「皇族大臣」武内宿禰の謎(歴史エピソード第12回) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

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<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

科学研究費調書の事が頭から離れず誠に心苦しい時期ではありますが、更新は続行いたします。

とにかく昨日締め切りの原稿は仕上げ、気晴らしに酔って戻って参りました。


さて、昨日の記事ではhttp://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10683766839.html で武内宿禰を皇族大臣と書きました。


(1)大臣とは家来「臣」のトップ。字の上では皇族は成れないはずなのですが。

皇族大臣、よくよく考えてみれば奇異なことです。

大臣の「臣」は本来「家来」という意味であり、皇族は皇帝・天皇の家来とは言えないはずなのです。

事実、中国から大きく「律令制度」の影響を受けていた平安時代においては、そのことは厳格に認識されていた様です。

飛鳥時代に皇族のために用意されていた太政大臣も知太政官事(ちだじょうかんじ)になり、そして藤原良房の太政大臣任官以来は臣下のポストとなります。

例えば記紀60代目・醍醐天皇皇子の兼明親王(かねあきらしんのう)は、臣籍に降下して源兼明。そして、左大臣まで昇進した人物です。

※臣籍降下・(醍醐)源氏については、歴史用語の基礎(第12回:賜姓皇族)http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10660628752.html を是非ご参照ください。

ところがこの後で天皇の命令により皇籍に復帰。大臣を辞することになりました。「皇族は大臣になれない」という「ルール」はこの時代には厳格だったのです。

もちろんこの人事は不自然。実は藤原頼忠を左大臣に引き上げるための藤原氏の陰謀ということです。


しかしながら、時代が下るにつれて再びこのルールが曖昧になってまいります。

東久邇宮 稔彦王(ひがしくにのみや なるひこおう)は御存じでしょうか?

第二次世界大戦敗北後に組閣。皇族で唯一内閣総理大臣になった人物です。

戦後の混乱期の「特例」という訳ではありません。なんと、王は陸軍大臣にもなっているのです。


確かに本場中国では大臣はあくまでも「臣」。字の持つ意味からしても皇族は大臣になれないはずなのですが、日本において厳密に適用されているのは「律令制度がしっかりとしている時期だけ」だということが見て取れます。


皇族である武内宿禰が大臣(おおおみ)なのも、当時の「おおおみ」という日本独自の職制に漢風の「大臣」という漢字を当てたから齟齬を来たしているだけなのかもしれません。


(2)大臣として「数代の天皇に仕えた」とは何を意味するのか?

武内宿禰は景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の大臣だったと伝られますが、もしも系譜が正しければそれほどまでに長命だったはずは有りません。

それゆえにその実在性が疑われている訳ですが、景行・成務・仲哀・応神・仁徳が(直系としては成務の代わりに兄の日本武尊が入るものの)「5世代」であることの方が虚偽であるという可能性があります。


兄弟相続を父子相続と記していたり、「架空の天皇」を入れての「5代」でしたら、武内宿禰の様な「大臣」の実在は可能でしょう。


武内宿禰(またはそのモデルとなる人物)が実在したのならば、少なくとも「武内宿禰の大臣就任期間」か「皇室の系譜」かのどちらかには「何らかの誤り」がありそうですね。