あすか・よしの談義(第14話:吉野の中で天武天皇を語る⑤) | Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

Prof_Hiroyukiの語学・検定・歴史談義

・歴史旅行記や言葉(日本語・フランス語・ドイツ語など)へのこだわりや検定・歴史散策などの実践録を書き綴ろうと考えています!    
                      
<本記事を引用された場合、その旨を御連絡頂けると有り難いです。>

本シリーズ「天武天皇を語る④」http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10621383200.html の続きです。

-----

(7)天武天皇でも後継者問題には悩まされていた。

Prof. H(以下H)「皇太子に等しい扱いだった事も有る太政大臣に高市皇子が任命された理由として考えられるのは二つ。まずは単純に壬申の乱での功績に報いるため。そしてあと一つは・・・


Y女史(以下Y)「皇太子の草壁は頼りないから補佐をしてくれという事ですね。」


H「補佐の役割とは公言されていたのでしょうね。ところで今Yさんは『頼りない』と草壁の事を仰いましたが、高市や(すぐ下の弟である)大津皇子に対する様な賞賛の言葉が、なぜか草壁に対しては同時代の記録に何ひとつ残されていないという事が草壁の資質を物語っている様に感じてなりません。もちろん、額面通り病弱だったというだけの事かもしれませんが。」


Y「それでも、愛する鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)、後の持統天皇が産んだ皇子だから後継者にしたのですね。」


H「まあ、『愛する』というよりも『五月蠅い』かもしれません。(苦笑)

一方で、高市皇子は天武の若い時の子であって苦楽を共にしてきた訳です。その上、壬申の乱で見せた様に勇猛さを持った皇子でもあり、彼に皇位を継がせたいという気持ちが有ってもおかしくは無いと思います。

以前にお話ししたと思いますが、かなり時代を遡れば継体天皇は嫡子の欽明天皇ではなく庶長子の勾大兄皇子(安閑天皇)に皇位を継がせようと色々な事をした訳ですよね。

勾皇子も継体の若い時の子であるので状況は似ている点も多いと思います。」

※継体から安閑への譲位については、歴史用語の基礎(第7回:「皇太子制」と「大兄制」,後編)http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10602952008.html に詳しく説明しています。


Y「そうでした。病弱の草壁が早くに亡くなるかもしれませんし、その場合の混乱を起こさないための吉野の盟約だったのでしょうから。ただ、高市よりも上位に大津が居ましたが。」


H「そうですね。大津が即位してもそれを補佐せよという事なのかもしれません。母親の家柄が低いのに即位させると、大友皇子(弘文天皇)の様に支持をしない者たちが出てくるかもしれませんしね。

その代わり太政大臣の栄誉は後代に伝えられる様にしたという事でしょう。この系統は高階氏として存続しますし、特に長屋王は皇孫なのに皇子に見たてられて長屋親王と呼ばれていた訳ですからね。

※この件に関しましては、本シリーズ前回http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10621383200.html を御参照下さい。

いずれにしても、吉野の盟約は『六皇子の盟約』ともいわれ、皇位継承の優先順位を天武が皇子たちに誓わせたという内容でした。天武天皇でさえも、後継者問題に対してはこの様な回りくどい儀式をせざるを得なかったというのが歴史の不思議といえば不思議です。御心中は察して余り有るのですが、天武天皇のされ方のうちでここだけが非常に歯切れが悪い様に思えて来るのです。」


(8)エピローグ~蔵王堂歴史年表http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10563414822.html をあとに。

Y「失礼ながら、天武天皇も人の子という訳ですね・・・あ、結構いい時間になりましたよ。」


H「おおっ。ケーブルの最終便まで余り時間がありませんね。」


Y「歩いても駅まで行けなくは無いんですが、往復券を買っていますので・・・」


H「仕方有りません。柿の葉ずしはまた今度という事にして、そろそろ降り始めましょう。」(天武天皇編おわり)

※ケーブル:http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10619255636.html

※※柿の葉ずし:http://ameblo.jp/prof-hiroyuki/entry-10586670801.html