事前に知っていても楽しめるような映画こそが良い映画」と散々言い放してる。

その僕にとっては、毎週の放映の冒頭で殺人シーンをやらかし、犯人をバラしてしまうという『古畑任三郎』の手法には度肝を抜かれた。

ただ、その理念だけについて言えば、今から30年近くも前、この連載エッセーの1982年6月8日につかこうへいが早くも書いていた。

フィナーレで出演者が、「犯人は、決して誰にも教えないで下さい」ともっともらしく言うのであきれてしまった。
芝居というのは、たとえ客が原作を読んでいてストーリーも犯人も知っていたとしても、役者の演技力で観てる者をだまし、舞台に引き込む力をもつことである。それが演技の根本であり、舞台の上から役者が犯人を教えるなと客に声をかけるなど、本末転倒というものだ。
謎解きの結果を教えるだけが目的なら、わざわざ金を払って劇場に芝居を観に来なくても、家で小説を読んでいればいい。客は、字づらの犯人を観たいのではなく、どう演劇的に犯人が解明されていくのかを見に来ているのである。
俺がこの芝居を演出するなら、むしろまずチラシに「犯人は刑事です」と刷り込んでぶち上げておいてから、客に芝居をみせる。芝居にはこれだけの力学が必要だということだ。

三谷幸喜、きっとこのエッセー、読んでるよね。

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高校生の頃にこのエッセー集を読んだ時にはまったく何のことだかわからず、それどころか読んだことさえまったく記憶に残っていなかったのが、10月21日・フィナーレの日記。

パイをかきまぜるオレに、県会議員がポツリと言った。
「似てまんなあ、あんたの打ち筋」
「えっ」
「テツに」
「はあ?」
「あの頃、戦後すぐ、テツが上野で打っとった打ち筋そっくり」
「テツ ・ ・ ・ ですか」
思い当たる節はなかった。
「そうや、本名は知らんが、あの頃の名前で確か“坊や哲”って言いましたかなあ、はげしい麻雀打ちよりました」

15、6歳の頃の僕は、それが何を意味するのか、そこまでの読書は積んでいなかった。

教養がないというのは、恥ずかしいもんだね。

僕が映画を観て“坊や哲”と“ドサ健”にシビれたのは、それから1年以上も先のことだった。
http://bit.ly/g8HJjf